素で話せる友人はありがたい事に2人か3人いるけど、それだって状況次第ではその限りじゃない。自分というコンテンツについて、自分の言葉が多く含まれる状態の文章を置くがほしい。そんなところからここを開いた。別の場所にぽつぽつ書いていたことをある程度編集してここに貼っただけだから話のつながりは薄いかもしれない。思考がまとまってないから口調がバラバラだし書いてることの筋も通っていないかもしれない。
友人の言葉は素直に聞ける。聞けすぎるがゆえに影響を受けすぎる。個人的にこれはどうなんだろうかって思うときもある。影響を受ける前の自分というものが、どれだけ残っているかな。もちろん人間は絶えず外部からの影響を受けて変化し続けるものだとは考えているけれど、ふとしたときに自分というもののオリジナル要素はあるのかなって。
アキノという仮面をかぶってすら出せないような心の動きは多い。それを俯瞰して、「ウケる」と言うことは多い。でもそれは言葉にして自分に聞かせたら終わりなのではないかというやや大げさな恐れや、不安に起因して安易な言葉へ逃げているのではないか。そうやって考えることもある。普段いわゆる社会性フィルターとして使う「にゃーん」という文字列よりもはるかに重い物として扱っている。
コレは幼少の時分から変わっていないんだけど、私には肝心なところで逃げる癖がある。例えば勉学、例えば人間関係。他にも色々。一般に「難しい、習熟に時間がかかる」と言われているものに関しては特に顕著だった。でも高校時代の恩師の目には、私が「とにかく自分への関心が薄い」ように見えていた。それはもちろん「なにかから逃げる」私の様子だけではなくて、「他の人の助けになろうとする」点からも来ていたようだ。ようだとは書いたものの、それも込みで口に出して言われたせいなんだけどね。他者に尽くそうとする、この点に関してはわかりやすいし思い当たる人も、私と関わっているひとのなかにはいるんじゃないかな。どういった話の流れでそうなったのかはもう思い出せないけれど、でもこの言葉についてはずっと考えてる。
今持っている結論としては、という前置きはつくけれど。他者から認められることででしか自身の価値の再確認をできなかったんじゃないかなって。自分で改めて言うのもアレな話してはあるけれど、私は自分に自信が無い。それは多分肝心なところで逃げるからとかそういうものだけではなくて、(やや被害者意識は入ってるとはいえ)私が良かれと思ってやったことが今まですべて裏目に出てきていることが大きいんじゃないかな。自分で自身の価値の再確認ができないからこそ、他者による評判でしかそれが行われないんじゃないかなって。多分共依存という代替行為によって自身の尊厳というか、根源的なものの再確認をしていたんじゃないかなと考えた。多分恩師はここまで見ていたんじゃないかな。例えば友人関係一つとってもそう。これは特に今の自分に対しても言えるんだけど、日常のさりげないところから承認欲求というか、独占欲というか、そんな感じのものも含みつつ「自身が存在していても許される」かどうかをわかりやすい形での証として求めているんじゃないかな。日常の何気ないタイミング漏れ出してくるあれこれ全部がね。今でも思うのは、「誰かに認められることによってのみ自身の存在価値の再確認がなされる」今の状況は絶対に望ましくない自覚もある。
友人の言葉は素直に聞ける。聞けすぎるがゆえに影響を受けすぎる。個人的にこれはどうなんだろうかって思うときもある。影響を受ける前の自分というものが、どれだけ残っているかな。もちろん人間は絶えず外部からの影響を受けて変化し続けるものだとは考えているけれど、ふとしたときに自分というもののオリジナル要素はあるのかなって。
アキノという仮面をかぶってすら出せないような心の動きは多い。それを俯瞰して、「ウケる」と言うことは多い。でもそれは言葉にして自分に聞かせたら終わりなのではないかというやや大げさな恐れや、不安に起因して安易な言葉へ逃げているのではないか。そうやって考えることもある。普段いわゆる社会性フィルターとして使う「にゃーん」という文字列よりもはるかに重い物として扱っている。
コレは幼少の時分から変わっていないんだけど、私には肝心なところで逃げる癖がある。例えば勉学、例えば人間関係。他にも色々。一般に「難しい、習熟に時間がかかる」と言われているものに関しては特に顕著だった。でも高校時代の恩師の目には、私が「とにかく自分への関心が薄い」ように見えていた。それはもちろん「なにかから逃げる」私の様子だけではなくて、「他の人の助けになろうとする」点からも来ていたようだ。ようだとは書いたものの、それも込みで口に出して言われたせいなんだけどね。他者に尽くそうとする、この点に関してはわかりやすいし思い当たる人も、私と関わっているひとのなかにはいるんじゃないかな。どういった話の流れでそうなったのかはもう思い出せないけれど、でもこの言葉についてはずっと考えてる。
今持っている結論としては、という前置きはつくけれど。他者から認められることででしか自身の価値の再確認をできなかったんじゃないかなって。自分で改めて言うのもアレな話してはあるけれど、私は自分に自信が無い。それは多分肝心なところで逃げるからとかそういうものだけではなくて、(やや被害者意識は入ってるとはいえ)私が良かれと思ってやったことが今まですべて裏目に出てきていることが大きいんじゃないかな。自分で自身の価値の再確認ができないからこそ、他者による評判でしかそれが行われないんじゃないかなって。多分共依存という代替行為によって自身の尊厳というか、根源的なものの再確認をしていたんじゃないかなと考えた。多分恩師はここまで見ていたんじゃないかな。例えば友人関係一つとってもそう。これは特に今の自分に対しても言えるんだけど、日常のさりげないところから承認欲求というか、独占欲というか、そんな感じのものも含みつつ「自身が存在していても許される」かどうかをわかりやすい形での証として求めているんじゃないかな。日常の何気ないタイミング漏れ出してくるあれこれ全部がね。今でも思うのは、「誰かに認められることによってのみ自身の存在価値の再確認がなされる」今の状況は絶対に望ましくない自覚もある。
(共依存についてはここを読んで知識を得た)
ここまでは私の頭の中で練った話。ここからは最後数行を見た友人からもらった話。
友人いわく、「存在価値は他者から認められて初めてできるものである。だからこそ、価値がなくとも生きてやろうと思えることが大切だ」そうだ。「集団で生活している以上、他者の目を気にするのは当然のことだよ」とも。素直な感想としては、なるほど、とかももちろんあったけれど、大きいのは「強いなぁ」だった。例えば私の実家での行動基準は、「母親に怒られないかどうか」だった。こう書くとアレだが、それでも私にはそれが全てだった。トリガーとなりそうなものがなくとも怒られることがあって、それを回避するには自身の挙動の一つ一つを他者からの目線で俯瞰し続ける必要が出てくる。実家にいる時間が一番長いためか他のところにそれは大きな影響を与えた。それが当たり前になっているからこそ、他者からの評価が一番に来てしまうのではないか。私には価値がなくとも生きようと思えるように「する」には相当の時間が掛かりそう。
まだ書きたい話題はあるけれど、それはまた今度にしよう。またね。
ここまでは私の頭の中で練った話。ここからは最後数行を見た友人からもらった話。
友人いわく、「存在価値は他者から認められて初めてできるものである。だからこそ、価値がなくとも生きてやろうと思えることが大切だ」そうだ。「集団で生活している以上、他者の目を気にするのは当然のことだよ」とも。素直な感想としては、なるほど、とかももちろんあったけれど、大きいのは「強いなぁ」だった。例えば私の実家での行動基準は、「母親に怒られないかどうか」だった。こう書くとアレだが、それでも私にはそれが全てだった。トリガーとなりそうなものがなくとも怒られることがあって、それを回避するには自身の挙動の一つ一つを他者からの目線で俯瞰し続ける必要が出てくる。実家にいる時間が一番長いためか他のところにそれは大きな影響を与えた。それが当たり前になっているからこそ、他者からの評価が一番に来てしまうのではないか。私には価値がなくとも生きようと思えるように「する」には相当の時間が掛かりそう。
まだ書きたい話題はあるけれど、それはまた今度にしよう。またね。
