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「ダフィー氏の生活は自己完結している」と冒頭で述べたが、これは様々な形で描写されている。例えば、ダフィー氏の部屋はどうだろう。ダフィー氏が買い集めた家具、全体的にモノトーンの色調でおそらく飾り気もなく機能性を重視したものばかりといった印象を受ける。この中に赤が混じった毛布の上があるが秘められた情熱性のメタファーとして例外とする。大きさによって整頓された様々なインテリっぽい蔵書。新しい杉性の鉛筆。人が物を集めるという行為は「自分を形成する」ためだという話を聞いたことがある。だとすればこの部屋はダフィー氏の性格を顕著に表しているのではないか。テクストから引用すると「彼は自分の肉体から、ちょっと離れ、おのれの行為をいぶかしげな横目でながめながら生きている」、「奇妙な自伝癖」ともある。ダフィー氏の性格が決まりきったものであるのも全て彼の思惑通りのようである。しかしダフィー氏はシニコ夫人と出会う。全ての崩壊はここから始まっていたのだが、彼は知る由もなかった。ダフィー氏はシニコ夫人と会ってもその根本は変わりなかった。ただし彼にとって予想外だったのはシニコ夫人にその思想を打ち明ける事になった心境の変化だろう。ダフィー氏が意識していたかどうかわからないが、以前の彼だったら考えられないだろう。ダフィー氏は自分の思想を少しずつシニコ夫人の思想に絡めていった。シニコ夫人に書物を貸し、観念を与え、自分の知的生活を彼女に分かつのだった。このような作業は結局、無意識の中で『痛ましい事件』後のダフィー氏の心境へと通じるものとなる。シニコ夫人との別れも結果的に同様である。よって『痛ましい事件』が起爆剤となってダフィー氏の自我が崩壊する。自伝を書くと言う行為で自分を形成していく中で確固たる自我を自ら作り上げていた。しかし人間は理性のみで動いているわけではなく無意識や非合理的なものを抱えこんでいる存在だ。ダフィー氏もその法則には逆らいきれなかったようだ。考えてみれば至極人間として、当たり前の事なのだが、ダフィー氏にとってはこれまでの自分の生き方が否定されるようなもので混乱に陥る。
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要するにダフィー氏は自分を客観的に観察できると思っていたが、なんらかの相互作用が働いた他人(友情、愛情など)や他者との交わりをもった自分を冷静に観察する事ができなかった事になる。ダフィー氏が神経を乱すのも落ちつきを失うのもその副産物だ。ダフィー氏にとっての『痛ましい事件』とは彼のドグマティズムの限界であり終焉だ。代わりに孤独と絶望が与えられた。しかし、それがダフィー氏が初めて得たセンチメンタリズムだったのかもしれない。
