
きょうは、 多賀城市で行われた山王遺跡八幡地区の発掘調査現地説明会に行ってきました。 奈良・平安時代、古代日本の律令国家は東北支配の中心として、多賀城を造りました。 当時の東北地方は日本の領域の東のはて。 律令国家の支配に完全には組み込まれていない蝦夷(えみし)と呼ばれる人々が多く暮らしていました。 さらに支配領域を広げようとしていた律令国家にとって、軍事・行政の拠点施設としての多賀城は非常に重要でした。 山王遺跡は、その多賀城の南側に広がる古代の都市の遺跡です。 これまでの調査によって、直線道路によって区画された街並みの様子が明らかになっています。 今回の発掘調査では、奈良・平安時代の街並みを区画していた道路跡のほか、それより古い古墳時代のムラの跡などがみつかっています。 現地説明会には200名を超える多くの見学者が来ていました。

今回の発掘は、三陸沿岸道路の4車線化と、多賀城インターチェンジの建設にともなう調査です。 上の写真で背景に写っている高架の道路が三陸沿岸道路です。 写真の場所では、多賀城南側の街並みを区画していた道路の一つ、西4道路跡がみつかっています。 西4道路は南北方向にのびる道路で、幅が約4.5mありました。 道路の両側には側溝が造られています。

こちらは、古墳時代の川の跡。 これまでの調査によって、この周辺からは古墳時代後期(6世紀末~7世紀中頃)の竪穴住居跡が47棟みつかっており、未調査部分を含めると100棟を超える数があるとみられています。 このムラでは、ムラの中を流れる小川にゴミをどんどん捨てていたようです。 川跡からは多くの土器や木製品、動物の骨や角で作った道具などが出土しています。

また、河川跡には、貝塚が形成されていました。 古墳時代後期のムラの人々が食べた貝の殻が積もってできたもののようです。 カキの殻が主体を占めています。

こちらは、やや古い古墳時代中期(5世紀前半)の竪穴住居跡です。 平面形は四角形をしており、一辺が7m以上とやや大きいです。 古墳時代中期の竪穴住居跡群は、北側を河川、東側を塀と大溝によって画されており、出土した鍛冶関連遺物や祭祀に関わる遺物もあわせて考えると、豪族が暮らした居館の跡ではないかと考えられています。

こちらは、奈良・平安時代の時期に建てられた掘立柱建物跡の柱穴。 5枚目の写真にある竪穴住居跡のすぐそばにこの掘立柱建物は建てられており、数百年という時間をはさんでの土地利用の様子をみることができます。 柱穴の底には、柱が重さで沈まないようにするための礎板とよばれる木の板がありました。

こちらは出土遺物見学のコーナー。 古墳時代や奈良・平安時代の遺物が展示されていました。 特に目を引いたのが、古墳時代後期の河川跡から出土した骨角器で、離頭銛やヤスなどの漁具がありました。 今年の9月には、今回の調査地点よりやや南で、同じ山王遺跡の城前地区の現地説明会がありましたが、今回の調査区の成果も非常に貴重なものばかりでした。

【参考文献】
宮城県教育委員会 2012 「多賀城市山王遺跡八幡地区 平成24年度発掘調査現地説明会資料」
宮城県教育委員会 2012 「多賀城市山王遺跡八幡地区 平成24年度発掘調査現地説明会資料」