五月二日・信孝自刃 | kan-sukeのアメブロ

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天正十一年(1583年)五月二日、織田信長の三男・信孝が兄の信雄に追い詰められ、尾張・内海の野間大御堂寺で自刃しました。

この、内海の野間というのはかつて平治の乱で破れた源義朝(頼朝・義経らの父)とその乳兄弟・鎌田政清が、政清の舅である長田忠致を頼って落ち延びたところ。しかし忠致は平家からの恩賞を目当てに二人を裏切り、騙し討ちにしてしまったのです。それもあってか、信孝の辞世の句として

『昔より 主をうつみ(内海・討つ身)の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』
と詠んだ、とされています。
しかしながら、文武に秀でていたと言われる信孝がこんなベタな句を詠んだとは信じがたく、徳川の時代になってからの創作なんじゃないかなというふうに個人的には思っております。ちなみに、信孝の容姿は信長の息子たちのなかで最も父に似ていたと言われております。

次兄の信雄とはそれぞれ別の側室から産まれた同い年で、信長に無断で伊賀を攻めて大敗して(第一次天正伊賀の乱)一時は信長に親子の縁を切られそうになった信雄に対し、信孝は各地で戦功をあげ四国攻めの総司令官に任命されるなど何かと対照的。しかし信孝が四国に渡る直前に本能寺の変が勃発、大坂にいた信孝のもとには明智勢が次は大坂を攻めてくるというデマに混乱した脱走する兵が相次ぎ、中国大返しをやってのけた秀吉軍と合流して明智軍を破りますがその後は秀吉にしてやられてしまうわけですが・・・秀吉に対して、信雄に対して。あるいは父・信長や長兄・信忠に対してどんな思いを抱いていたのでしょうか。26歳の短い生涯、さぞかし無念だったことでしょう。