スズキのマー坊誕生の頃、スズキは、ホンダ、ヤマハに次いで世界第三位のオートバイメーカーだった。

 一方、日本独自の軽自動車業界では、時々奇想天外なことで、ヒットを飛ばすメーカーでもあった。

 日本の軽業界が青息吐息だった1979年、税の盲点を突き、乗用車を商用車仕立てにしたアルトの、格安価格実現で大当たり、つられて軽市場全体が息を吹き返した。

 その後スズキは、米国市場にも目を向け、GMと手を結んだ…米国でリッターカーを8万台と見込み、国内と合わせて、10万台の生産体制で、工場も新設した。

 で、完成したカルタスを、いざ輸出という時に、降って湧いたような災難が降りかかる…日本政府が、米国の圧力に屈しての、対米輸出自主規制だった。

 で、各社の輸出割りあて台数を、過去の実績でというのだが、スズキの実績はゼロ…が、巨大GMが日本政府に根回ししたのだろう、1万台という枠を得た。

 が、10万台態勢の新鋭工場を、米国1万台+国内2万台=3万台で稼働したら、とうぜん赤字…で、窮余の一策が、別の車を流そうということだった。

 が、新車を開発している時間はない…で、スズキ得意のありもの流用、セルボ改造での新車開発だった。

写真:セルボ。

 で、生まれたのが、マイティーボーイ…後席を含めて、後半分の屋根やガラスを取り去り、後部を荷台にして、スポーティーなピックアップをデッチ上げたのだ。

 前から見ればセルボ、後ろに回ればピックアップ…まだRVとかSUVなどの言葉はなかったが、若者達は、便利な遊び道具と、本能的に受け止めた。

 上等なLグレードなら、後部サイドにルーバーが切られた三角板がつき、トノーカバーを掛けるとオシャレなクーペ姿に…カバーを捲れば、タップリ荷物が積めるピックアップ。遊びにはもってこいだった。

 2+2のキャビンは、実質二人乗りだからゆとりがあり、リクライニングでくつろげ、短かなシフトレバーを操れば、気分はスポーツカーだった。

 いずれにしても、スズキのマー坊こと、マイティーボーは、10万台態勢の新鋭工場を救うために生まれた、助っ人だったのだ。

 そして表向きは貨物自動車だが、走れば、最小最軽量のライトウエイトスポーツカーという、スズキ得意の隠れ蓑的手法で生まれたが、結果オーライという、傑作の誕生だったのである。