軍師官兵衛#48~天下動乱~ | kan-sukeのアメブロ

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観劇した舞台のことなど書いていました。
2015年9月より、新たにブログを作成し
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慶長五年七月、佐和山に蟄居していた石田三成が家康打倒をかかげ大坂城に入った。これを受け、家康も動く。家康は東から、三成は西から味方を増やしていった。その頃、如水は農民や町人を兵として雇い鍛え上げようとしていた。武具を持たない者には武具を与え、二重取りしようとする者には二人分励むよう言って聞かせた。そして、雇った者たちに対し、黒田に仕えたいという者は必ず雇い入れると村々に広めるよう命じた。如水のもとに集まった数は、長政が率いる五千四百を上回る勢いであった。


三成は、家康に従い関東に下った諸将の妻子を人質にとるよう増田長盛に命じる。また、如水に対しても味方につくよう書状を送っていた。恩賞は思いのままとの誘いに如水は、九州のうち七ヶ国を約束すればお味方致すと返した。


大名の妻子は大坂城へ入るよう通達があり、黒田屋敷の光と栄は奉行の見張りの目をかいくぐるため俵の中に入り、太兵衛が担いで屋敷の外へ脱出、出入りの商人、納屋小左衛門の所有する蔵の中で身を潜めていた。一方、善助は光と栄の身代わりをたてるなどして奉行からの使者をうまく騙し、時間を稼いでいた。


光と栄を運ぶ船の用意はできたが、三成が手配した見張りが港の近くに多く、港には近づけない状態だったが、細川忠興の屋敷の方角から火の手が出て、その騒ぎに乗じて港へ向かい、太兵衛の活躍もあり光と栄は無事に九州に逃れ、如水のもとに着くことができた。


家康率いる上杉討伐軍は、下野まで進軍し小山にて評定が行われることとなった。長政には、家康から評定の前に会いたいとの伝令があったが、長政は所用があるゆえ終わり次第伺いますと返答。その所用とは、豊臣恩顧の代表である福島正則を説得するものだった。三成が秀頼を奉じているため迷いがあった正則だったが、長政の説得もあり正則に心変わりはなかったが、実は、家康の用件もまさに福島正則の説得を頼むものだったのである。


小山での軍議で家康は、大阪で三成が挙兵したこと、これを毛利・宇喜多の大老二人が後押ししていること、諸将の妻子が人質とされていることを伝え、三成に組みしたい者は速やかに陣を払い、大阪に戻るよう諸将に命じた。この家康の言葉に、真っ先に反応したのが福島正則だった。内府様にお味方致すと宣言し、長政も続いた。結局、ほぼ全ての将が家康に味方することになった。


一方、三成は如水への対抗策としてかつて豊後を治めていた大友義統を呼び寄せ、如水を倒せば旧領回復すると約束した。義統は大友再興のため、如水と戦う意志を示す。


『上善は水の如し


 水は善く万物を利して争わず

 

 衆人の悪む所におる


 故に道に畿し』 (老子)


如水は、善助・九郎右衛門・太兵衛の前で天下取りの策を伝えようとするが、三人には如水が語らずともその策は伝わっていた。九州は三成に味方するものが多くこれらを全て倒して九州を制圧、大阪にいて領国が手薄の毛利を叩いて京へ進み、家康・三成の勝ち残ったほうに決戦を挑む、というものだった。


その頃、両軍の勝敗の鍵を握る男・小早川秀秋は京に上り、伯母である北政所のもとを訪れ、どちらにつくか相談に来ていた。北政所は、自分がもっとも信頼する人に書状を送るので、その人とよく相談しなさいと。その人物は、長政だった。


家康も、如水も、それぞれの大一番に向けて支度を進めていた。