【9~10月】



2ヶ月くらい廃人同然の生活をしていた。


でもこのままじゃ、ダメだって思って気晴らしにいろんなことを再開してみることにした。テニス、ダンス、国際協力系のサークル、イベント系のサークルなど。挙げたらキリがないくらいアプローチしまくった。


今思えば、失ったものを取り戻そうとしていたのかも知れない。


でも、そのほとんどが長続きせず、すぐ飽きてしまった。


そんなとき友達が新しく学生団体なるものを立ち上げたらしいというのを耳にした。話を聞いてみると、「大学生活を無駄に過ごしてる人多いよね、最近おもろい大学生が少ない気がするねん。もっとおもろいやつら増やそー!!新しい価値観に触れる機会をもっと増やそー!!」みたいなことをその団体の代表に言われた。


実はそれは自分自身でも感じていた。ダブルスクールしていた時の友人はひいき目にみても面白いとは言い難い。人間的に子供な印象の子が多かった。こんなやつらが法曹関係者になったとして自分は果たして相談に行きたいだろうか。


でもその当時、問題意識はあったけど、社会を良くしてやろうとか全くそんな気持ちはなかった。

でも、頭の中を整理するために書いてみようかな。

ちょっと遅いけど、2010年の振り返りから。

【1~3月】

昨年のお正月は自分がこんなことしてるなんて、全く考えてなかったな。

自分は弁護士になりたくて、大学生活のおよそ半分を費やして夜となく、昼となく勉強しまくってた。絶対なるものだと思ってたし、それが当たり前だと思ってた。

2月から毎週2回、3時間半の憲民刑の択一答練を受け、それと並行して週一回論文答練をこなしつつ論文作成の練習をしていた。

【4~6月】

5月、いよいよ最後の旧司法試験の2次試験本番。今年も関西大学で行われた。答練では45点越え連発だったので、もしかしたら、突破できるかもって考えていたが39/60でボーダーラインより10点も足りず。敗退。

択一終了後、論文直前答練に申し込み、1週間で1科目、4回分の論文問題を6週間かけて(憲・民・刑・商・民訴・刑訴)を鬼のように解きまくった。このときは一日平均15時間は勉強してたような気がする。


6月、適性試験は日弁連・大学入試センターともに平均点だったので、志望していた大学院の1次で足キリされないか不安でいっぱいだった。


【7~9月】

7月、親父がまさかの再入院。直観でこりゃ長くなるなって思った。ここで法科大学院の学費が全額免除をもらえないと進学できないことが判明。それでも論文には自信があったし、どうしても諦められなかったので迷わず出願。

でもね、人って不測の事態に真価がわかるんだよね。出願校全て受かったものの、特待生枠はとれず。

中途半端な実力。

僕の中では、特待がとれない=院に行けない=弁護士になれない。

もうねー、正直死にたかったね。

この時期、家の中でいろんなことが重なって大学も休学せざるおえんかった。

今、思い出してもこの時期のことをはっきり思い出せない。毎日死んだようにバイトに出かけ、死んだように眠ってた。記憶がないって方が正しいのかな。


毎日のようにこみあげてくる吐き気、砂を噛むようなドロドロした感情。死にたいくらい悔しいって思えたんははじめてやったわ。


「何か一つを選ぶということは他の全てを捨てるということ」だって思ってた。勉強のためにいろんなものを捨ててきた。すぐにどうしていいかわからなかった。