舞姫
森鴎外
二,三日の間、私は大臣の元へは訪問せずにいたが、ある日の夕暮れ大臣からの招待を受けた。
部屋に入ってみると、大臣は私にロシア行きの苦労をたずねて、
「私と一緒に日本へ帰る気はないか?
君の語学力なら、世間に十分役立てられるだろう。
『ドイツ滞在があまりに長いので、家族もいるだろう』
と、相沢に聞いてみたところ、
『そんなことはない』と言った。
それを聞いて、私は安心した。」
と断りにくい様子でおっしゃる。
「嗚呼」と思った。
だがさすがに、
『相沢の言葉は嘘です』とも言いづらい。
その上、
『もしこの助けに乗らなければ、私は本国を失い、名誉を挽回することも出来ずに、この広々とした欧州の大都会に葬り去られてしまう』
そう思う気持ちが、心を突きあげてきた。
嗚呼。
何という一貫性のなさなのだ。
「承知しました。」
と答えてしまった。
帰って、エリスに何と言おうか?
ホテルを出た時の私の心の乱れようは、例えようもないものだった。
私は道の東西も分からず、思いに沈んで道を進んだ。
行き会う馬車の御者に何度も叱られ、何度も驚き飛びのいた。
しばらくして、ふと辺りを見ると、動物園のそばに来ていた。
倒れるように、道のほとりの腰掛けに寄りかかる。
焼くように熱く、槌で打たれたように響く頭を、腰掛けの背もたせにもたせかけて、死んだように何時間も過ごした。
激しい寒さが、骨に突き刺さるように感じた。
目が覚めた時にはもう夜で、雪がしきりに降り、帽子のひさしやオーバーの肩には雪が高く積もっていた。
もう十一時を過ぎていただろうか?
モハビットとカルル街を通う鉄道馬車の線路も雪に埋もれている。
ブランデンブルク門のほとりのガス灯は寂しい光を放っていた。
立ち上がろうとすると、足が凍えていた。
やっと歩くことが出来るほどになるまで、足を両手でさすった。
足が上手く動かないので、クロステル街まで来たときには、もう夜中を過ぎていただろうか?
ここまで来た道を、どのように歩いたか分からない。
一月上旬の夜なので、ウンテル・デン・リンデンの酒場や喫茶店は賑わっていただろうけれど、まったく覚えていない。
私の脳裏には、ただただ『私は許されざる罪人である』と思う心だけが満ち満ちていた。
四階の屋根裏の灯りを見るに、エリスはまだ寝ていないようだ。
戸口に入ってから急に疲れを感じて、体の関節の痛みが耐え難いので、這うようにして階段を登った。
台所を通り過ぎ、部屋のドアを開けて入ると、机に寄りかかっておむつを縫っていたエリスが振り返り、「あッ」と叫んだ。
「どうなさったの?その姿は…」
驚いたのも当然だ。
真っ青の、死人同然の顔。
帽子もいつの間にか無くして、髪はバサバサに乱れている。
何度か道で倒れたので、服は泥まじりの雪に汚れ、ところどころ裂けていた。
私は返事をしようとするが、声がでず、膝がしきりに震えた。
立っているのが耐えられないので、椅子をつかもうとした、ところまでは覚えているが、そのまま床に倒れてしまった。
意識が戻ったのは数週間後であった。
ひどい熱のせいで、うわ言ばかり言っていたのをエリスが熱心に看病している間に、相沢が尋ねてきたらしい。
相沢は、私が彼に隠していた一部始終を詳しく知り、大臣には病気のことだけを報告して、良いように繕っておいてくれた。
私は初めて病床のそばに座るエリスを見て、その変わってしまった姿に驚いた。
彼女はこの数週間で大層痩せて、血走った目はくぼんで、灰色の頬はこけ落ちていた。
相沢の助けによって日々の生計には困らなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺したのである。
後に聞くと、彼女は相沢に会った時、私が相沢に与えた約束を聞き、また大臣の提案を承諾したこと知り、急に飛び上がって、
「私の豊太郎さんは、私をだましたのですか?!」
と叫び、その場で倒れた。
相沢はエリスの母を呼んで、一緒に助けてベッドに寝かせた。
だがしばらくして目覚めた時、エリスの目は一点を見つめたままで、そばの人も見分けられなかったそうだ。
彼女は「豊太郎」の名前を呼んで罵り、髪をむしり、布団を噛んだり、また急に何かに気付いて物を捜し求めたりした。
母が与えたものはことごとく投げつけたが、机の上のおむつを与えた時、それを顔に押しあて、涙を流して泣いた。
これ以上騒ぐことはなかったそうだが、理性は全く無くなったようで、彼女の様子はまるで赤子のようだったらしい。
医者に見せたようが、過度な心労によって起こった「パラノイア」という病気なので、治る見込みはないという。
ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで言うことを聞かない。
あのおむつ一つを身につけて、何度か出しては見て、見てはすすり泣く。
私のそばを離れないけれど、これも無意識の行動だと思われる。
ただ、ときどき、思い出したように「薬を、薬を。」と言うだけ。
私の病気はすっかり治った。
エリスの生ける屍(生きた死体)を抱いて、何度涙を流したことか。
大臣とともに帰国した時、相沢と相談して、エリスの母に生活ができる程度のお金を与えた。
かわいそうな彼女のお腹の子が生まれる時のことも、頼んでおいた。
相沢謙吉のような良い友達はもう二度と出会えないであろう。
しかし、私の脳裏には一点の、彼への憎しみが今日までも残っている。
森鴎外
明治・大正時代に活躍した小説家・評論家・翻訳家。明治時代の陸軍軍医・官僚
本名:森 林太郎
誕生日:1862年(文久2年)2月17日
死没日:1922年(大正11年)7月9日
出身:石見国津和野町田村
(現.島根県,鹿足郡,津和野町,町田)
代表作:「舞姫」(1890年)
「ヰタ・セクスアリス」(1909年)
「山椒大夫」(1915年)
*このブログは、古文を全く勉強したことの無いJKが、辞書と感覚を頼りに翻訳して書いたものです。
ですので、原文とは全く違う意味の表現をしてしまう場合もあると思います。
少しでも、
「この意味ちょっと違うなぁ」
「この表現違和感あるなぁ」
と思ったら教えてください!!
よろしくお願いします!