二月七日・蒲生氏郷の命日 | kan-sukeのアメブロ

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先日、都内で行われた『大関ヶ原展』の記者発表会にて、女優の杏さんが好きな武将の一人として蒲生氏郷の名前を挙げ、アナウンサーが氏郷のことを知らず赤っ恥をかくということがありました。個人的には、アナウンサーという職業柄、蒲生氏郷クラスの武将は知っておいてほしいのですが・・・で、旧暦の二月七日は蒲生氏郷の命日にあたります。


文禄四年(1595年)二月七日、蒲生氏郷が40歳の若さで亡くなりました。若くしての急死だったため、秀吉や三成などの手の者による暗殺説も根強く残っているほどです。


蒲生氏郷は、近江の六角氏に仕えていた蒲生賢秀の嫡男として生まれ、六角氏が織田信長に敗れると、賢秀は信長に仕えることとなり氏郷を人質として岐阜の信長に送ります。しかし、信長は氏郷の器量の大きさをひと目で見ぬき、自らの娘を妻として娶らせ、忠三郎賦秀と名乗らせます。


蒲生家の祖は藤原秀郷であるとされ、賦秀の『秀』や氏郷の『郷』は秀郷に由来するものだと考えられています。本能寺の変の際には父・賢秀と連携して信長の家族を匿い、光秀の誘いを断って信長への忠義を貫きますし、秀吉の時代になってからも伊勢、そして会津へと移封されますが石高は増えてゆき、最終的には92万石の大大名に上り詰めます。ちなみに、氏郷を名乗るのは小牧長久手の戦いの頃からですが、賦秀だと秀吉の『秀』を下にしているのでこの名ではまずいだろうという配慮からのようですね。


また、氏郷は利休七哲の筆頭に挙げられており、茶の湯の道でも優秀な方だったようですね。早世が惜しまれる名将であり、氏郷があと10年、せめてあと5年長生きしていたら天下はどうなっていたか・・・ちなみに、氏郷は側室を一切もたず、信長の娘である妻・冬姫と良好な関係を保ち続けたそうです。黒田官兵衛孝高もそうでしたが、最近の戦国大河ドラマの主人公は側室を持たなかったり、実際にはいても登場しなかったりすることが多いので、2018年の大河ドラマの主人公に蒲生氏郷はいかがですか、NHKさん!