ksatonakanohitoのブログ

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頭にきたのでこのページを作りました

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[Ⅰからの続き]



間もなく波間に人声がしますので呼んで見ますと、隣家の久右衛門氏家族5人が屋根にのって同じく流れて来たのだと云う事がやっと分かりました。久右衛門氏が、この方は屋根で比較的安全であるから游いで来いと叫ばれるのでしたが、海嘯なんと云う事は知りませんので、世の中が泥海になる処だろう、世の終末であろう。どうせ一人も助かるまいと死を決して居りましたので、向こうへ游ぐ気にもならず、もとの浮物にすがりついて流れました。



浮物というのは、板倉の柱と、はめ板との組み合って居るものでした。あとで聞きますと、久右衛門氏等は大須浜の大磯島に漂着。土地の人々に助けられたそうです。助けられた久右衛門氏が、この辺を長五郎氏が流れて行った筈だと話したので、その事が船越[石巻市雄勝町船越]方面まできこえ、船越区長・高橋左太治氏の奔走によりて、私の親類筋なる松田幸助、和泉鶴松、其の他45人の人々にて16日の夜明けを待って捜索方に出かけられました。幸運にもこの捜索船に発見せられましたのが、金華山ならびの笠貝島沖[女川湾沖合]、時は午後3時頃でしたろう。



私は始めは、何と云うことなしに世の終りが来たのだと思いつめましたので、助かろう、なんという考えはありませんでしたが、夜が次第に明け、もや[]がはげ行くにつれて、山が見えそめましたので、その頃から何とかして助かる術もがな、と思いました。岸辺遙かに眺めると、たしかに白銀崎[雄勝町桑浜南端]である。疲れと餓えとを忍び、勇を鼓し柱をば三角形の井桁に組み、丁度5尋ほどの錨綱が流れて来ましたので、それできっしりと結び付け、その上に板を渡し、あやしき櫂をむすび、波と戦いつつありました。



恰も■[1文字かすれ]し、風は沖あげでありましたので、岸に吹きよせらるるを楽しみにして居りました。助けの船が来ました時の嬉しさといったら、何とも申されません。船の人達は、沖の方にあと人が行かなかったか、とすかさず尋ねるのでしたが、夜の中ほど迄は時折、岸の方向にあたって人声もしてあったが、その後は聞こゆるものは只波の音のみ。沖の方には最初より人声はなかりしより見れば、流れ行ったものは無かろうと思われた。そこで大声で一同、ホーイホーイと四方に呼び立てましたら、遙か岸の方角に応ずる声がかすかに聞こえました。ソリァ誰か居るとその方向に船を進めますと思いきや、そこには破れし屋根にのって、私の甥の菊治郎、菊治郎母及び、私の幼い妹で、当夜、菊治郎宅に泊まって居ったものとの3人でした。達者で流れて居った彼等を見たときは嬉しさに涙も出ぬほどでした。彼等は流れ来る15斗も入る程の大桶をひきよせ、それを横にし、子供はその中に入れ自分等は頭のみ、その中にさし込んで僅かに風を防いで居ったとの事でした。



それより岸辺に直行。羽坂浜[石巻市雄勝町桑浜付近]の佐藤富蔵氏宅に上げられて休ませられました。何せ20時間近くも波と戦って居りましたので心身ともに疲労しましたが、家族や近所の事も心にかかりますので、夜、自宅の荒[雄勝町荒浜付近]に帰りました。帰って見れば、こはそも如何に、浦島が竜宮から帰った時の様に人家もなく、一面皆砂原に化して居るではありませんか。あまりのことに涙も出ませんでした。



追々、屍体も発見されました。妻のは出島[女川町出島]に、あの学校疲れの身を私の膝の上にのせて居った長女のは熊沢[雄勝町熊沢]に打ち上げられました。定めし、何物かに乗って流れた事でしょう。母子一緒に途中まで流れました事か、それとも別々に流れました事か、暗い波間に漂った彼等の心情を考えますと、今でもたえられません。九七はすぐ近くの浜の砂原に、半身埋まって死にきらずに居ったのを掘りおこされたそうですが、これも翌17日、この世を去りました。



因に記す。




長五郎氏、308才にして、海嘯の為金華山山沖迄漂流。九死に一生を得、本年60有余歳。矍鑠[かくしゃく]として元気壮者を凌ぐ。本村より3度、大正5年には本郡より、本年は本県より夫々選賞の栄を得らる。死すべかりし身の不思議に命ながらえしは、天この人をして成さしむべき大なる使命の存せしにやあらん。(大正114月稿)


[雄勝付近地図]


雄勝付近地図