どこの国も、戦争が始まれば自動車屋は乗用車から、兵器造りに転換する…米国の老舗ハドソンも、そうだった。

 ハドソンの創業は1909年だから、老舗中の老舗だ…世紀の大歌手と言われたエンリコ・カルーソーが特注したという高級車も造っていた/インペリアル自動車博物館で。

 が、戦後は元気がなくなり、1954年ナッシュと合併。さらにカイザーを吸収したウイリスと合併、アメリカンモータースが誕生した。

 三枚のポスターは、戦争中の物…{我は自動車屋・戦争で乗用車が造れないが兵器を造ってオ国のために・車は勝利の日までオ待ちを}という、各自動車会社同様の戦意高揚言訳ポスターだ。

 フォードのように、爆撃機をまるごと造ってはいなかったが、巽や操縦席周りの部品を造っていたらしい。

 また、上陸用舟艇があるから、それ用のエンジンを造っていたのだろうし、機関砲なども造っていたようだ。

 1942年ポスターの飛行機は、ハドソン製翼に被弾しても飛び続ける、マーチンB26マローダー爆撃機とカーチスSB2Cヘルダイバー・急降下爆撃だ。

 このころ日本軍は、連戦連勝…1月マニラ陥落&シンガポール陥落・3月ラングーン陥落・4月にはコレヒドール要塞陥落でマッカーサー司令官が豪州へ脱出した。

 ラジオからは♪朝だ元気だ♪ジャワのマンゴー売り♪など元気な歌声が…灰田勝彦の♪鈴掛の小径♪は、戦後北村英治のクラリネット演奏でリバイバルした。

 1943年のポスターは、上にカーチスヘルダイバー、下にマーチンマローダーだが、中のベルP29エアラコブラは、変わり種戦闘機だった。

 当時の常識で、エンジンが機首にあるはずが、エアラコブラは、車のF1のように操縦席の後ろで、延長軸で前のプロペラを回す、いわばミドシップ型だった。

 目的はF1同様に運動性向上だが、エンジンがないから大きな機銃搭載が可能で、プロペラ中心からの37㎜機関砲は、ドイツ軍の戦車も破壊したと言われている/ゼロ戦は20㎜。

 ラジオや新聞は、××方面の戦闘で、敵空母撃沈、○○機撃墜と景気の良い戦果報告が連日だったが、戦後ガセネタと判り、日本軍は負け戦が始まっていた。

 有名なガダルカナル攻防戦は、新聞ではガ島だったが、実際は、餓島と呼ぶべきだった。

 1944年のは、日本人には、にっくきボーイングB29ストラトフォートレス爆撃機…高射砲の弾とどかず、戦闘機がアップアップの1万m上空を悠々と飛んできて、日本中を無差別爆撃で焼け野原にしたヤツだった。

 B29の翼が、ハドソン製と自慢している。

 下方の車のイラストは、戦前最後のハドソン・コモドーレだろう…4㍑直列八気筒128馬力の、中級車だった。

 1944年頃になると米国は勝ちムード…{戦争に勝ったら良いハドソンを造ります・近日中に販売店で会いましょう}などとある。

 片や日本では、まだ景気の良い大本営発表を続けていた…♪同期の桜♪ラバウル小唄♪比島決戦の歌♪勝利の日まで♪などの歌には、やけくそムードがただよいはじめていた。

 1945年、広島と長崎に原爆が落ちて、急きょ戦争が終わった…敗戦の8月15日、関東は雲ひとつない日本晴れ、飛行機が飛ばない空は、気味が悪いほど静かだった。

 戦後のハドソンは、すぐに戦前型で生産再開をしたが、1951年に戦後型になると、ビックルするほどスタイリッシュな姿に変身した。

 が、業績は右肩下がりで、ナッシュランブラーの人気に便乗して、中型車を出すも、人気は出ず、合併を繰り返しながら、消えていった。

写真:進駐軍兵士のハドソン中型車/皇居前に駐車後比谷あたりに出勤?/左はビュイック/後方シボレーかプリムス&ハドソン1952年型・日本自動車の価格表。

 日本では、赤坂溜め池の老舗・日本自動車がエージェントで、フィアットも併売…1952年型ハドソンの価格表を添付しておきます。当時の価格表示は、公明正大だった。

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