叡福寺(えいふくじ)は聖徳太子薨去後、推古天皇よりこの地を賜り、太子廟の香華所として僧房を置いたのが当寺の始まりとされ、神亀元年(724年)に、聖武天皇の勅願により七堂伽藍がととのえられ、造営されたと伝えられている。

 

叡福寺の境内には、聖徳太子御廟所である磯長廟(しながびょう)があることで知られている。 推古三十年(622年)に、聖徳太子が49歳で薨去された後、太子の遺命によりこの地・磯長の里に葬られたと日本書紀に記されている。太子廟窟内には、太子の母・穴穂部間人皇后と太子の妃・膳部大郎女と共に埋葬されていることから、三骨一廟と呼ばれている。

聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴として、この御廟には太子を敬う、空海、親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮などの高僧が参籠し、四天王寺、法隆寺とならび、太子信仰の中核となった寺院である。

 

天正二年(1574年)、織田信長による兵火で堂塔のすべてを失ったが、慶長八年(1603年)に豊臣秀頼により聖霊殿が再建され、江戸中期にわたり宝塔、金堂などの伽藍が再興された。


 

   宗  派 : 真言系単立

   御本尊 : 如意輪観世音菩薩

   所在地 : 大阪府南河内郡太子町太子2146

   電  話 : 0721-98-0019

 

 

南大門

 

南大門の左右には、金剛力士像を安置している。

 

 

宝塔

釈迦三尊像および大日如来を安置している。

 

金堂

御本尊の如意輪観音坐像をお祀りしている。脇侍は不動明王と愛染明王。

 

正面の二天門が聖徳太子御廟への入口。

 

 

聖徳太子御廟

この磯長墓は叡福寺北古墳であり、直径54.3m、高さ7.2mの円墳である。

横穴式石室には、聖徳太子と母・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女の三体を合葬している。

 

唐破風と二つの切妻破風を連ねた御廟。

 

磯長墓(しながのはか)

宮内庁が管理している。推古天皇の時に皇太子となった聖徳太子の「磯長墓」。

用明天皇の皇子として生まれた聖徳太子は、推古天皇の摂政として十七条憲法の制定や遣唐使の派遣など、国家体制の確立に大きく貢献した。そして、仏教を篤く信奉し、日本仏教の礎を築いた。

 

太子廟窟偈

聖徳太子が遺言の形として記された偈文。

 

上の御廟

聖徳太子摂政像が祀られている。元禄元年(1688年)、河内国丹南藩主・高木主水正が、上の御廟、回廊、二天門、鐘楼などを寄進した。

 

浄土堂

阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊を安置している。

 

鐘楼(左)、回廊、二天門

 

見真大師堂

親鸞聖人、自作の尊像を祀っている。

 

良忍聖応大師記念廟(手前)と経蔵

 

経蔵

経典類が納められている、六角形の建物。

 

科長岡神社

経蔵の後方に鎮座している鎮守社 。

 

弘法大師堂

弘法大師が、自ら三鈷をもって刻んだと伝えられている、弘法大師像(60歳)を祀っている。

 

弘法大師像

 

念仏堂

 

聖霊殿

聖徳太子16歳植髪等身像および南無仏太子2歳像が祀っており、太子堂とも呼ばれている。

 

 

「聖徳廟」の特別御朱印

令和3年4月10日から5月11日に、聖徳太子1400年御遠忌大法会が行われた。