「丘陵のはざま」 みちのくの寒村での暮らし

「丘陵のはざま」 みちのくの寒村での暮らし

1930~40年を中心に宮城県玉造郡岩出山町(現・大崎市)
での暮らしを描いた拙著
「丘陵のはざま」 みちのくの寒村での暮らし
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「そう、健美おじさんだったよね、リタイアしたら、養吉さん(わが父の妹の長男・高橋養吉)とか、従兄弟たちみんなを誘って、供養がてら「宮本」のルーツ探しでもしようか、といっていたというのは?」。たしかその時の私の返答は、「そう、みんな暇になったのに、肝心の彼が亡くなってしまったからなあ。それに、特別に誇れるようなルーツでもなさそうだし…」と、いたって消極的なものだった気がする。             

それからしばらくして、また彼が、「健美おじさんと同姓の{宮本さん}の本だよ」と、『忘れられた日本人』(宮本常一著)なる茶色に変色しかかった文庫本を私に手渡し、「これの〝私の祖父〟の項を読んでみてよ。宮本先生、ご自分の周辺でもっとも印象に残る人ということで、大工さんだったお祖父さんの半生を中心に、ありのままを記している。それがいいんじゃないの、誇れるとかなんとかじゃなくってさ。何? 民俗学の大先生のようなわけにはいかないって? それはそうかもしれない。でもね、僕たちが子どもの頃、おじさんや父さんたちによく聞かされた公(ただし)おじいさんや健美おじさん絡み(がらみ)の話でも、結構面白いのがあったと思うよ。昔の宮野や一栗の村の人たちとの付き合い、暮らし振りなども含めてさ、そう、酒飲み話でいいんだよ」。

〝ルーツ探し〟の提案者 のっけから、方言になってしまうが、われわれ渡邊の兄弟の顔を見るたびに、「おら(自分)は、みんなと兄弟みだぐすて(兄弟のようにして)育ったんだべちゃ(だよなあ)」と、口癖のようにいっていた従兄弟の宮本健美(愛称・健《たけ》ちゃん)が亡くなったのは、平成一六年五月一日、享年七五歳だった。彼は、少年から青年期にかかる一時期、同じ屋根の下で一緒に育ったことでもあり、いわば、われわれ五人兄弟の「長兄」のような存在だった。そんなこともあって年下のわれわれは、成人してからも親しみを込めて〝健ちゃん〟と呼び続けた。回想部分が多くなるであろう本稿では、彼と同じように、親しかった親戚縁者、友人たちを、幼き頃に呼び慣わしていた愛称で通すことを、先ずもってお断りしておく。

時が経つのは、まさしく光陰矢のごとしで、健ちゃんが逝ってからの時の流れは、ことのほか早くなったような気がしてならない。私の長男も四〇歳を過ぎ、いささかルーツが気になり始めたのか、過日会った折、私の父・公(ただし)の実家である宮本家の直系家督だった健ちゃんのことに、次のような調子で話を振ってきた。