おれから見た彼女の存在は、かぎりなく現実味の持たない、透明な空気のようなものだ。それこそ、触れてしまえばすぐにでも消え失せてしまうような、そんな危うささえ秘めている。
人間くささ、といえば正しいのか、それが彼女には皆無だったし、なによりどちらかというと、人間たちの造り出した幻想であるかのようにも映った。未知数。彼女の事を一言で喩えるならば、それが一番正しいだろう。すくなくとも、今は。
花が好きだ、と聞いた。おれは、花に注視することをしなかったため、すこしだけ面食らった。
花が好き。あの、無造作に並べられた生命たちが好きだと。
おれにとって、それはじぶんとともに生きていたものだ。平たく言えば、あって当たり前の存在。
それを愛でる人間は、たしかにいた。いたけれど、彼女がいうと、おれは首をかしげたくなる。普段人間じみていないぶん、花に対して抱く彼女のこころは、常に満ち足りていた。あんなふうに、わらうのか、とすら思えた。それはとても、儚いものだけれど、それでもうつくしく、いや、だからこそ美しく凛とした。おれも、花が好きになった。
彼女がわらうと、花が咲いたようになる。ほんとうに、花のようだ。芽吹き、うつくしく、純真無垢。
おれはどちらかというと、あまり自然には溶け込めない気がする、花には。それでも、そうだとしても、彼女と並び花を慈しむこの空間は、おれにとてもやさしくある。
彼女は、いつか花になるのだろうか。そうして、風花になり、おれの知らぬ世界を見に行ってしまうのだろうか。おれを、この汚染された世界に置いて。
ふと、よぎった。おれは、おそらく彼女がいなくなってしまうことを恐れている。なぜ、と問うても、こたえを教えてくれるわけもなく、おれはただ、自分の渦に膝を抱えて、時が経つのをいまかと待ち望むばかりだ。そうしていれば、いつしか風化していくのだ。そう、しんじているのだ。だというのに、彼女が浮かべば浮かぶほどに、おれはかなしくなった。
かなしくなったのは、彼女が人ならざるものに酷似していること、そしてそれが自分にとても近しいものであること、のふたつのせい。
数年前の戦争で、母が他界した。父のことはよく知らない。おれが物心ついた時には、もういなかった。
一度だけ父のことを尋ねたことがあるが、そのときの母はどこか苦しそうな顔で、おれに「ごめんね」と笑った。明るく真面目で、誰よりもおれのために働きに出ていた母のそんな表情を見るのははじめてだった。
その日から、おれは父の事を聞かなくなった。母がどんな心境でおれに「ごめんね」を告げたのか、おれには分からなかったし、今はもう尋ねることすらできなくなってしまった。
空襲があったとき、母はおれの手をしっかり握り、避難所へと急いだ。今でもその感触だけは、鮮明に覚えている。
だが、そのほかの記憶は、まるで蓋をされてしまったかのように覚えていない。気付いた時には、おれは病室のベッドの上に居て、鼻孔をくすぐる薬品のにおいに顔をしかめて、起き上がろうとしたときに、それを目にした。
――おれは左足を失った。
いや、あるにはあるのだが、まったく動かない。左足には、得体の知れない紋様のようなものが浮かび上がっており、時折それは生きているかのようにおれの身体を這うのだ。最初は左足の足先。次に踵。ひざ下。
その紋様が広がるたび、おれの左足はどんどん機能を失っていき、今では車椅子なしでは動けない状態にまでなってしまった。
医者は、興味本位でおれに色々と聞いてきた。正確には、医者ではないらしい。おれには判断がつかなかった。おれのいた世界では、それが医者なのかそうでないのか、判断がつく年齢ではなかったからだ。
おれは、いつの間にか知らない世界にいた。
起きた瞬間は気付かなかったが、ここは、おれのいた世界ではなかったのだ。
そして、知らぬ間におれは年を取っており、空襲を受けた時の年齢は八歳だったが、鏡に映った自分は推定十七歳ぐらいの年齢にまで至っていた。
急激に過ぎていった時間の流れにおれはついていけず、自分の語彙力のなさに途方に暮れた。伝えたい事があっても、それをうまく伝達する術を知らないのだ。おれの言葉はところどころ覚束ないらしく、おれに色々と話を聞こうとする人々はみな、一様に顔をしかめていた。
おれは、一日の時間をどう過ごせばいいのか、分からなかった。この世界は、おれがいた世界とは何もかもが違っている。おれのいた病室は地下三階の密閉された空間で、どうやらおれは隔離病棟のような場所にいる、ということだけは分かった。
外出時間も、起床や就寝時間すらも事細かく決められており、規則を破ると、何か注射のようなものを打たれる。患者が無断で外出をしようとしたところ、大勢の白衣を着た大人たちに取り囲まれ、注射を打たれているのを見たことがある。
ここが一体どこで、そしてこの隔離病棟が一体どういう施設で、ここにいる大人たちがどういう役職についているのか、おれには見当もつかなかった。
というより、考えることができなかった。おそらく、そう仕向けられているのだと思う。毎度出される食事には、必ず沢山の錠剤が出される。ナースはそれを「体を良くするための薬だ」と言ったが、それを服用するようになってから、どうにも身体が怠い。おまけに何かを考えようとすると、酷く頭が痛くなった。
おれはこのままどうなってしまうんだろう。このまま此処で死んだように生きて、生を終えるのだろうか。
苦しいのか、哀しいのか、それすらも分からない。何が正しくて、正しくないのかも分からなかった。自分が今どこにいて、だれなのか、それすらもあやふやになってしまっているようにも思う。現に、今自分の名前がまったく思い出せないのだ。
大人たちには「ゼロナナ」と呼ばれており、まるで囚人のようだ、と笑った。





















