ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ。ここは?ひざ。ひじでした。 -2ページ目

あした。明日は誰にでもやってくる。でも、明日何が起こるかは誰も知らない。まさにTomorrow never knows。天気予報は外れるし、政治家は嘘をつくし。誰もあしたについては教えてくれない。だからこそ明るい未来を夢みて今努力しろってよく聞くけど、確かにそうなのかもしれない。誰しも少なからず明日はいいことがあるんじゃないかと期待したり、いやなことがあるんじゃないかって不安になったり、明日について寝る前なんかに思い巡らす。でも、不思議なもので実際(あした)が過ぎ、(あさって)が来ると(あした)のことなんて遠い昔のことみたいに何の関心も持たなくなる。過去は水に流す、なんてコトバがあるように、過去を振り返らないことが人間のいいとこなのかもしれない。逆に過去を振り返らないために同じ過ちを繰り返すのが人間の悪いとこなのだろうけど。
全人類が全力で生きた今日から創造される(あした)。誰にもわかるはずないか。

芸術

芸術にはあまり接点がない人生を送って来たが、しばしばテレビや本や肉眼で遭遇する芸術には感動を覚えることはある。芸術といってもいろいろある。聴覚を刺激する音楽であったり、視覚を刺激する絵画や舞台、味覚を刺激する食材(料理)、それに触覚や嗅覚を刺激する芸術だってあるだろう。要するに芸術ってのは五感を刺激し、その人間を感動させるものだろう。ただ単に、そのいずれかの感覚を刺激するだけではそれを体感した人に「芸術」といわしめることはできないであろう。
そこには、読む人、聴く人、触る人の想像力を超えたものであるという実感が必ずあるのではないか。
例えばこの日記を書くきっかけになったのだが、先日、テレビのなかに芸術をみた。幼い十歳の少女の話だ。少女は先天性免疫異常という病気と闘う健気な女の子。そう長くは生きられない。そんな彼女は自分に待ち受ける悲しい未来を知ってか知らずか、必死に毎日を生きている。よくあるドキュメント番組であり、番組制作のプロが組み立てる巧妙な構成だし、ついそのての番組をみると感動してしまう。
その番組でみた芸術とはその娘が生み出した一つの詞だった。「みんなが笑顔になるならずっと頑張るよ」なんでもない。難しい言葉も使ってない。その娘の小さな世界からうまれる芸術。彼女のおかれた状況、家族への思い、生きることと死への曖昧な認識。様々な彼女の思い、というより彼女の人生そのものがその詞には濃縮していた。
まさか十歳の女の子からそんな簡潔で奥深い詞が生まれるなんて。俺の想像を超えた何か不思議な力に胸を突き上げられた。歳を重ねるごとに、人は世の中の何かしがらみのようなものにおかされていき、素直な気持ちをうまく表現出来なくなるなるんだなって。そんなことを考えさせられた。

日本人

大河ドラマでこんなことを言っていた。大義のために天下をとる。天下をとることが大義である。上杉謙信と織田信長の言葉だ。どこかのおっきな国も大義がどうのこうのでこの十年世界を混乱させたことを思い出させた。人間っていうのは何かしら信じるもののために生きていくのが通常だろうし、何が善で何が悪なんてのは人それぞれ違うだろう。それを決めつけているのはメディアであったり宗教、文化である。もちろん、文化やメディアや様々なコミュニティのなかに人間は生きているのであって、それらによって行動の理由である大義が形成されるのは必然的でありなんら誤ってはいないと思う。ただ恐いのは、興味を示さないこと。生きてく理由を持たないこと。絶望が大きすぎて信じるべきものを見失い、抵抗すらしないこと。負けても抵抗できるのが人間であり、そこにその人の義となるものが生まれるのだ。格差社会の中に個人主義が重なり、弱い者が団結して強い者に立ち向かう、そんな風潮が生まれにくくなってきてる気がした。それは一国の総理大臣の責任か、はたまたそれでも何とか生きていけてしまうこの国の上辺だけの豊かさのせいなのか。まあ、そんなこと考える意味もないのかな。何て考えてしまう自分も、ダメなものに誰もノーといえないこの国の一員なんだなと思うと悲しくなる。