陽菜side
いつもと同じだった。
特別なことをしたわけじゃない。
いつもとおんなじ。
何があの人のスイッチを入れさせてしまったんだろう。
でも、たぶんきっと、陽菜が悪いんだよね。
「…だーかりゃ、ね?はるなも、分かんないわけ、どーしてこーなっちゃったのかぁ…ねぇーなんで?」
「陽菜が分かんないことは私も分からんよ。」
手際良く魚を捌きながら、ははっと笑う麻里ちゃんに陽菜は下唇を突き出した。
麻里ちゃんとは大学の講義が一緒で仲良くなった。
たまたま座った席の隣が麻里ちゃんで、あんまりにも綺麗だったから陽菜からすぐに話しかけた。
話してるうちになんだかやけに気が合って、いつも一緒にいた陽菜は麻里ちゃんにべったりだったんだけど。
「プロの板前になろうと思って。」
麻里ちゃんはあっさりと大学を辞めてしまった。
よくもまあ、こんなに潔く決断出来るものだと陽菜は呆気に取られたのを覚えている。
行動派の麻里ちゃんらしいというか、なんというか。
それで今、バイト時代からお世話になってた小料理屋で修行中ってわけ。
「ねーえ、麻里ちゃん。」
「んー?」
「麻里ちゃんってばぁーきいてるの?」
「聞いてるよー。だから、彼氏と喧嘩しちゃってどうしようって話でしょ?こんなとこで油打ってないでさぁ、早く仲直りしなよ」
麻里ちゃんは料理を作るのに集中したいのか、全然こっちを見てくれない。
いくら忙しいからってちょっとほっときすぎじゃない?
陽菜、相談してるんですけど!
「むぅー、麻里ちゃん冷たい!もういい、いっぱい飲んでやるのだ。」
「だーめ。その様子じゃ前の店でも相当飲んでるんでしょ?おあずけです。」
麻里ちゃんが陽菜のお酒を取り上げようとするから、それを急いで阻止した。
グラスに半分ほど残ったワインをぐいっと飲み干して、得意顔で麻里ちゃんを見ると、やりおったな、という顔で麻里ちゃんが言った。
「あーあ、もう知らないからね。」
「いーもーん。それより麻里ちゃん、なんかこの店暑くない?れーぼー入ってる?」
「陽菜が飲み過ぎなんでしょ。」
少しだけ怒った麻里ちゃんをよそに、私は羽織っていたカーディガンを脱いだ。
あー暑い。
まだ5月なのに、こんなんじゃ夏はどんな暑さなのさ。
心の中で文句を垂れていると、ふと麻里ちゃんの視線が陽菜の右腕に注がれてることに気付いた。
「陽菜、それどしたの?超痛そうなんだけど。」
「あー、これでしょー?痛そう、じゃなくて痛いの!酔っ払ってさぁ、フラフラしてたらさっきぶつけちゃった。」
「ちょっとー気を付けてよね?だから飲み過ぎちゃダメって言ってんじゃん。」
呆れた顔の麻里ちゃんに、陽菜はふくれっ面を見せた。
「もー麻里ちゃん、うるしゃい。はるな、かえる。」
「帰るって…ちょっと酔い覚ましてからにしなよ。」
帰り支度をする陽菜に麻里ちゃんが慌てて言う。
「酔っ払ってなんかないもーん。ちゃんと帰れるもん。」
さっき脱いだカーディガンを手に持って、カウンター席から離れる。
「ちょ、ちょっと陽菜!」
カウンターで慌ててる麻里ちゃんにバイバイと手を振って、陽菜は店を出た。
麻里ちゃん、お母さんみたいでうるさいんだもん。
陽菜だってちゃんと帰れるもんねー。
陽菜は一人、居酒屋の並ぶ街道を歩いていく。
「きゃっ」
何事もなく帰れると思っていたのもつかの間、ヒールが排水溝に挟まって靴が脱げてしまった。
脱ぎ捨てられたパンプスはどこか寂しそうに、ただそこに存在していた。
「もぉ…なんでこうなるのぉ…」
泣きべそをかきながら陽菜はその場にへたりと座り込んでしまった。
彼氏とも喧嘩、麻里ちゃんとも喧嘩、その上靴まで脱げちゃって…
陽菜、何か悪いことした?
「もういや…」
「なにが嫌なの?」
振り返るとそこには困ったように眉を下げ、小さくため息をつく麻里ちゃんが立っていた。
麻里ちゃんは陽菜を抱えて立たせると、ぽんぽんとお尻についた砂を払ってくれる。
「麻里ちゃん…」
「陽菜はドジなんだから」
涙まじりで名前を呼ぶ陽菜を見て、小さく笑いながら麻里ちゃんは言った。
「麻里ちゃ…お店、だいじょぶ、なの?」
「だいじょぶでしょ。」
「大将、厳しい人らって、いってた…」
麻里ちゃんは優しく笑って、肩につかまって、と言うと陽菜に靴を履かせてくれた。
脱ぎ捨てられた靴は麻里ちゃんに拾われてどこか安心したようにも見えた。
「家までは送ってあげられないけど…」
陽菜の目を見る麻里ちゃんの顔はとても優しくて、まだ学生だった頃の麻里ちゃんを思い出した。
初めて会ったあの時も、麻里ちゃんはこんな風に笑ってたな。
「だいじょぶ?歩ける?」
「ん…あるける…」
麻里ちゃんが呼んでくれたタクシーに乗り込み、窓を開けた。
「麻里ちゃん、ありがとう…ごめんね…」
「なに言ってんの。ちゃんと帰るんだよ。おやすみ、陽菜。」
タクシーは激しいエンジン音を立て、その場を後にした。
麻里ちゃん…やっぱり優しいな…
まりちゃ…
「お客さん、着きましたよ。お客さん。」
次に目を開けた時にはもう自宅の前に着いていた。
運転手さんにお金を払い、陽菜はタクシーから降りる。
「…ひっく」
あれ…なんだか予想外に酔っ払ってるみたい。
お店では麻里ちゃんに怒られないように気を張ってたからか、それとも自宅に着いた安心感からか、急激に酔いが回り始めた。
足元はふらつくし、視界もぼんやり曇ってる。
陽菜のおへやはどこだっけ…
「…ありゃ?」
鍵が開いてる?もしかして彼がいるのかな?
でも今日は仕事で遅くなるからうちには来ないって…
なんで今日…
ああもうだめ…目が開かない…
ーーーバタン
そのまま陽菜は夢の中へと堕ちていった。
