#1の続きではないです。2/10の続きはいずれ書きます。別の話題として#2です。

 

#2

(2025年2月11日)

 高度成長のおかげでギリ機能してる現状

  社会的には駄目だけど、文化的には良い点も感じる

 

道路が陥没したやら出生数が70万を切ったやらで日本は未来もクソもないとか今言われがちだけど、今の日本って、経済高度成長期の人々による社会への貢献の努力のおかげでというかその頃の整備がそのままでギリ機能してるよね。りそな銀行のシステムエラーとかも、プログラムがぐちゃぐちゃでエラーの原因は誰も分からないけどとりあえず不具合なく動作してるようにして再開、みたいな(詳しく知らないから適当)。電車乗ってても運行情報で他の路線で信号トラブル発生やらの文字をよく見かけたりするし。要は、日本は今、未来を見通して社会環境の機能を再整備せねばならない時が来てると思う。

でも、高度成長のおかげでギリ機能してる現状が、こうした悪い点だけとは自分は思わない。もちろん悪い点は悪いと思うけど。

それは、日常にありふれた、機械的に動作する中に潜んだ、一般の人々に向けてのだ。

続きは2/20までにまた書きます。

 

僕が言いたいことを書いているだけなので、なるべく一般なことを言おうとはするけど私的な趣味には偏る。それ故、結局#1に引き続いてまたに関する話に繋がってしまったけど、まあ『僕の作文帳』だから^^

こんばんは。思っていることを作文していきます。

 

#1

(2025年2月10日)

  分からないことを理解する為には?(例:数学

  そして、このことへの模範な姿勢が脆くなる時(例:ベテラン歌手の持ち歌

 

分からないことって山ほどあるけど、そうしたものを自力で解明したいときは、自分で理解できる要素までに分ければよいと思う。数学の問題にしたって、いくら数学が得意な人でも、どんな問題でもパッと見て正解が分かる訳じゃなくて、理解できる範囲で段階を踏んで答えに辿り着こうとして解いてる訳だし、そもそも数学の答案って自然な流れで理解できる段階に分けて順に書いていくのが模範的ってされてるしな。その訳を考えればやっぱり、普通に理解できる段階ほどに分けて順に考えるのが、すぐには分からないことを正しく分かろうとする姿勢として模範だからだろうし。てかそもそもそれが数学の本質だろうからな。もちろん当然な段階は飛ばしてギリ理解できる範囲で分けるのが、普通に理解できる段階とか自然な流れとかいう意味ね。だから数学の難しい問題とかなんで解かねばならないんだと不満な人も多いと思うけど、すぐには分からない正解を考えて辿り着けるかっていう知恵だと思うんだよな。数学って別に特殊な話はしていないどころかむしろ究極に一般な話をしているから、数学の能力は単に「知恵と言っても良いと思う。でも考えても知らなきゃ分かりようがないこともあるから、それは習って知っておく必要があるよな。「勉強ができたって生きる知恵がなきゃどうしようもない」みたいに、「勉強は役に立たないのが当然」みたいな価値観で語られることがよくあるけど、そう思うのはあまり勉強の本質を理解してないと思うね。勉強の意味って、それ自体を学ぶのが全てという訳ではない。もちろん勉強の動機としてはそうした好奇心が全てだったりするかもだけど、義務教育にされてる訳を考えれば、やっぱりもっと根本的に「解明する能力」とかに繋がるからなんだと思う。

 

、ここまでは、まあ、多くの人が理解してる話(ここまで言っといて引き下がり)。で、ここからは自分が思った話。

自分は高校生なんだけど60年前とかの歌を聞くのが趣味なんだけど、その趣味の中で思った話ね。それは、何でも分けて考えりゃ良いって訳じゃないということ。例えば、ある歌を初めて聞いて感動した時。これは、歌を細かく分析して「ここが3連符なのが効果的だね~」とか理解したから感動したのか? そんな訳ないよな。正しくは直感で思っただけだ。分からないことって、解明すれば何でも正解に辿り着ける訳じゃない。明確な正解があらず、人によって異なる理解になり、その差分は誤りという訳ではない、そうしたものだってある。これは明確に「そうしたものがある」とか言えるものではなくグラデーションな話だ。つまり、正解があると言えるけどないと言っても誤りではない、そうしたものもある訳だ。歌に感動したりするのは直感で思ったことだから、正解かを判定する次元の話ではなく正解と見なさねばならない。これが、もし凶悪そうな見た目だけど優しい人を初めて見かけて「凶悪な人だ」と誤って理解したとかいう場合も、別に正解とみなす必要はないと思うけど、実際思ったことなんだからその気持は否定しなくていいと思う。ここで言ってる正しいとか誤りって、事実に対してではないからね。あ、さっきの数学の話で正解とか言ってたのにって思われそうだけど、それは、数学はどう考えようと普通正解がある話をしてるから言えてただけで、ここでは自分の直感は正解だと見なさないと考えが進行しないからそう言ってるだけ。で、正解と見なした上で、理解できる段階に分けて考えたとき、その直感正解からズレていってしまうことがよくあるのが、分けて考えることの脆さだと思う。逆に言えば、分けて考えるのは、直感正解に辿り着くようにすることが条件になるということ。これは、ベテラン歌手が、沢山歌い重ねた持ち歌を後年仕事で歌って披露する際、歌い重ねた分だけ細かな要素まで自然に見えているけど、それだけに捕らわれず、一般な客に感動とかを与えられるか全体でその歌を考える必要があるとか、そういう話にも繋がってきる。これは、自分がそうした場面の録画映像を動画サイトとかで観てる時、ベテラン歌手の歌い重ねた歌を聞く際思うことにも重なる話だ。

 

続きは2/14までにまた投稿します。