私の両親は休暇とお金を貯めてはせっせと旅行に行くのが人生の目的の一つだったようで、私も赤ん坊の時から随分いろんな場所に連れて行ってもらえました。

 

旅行は楽しいのですが、母がJWになってからは少し様子が変わりました。

と言うのは、周遊型でも滞在型でも母はすぐに地元の王国会館を見付け出し、子供たちと一緒に集会や大会に出席したがるからです。

 

外国の会衆、という目新しさはありますがJWの集会がつまらない事に変わりは無く、せっかくの旅先でどうしてこんな退屈体験をしなければいけないのかと、いつも不満に思っていました。

 

そんな私が、唯一JWで良かった!と実感したタヒチでの思い出を書こうと思います。

 

 

 

15歳の時でした。

 

今回の旅先はタヒチ、美しい海が大好きな父がずっと憧れていた島です。

首都のパペーテに降り立つとタクシーで海辺のホテルを目指しましたが、母が事前に調べていた地元の王国会館の場所を確認したいという事で少し寄り道をしました。

 

国道沿いの王国会館はすぐに見つかりました。

JWには興味の無い父も、好奇心から一緒にタクシーを降りて入り口の方に向かいました。

 

開いていた扉から中を覗くと、驚いたことに大勢の人たちが会館の中にゴザを敷いて寝ていたり、中庭では七輪のような物を使って調理をしています。ブリキのバケツの中で赤ん坊を沐浴させている人もいました。

 

私たちは来る場所を間違えたかと思って慌てて外の看板を確認しましたが、間違いなく「エホバの証人の王国会館」と書かれています。

 

「ボ~ンジュ~ル」

 

パレオを身にまとった、迫力体形のタヒチ人中年女性が私たちに声を掛けました。

彼女は英語が得意ではないようで、十代の娘らしき少女が片言の英語で通訳の真似事をしてくれます。

 

彼女の説明によると、週末から開催される夏の地域大会に参加するために集まった、近隣の島々の信者たちがこの王国会館を宿舎として利用しているのだそうです。

 

「あなたたち、ホテル、泊まらない。うち、来る。」

 

ププ姉妹と名乗るその中年女性が私たち家族を自分の家に泊まるよう招待してくれました。

 

「お父さん、どうする?この姉妹が家に泊めてくれるって。」

 

驚いた事に父は二つ返事でこの招待を受けました。

ビーチリゾートなんかより地元のタヒチ人の家にホームステイする方が確かに面白そうです。

我々はそのままタクシーでププ姉妹の家に向かいました。

 

平べったい屋根の、コンクリート製の一軒家が立ち並ぶ住宅街にその家はありました。

道路に面した入り口から入るとソファなどが置かれた応接室があり、その両側に個室が二つありました。

ププ姉妹は息子らしき青年たちにすぐに個室を明け渡すように指示を出し、私たちにその部屋をあてがいました。何だかこの強引なところがうちの母に似ているな~と思いました。

 

荷物を運び終えると、ププ姉妹が私に、

 

「ん」

 

と言いながらカラフルな大判の布を手渡しました。

「パレオ」と呼ばれるタヒチの万能布です。

 

 

ププ姉妹の娘が部屋の扉を閉めて、パレオのまとい方を教えてくれました。

 

パレオには何通りもの着方があり、ちょっと巻き方と結び方をアレンジするだけで、ミニスカートやロングスカート、パンツのように着る事もできます。

私は自分が着ていた短パンとTシャツがいかに窮屈で暑苦しい物だったのかに驚きました。

 

彼女は私と同じ15歳。そして何と名前まで私と同じ「サラ(仮)」でした。

 

ププ姉妹が渡してくれたパレオは特別に上等な物に見えたので、私はサラに彼女と同じくらい片言の英語で尋ねました。

 

「このパレオ、あなた、大会に着る、違う?」

 

「ノン。パレオ、たくさん、ある。あなたこれ着る。ビューティフル。」

 

私とサラは親友になりました。
 
****
 
サラは8人兄弟の末っ子でした。年上の兄弟たちはもう家を出ており、いま家にいるのは二人の兄さんと、マリーという名の姉さんでした。マリーは一度はダンサーになるためにJWを辞めて家を出ていましたが、子供が出来たためまた実家に戻って来たのです。マリーの息子ラヤンは5歳くらいのやんちゃ坊主でした。
 
ププ姉妹は二人の息子に年頃の私に近付かないように釘を刺していたようです。私が部屋に入ると兄さんたちが申し訳なさそうな表情でそっと立ち去るので、二人の顔も名前も全く思い出す事ができません。
 
ププ姉妹の旦那さんは大柄な彼女と比べるとミニチュアサイズ(笑)の優しそうな男性でした。旦那さんはJWではありませんが、家の中の事は全てププ姉妹が仕切っている様子でした。
 
滞在中いつも夕方になるとチビのラヤンが「ア・ラ・プラージュ!」と繰り返しながら兄さんたちの服を引っ張りました。「海に行こう」の合図です。兄さんたちはモリを手に持つと、歩いて5分くらいのビーチに魚を突きに出掛けました。私とサラもラヤンと手を繋ぎながら後に続きました。
 
このビーチは穏やかなサンゴの海ではなく、ザブザブと波が押し寄せる黒い砂浜でした。観光客らしき人はいませんが、近所の人たちの憩いの場として賑わっていました。
焚火を焚いてバーベキューをする人、輪になって歌や踊りを披露する人、海で泳いだり漁をしたり、誰もが思い思いに夕暮れのビーチを楽しんでいました。
 
 
波打ち際で嬉しそうに遊ぶラヤンを見ながら私とサラは毎日のようにこのビーチで沢山の話をしました。どんな話をしたのか今となっては全く思い出せませんが、話題は尽きることなく、何度も笑い転げたり共感し合ったりしたものです。
 
ある時、私はどうしても知りたいことがあってサラに尋ねました。
 
「この島、こういう生き物、いる?」
 
砂の上にゴキブリの絵を描いて見せました。
動物好きな私にとって唯一の苦手な生き物です。
 
「いる。ビーチの、死んだ魚の下、いる。私たち、この生き物、食べる」
 
え?食べるの!?マジで?
 
「うん。クックすると、レッドカラー、なるよ」
 
レッドカラー!!!嫌ぁ~~~!!!
 
私は仰天してこの会話を母に報告しました。
 
「お母さん大変!タヒチではゴキを食べるんだって!」
 
「何言ってんの。それ、カニのことでしょ?ゴキブリなんて食べる訳無いじゃない!」
 
母は珍しく常識的な答えを、表情を変えずに言いました。
 
あそっか。
 
三浦半島の海辺で暮らしたことのある私は、波打ち際にゴキブリなんかいない事を知っていました。それに、茹でたら赤くなるのは昆虫では無くてカニやエビの類です。
 
何はともあれホッとしました。
 
 
兄さんたちが捕まえた、カラフルなブダイのような魚は「ポアソン・クル」という料理になって夕食に出されました。薄く切った魚の切り身を生のままライム汁に漬け込み、新鮮な野菜やココナツミルクで和えるタヒチの伝統料理です。トロピカルなたたきのようで大変美味しく、日本に帰ってからも我が家では夏になるとお刺身を使って頻繁に作りました。
 
夕食は大体このポアソン・クルか、豆とトマトのスープでした。
 
朝になるとガランガランと鐘を鳴らしながらバゲット売りがやって来るので、二抱えほどのバゲットを購入してこれを朝昼晩の主食として頂きました。昼食はサンドイッチ、朝食はどんぶり鉢のようなボウルにたっぷりのカフェオレと、バゲットにピーナッツバターを塗ったものでした。
どの食事も素朴だけど、飽きの来ない美味しさでした。
 
 
私がカフェオレに砂糖を入れずに飲もうとするとププ姉妹が、
 
「ノン、ノン、砂糖、入れる。グッドテイスト!」
 
と言いながら毎回勧めてきました。
仕方が無いのでちょびっとだけ入れましたが、ププ姉妹は大匙三杯は入れていたと思います。
 
この家での砂糖のストックは大型のポリバケツでした。
迫力体形はこうやって作られるんだなと納得したものです。
 

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この家では中庭に面した大きなキッチン兼居間が家族の生活の場でした。

卓球台を二つ繋げたような大きな食卓テーブル、部屋の隅には旧式のTV。

夜になると家族全員がこのひんやりしたコンクリート製の床にゴザを敷いて雑魚寝をしていました。

 

 

パパイヤの木が並ぶ中庭の離れにはドアの無いトイレと、水しか出ないシャワーがありました。ドアが無いと言っても肝心の部分は低い壁で隠されているので、うっかり誰かと鉢合わせる事はありません。それでも私は上半身が丸見えなのは嫌なので、室内のトイレを使用していました。

 

実はこの室内トイレにもドアが無く、パレオが一枚ぶら下がっているだけだったので、ラヤンがダダダーッと駆け抜けると風で全開になる危険が常にあったので、こちらもなかなかスリルがありました。

 

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ププ姉妹の家で過ごす毎日は新しい発見で一杯でした。

 

JW活動には参加しなかった父もここでの暮らしを楽しんでおり、毎日ラヤンの真似をして「ア・ラ・プラージュ!」と言いながら近所の海に出掛けたり、バスに乗って島の反対側を探検したりして過ごしていたようです。

 

 

次回はタヒチのJW大会について書こうと思います。