♯544【KT-50】先史・神話に浸る旅 ~鹿島神宮~ | コトバあれこれ

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 先月、神話に関係している茨城県にある鹿島神宮を参拝してきた。鹿島神宮は常陸国(現在の茨城県)で最も社格が高いとされる一の宮で、日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社という格式の高い神社である。そして、日本最古の神社の一つとされており伊勢神宮、香取神宮と共に神宮を名乗ることが許されている由緒ある神社である。鹿島神宮の創建は非常に古く、神武天皇元年(紀元前660年)と伝えられており、主祭神としては武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)が祀られている。

 武甕槌大神は「記紀」神話に出てくる剣神で建御雷神とも評されている。神々の国である高天原(たかまがはら)から葦原中国(あしはらのなかつくに・現在の日本)へ天降った。武甕槌大神は、香取神宮の主神である経津主神(ふつぬしのかみ)とともに出雲で大国主命(オオクニヌシ)と国譲りの交渉をして日本の平定に貢献した。加えて、初代天皇神武天皇の東征の時、熊野の地で土地神の毒に倒れてしまった窮地を武甕槌大神の神剣である「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」で救うことにより、神武天皇の日本平定に貢献した神である。その故あって神武天皇より紀元前660年に武甕槌大神のゆかりの地に鹿島神宮が創建されたのである。この謂れにより、武甕槌大神は武道の神、開拓の神として崇敬されている。

 一方、日本国の成り立ちに関して、鹿島地方の考古学の研究の結果、日本国の先史時代(縄文時代)において、鹿島神宮のまわりに多くの貝塚や遺跡が見られ、神話の記述を裏づけるような遺跡が数々存在することが確認されている。東北大学名誉教授の田中教授によれば、先史時代に東日本には日高見国と呼ばれる国が存在しており、むしろ日本国の中心は東日本にあったと考えられ、鹿島は高天原からの天孫降臨の出発点であったと考えられるとのことである。  

 現在でも、鹿島神宮では「鹿島立ち」という言葉が残っており、12年に一度の午年には、水上の一大祭典である「御船祭」が営われている。このことは、天孫降臨が「鹿島立ち」から始まり、鹿島から鹿児島への海からの降臨であったと御船祭によって象徴される。そのとき、この神も、それに加わって、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫であり、宮崎の高千穂に降臨したといわれる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を助けたと考えられている。従って、鹿島神宮は「すべての始まりの地」と呼ばれているのである。

 実際に鹿島神宮を歩くと境内は広大で、約70ヘクタールにも及ぶ自然豊かな森に囲まれており、その中に重用文化財としての楼門、本殿、奥宮などが点在している。それらを巡っていると深い森の中から清らかな空気の流れが感じられ心から癒される。

 楼門をくぐり本殿に向かったが、残念ながら現在楼門は修復中で外側に保護シートがかかっており拝見することは出来なかった。しかしながら、本殿を参拝したときには、神官たちが「大祝詞」を奏上していた時に遭遇し、しばしの間立ち止まって聞き入っていたものであった。その奏上を聴きながら、国の安泰を祈る作業を1000年以上毎日行われていたことを感じながら感慨に浸った。

 その後、奥宮に向かう奥参道の中ほどあたりに、この神社のもうひとつの大きな見どころである鹿苑があった。「国譲りの神話」において武甕槌大神に天照大神の命を伝えに来たのは、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)だった。そのためこの神社では、現在も、鹿が神様として大切にされているのである。

そして、その後奥宮を改めて参拝した。奥宮は徳川家康により奉納されたものであり重要文化財となっている。

 奥宮参拝の後、奥宮の奥にある要石(かなめいし)に向かった。地中深くまで埋まる要石が、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられており東日本大震災の時もこの要石によって津波を防いでもらったと信じられている。

 その他、境内には清らかな湧き水が湧く御手洗池(みたらしいけ)があり、この池の水は飲むことができ、「鹿島の神水」として親しまれている。

 今回、神話の世界に浸りながらゆっくりと参拝することが出来た。先史の人々の心の社である鹿島神宮の空気に浸り、先人の思いを追想しながら参拝することが出来た。久々に心がすがすがしく充実した一日を過ごした旅であった。

<K.Takagi>