こんにちは。某D大学に在学中の韓国人留学生キムニキです!初めて書いてみるブログなので、何を書けば良いのか迷っていましたが、久々に初心を取り戻す気で今回は自分が日本語を学んだきっかけとそれにおける過程について敍していこうと思います。はあ... 緊張する... では始めます!

 私が初めて日本語に触れた時期は中学3年に遡ります。韓国の書店で日本語能力試験の単語帳を買ったのが始まりでした。あ、ちなみに日本語能力試験とは英語で言うTOEICと同じ概念の語学試験のことです。そこでなぜ、日本語を勉強しようとしたのかという壮大な問いが私の元にかけられます。

 日本語を勉強しようとした理由は2つあります。1つは韓国人にとって一番学びやすい第2言語だったからです。文法や語順も98%ぐらい似ているし、同じ漢字文化圏であるという馴染みの部分があったからです。英語に比べたら言うまでもなく日本語の方がダントツです。そして父が日本関係の仕事をしていたので、いつかは自分も日本語を勉強し、日本に行くかもしれないというある意味「宿命」のような予感もしました。現在は日本で堂々と大学に通っているので、あの頃を思い出すと人の先は未知に溢れていると実感しています。

 しかし、当時は日本語勉強の基礎中の基礎と言える仮名文字や漢字はもちろん、発音すらも出来ない段階に止まっていた私にそんな学習能力があるはずがありません。それで日本語の出来具合がないに等しいまま時は流れ、高校1年に上がります。日本語の出来具合は極めて劣ったものでした。
 

 高校1年の時、キムニキはオーストラリアに留学する決心を固めることとなります。紆余曲折の末に公立高校への編入に成功し、波乱に満ちた高校生活を送ることとなります。この辺りの詳しい話は後々綴ることにしましょう。そして高校2年に上がります。いや、日本語の勉強はいつすんねん?今からでしょう!

 高校2年が始まる頃、私はJapanese Beginner(日本語入門)という科目を取りました。普通のオーストラリアの高校は自分が取りたい科目を希望やレベルに応じて選択することができました。取りたい科目がその高校にないとしても、他の教育機関で授業を取ることも可能でした。ちょうどうちの高校は運が良くて、基礎的な日本語が勉強できる環境に恵まれていました。

 当時を回想すると、クラスに私を含めて韓国人が3人、オーストラリア人が1人(半年で辞めてしまいました...)、他は中国や香港人の生徒で構成されていました。アジアンオールスターズみたいな異国情緒溢れるクラスでしたね。先生はアイロニなことに韓国人の方でした。日本語はうまかったですね。

 最初は平仮名と敬語表現、そして日常会話(簡単な挨拶から単語まで)を中心に勉強していく感じでした。でもあの中でも主に平仮名ばかり3ヶ月間書かされた気がします。この時の私はすでに平仮名を覚えていた時点だったので、当時の融通の効かない学校のカリキュラムにイライラしていました。どうすれば日本語がもっと伸びるんだろうと思った瞬間、私は身近な学習素材を思い出しました。日本のテレビドラマでした。

 中学の頃から大河ドラマは好きでした。私あの頃まで観た大河は3編ほどで「篤姫」「天地人」「龍馬伝」でした。大河ドラマではないけど、スペシャルドラマと言えば「坂の上の雲」も興味深く観ていました。しかし残念ながら大河ドラマは日本の歴史や文化を理解するには効果的な媒体なのかもしれないが、実生活で使うには無理なものでした。そんな訳で私は現代劇に目を向けたのです。

 ここでみなさん、2013年に大ヒットして且つ腐朽の名作とも言えるTBSのドラマは何でしょう。「倍返しだ!」という痛快なセリフでも有名です。

そのドラマの名は...


 「半沢直樹」でした。私の中のベストドラマがあれば躊躇なくこれ!と言えます。銀行と銀行員を中心に展開されるカタルシスはこの短な口と舌では表現がうまく出来ませんが、とにかく凄い... (気絶)

 上記のドラマを10回以上も見繰り返して、発音やアクセント等を身につけました。もちろん、それのみならず他のテレビ番組鑑賞や日本語の単語、文法の勉強も続けました。

 え... 今気づいたのですが、私... 長々と喋りすぎてどこから結論づければ良いか忘れました。こいつは一体何が言いたかったのか。それは一言で「日本語は楽しかった」ということです。時間があれば後々詳しく語っていきますが、「初めは小さくあっても、終わりは非常に大きくなるであろう」で要約できる高校時代でした。

 そして、この物語はついに日本へと続きます。

 p.s. 分量の調節に失敗しました。誠に勝手ながら暖かい目で読んでいって頂きたいです。

 「終」