病院ICUに3週間いたが、

『始めからずっと危なかった!』

『いよいよ、脈が弱くなってきた!
いつ、どうなるか解らない状態‥。』

そんな事をありさん先生から云われた姑と夫は、もう私は、死ぬのだと思っていたようだ!


ところがどっこい、病院に来てみたら、一般病棟に移されているではないか!


病室に入る前に廊下で主治医とすれ違った時


『ありさん先生』から、話をするから、ちょっと待ってるように告げられたと言っていた。


姑宅には、義理の妹が息子二人を連れて出戻っていて、運転して姑を乗せてどこかに行く途中に寄っただけのようだった。


なので、義理の妹も一緒に来ていた。
主人の車と2台で来た様子。


会計で散々待たされて不機嫌なのか?

入院費を払う事に腹がたつのか?(当然、入院費は主人が払うのだが。。。)


病室に入るなり、姑と義妹は猛烈に腹を立てている様子が伺えた。


私は、ナースさんに頼んで面会者用の椅子をベッドサイドに持って来て貰った。


義妹は、無言でどっかりとその椅子に座り、不機嫌な顔つきで足を組み、そのままスマホをいじりだした。


死ぬの生きるのという状況下で
普通、入院中に面会に来た時に、
ICUから、生きて戻って来たのだから


『良かったね』とか『具合はどう?』
とか‥。

病人に対して慰めや、励ましの言葉を発するのがフツウなのではないか?


待っててと言ったと言った『ありさん先生』が来るのが遅いので、待ちきれず、ナースさんに呼びに行って貰った。


姑は、ぷりぷり怒ってる叫び

『ありさん先生』から、もう死ぬって話しだったのに

どーしてあんたが、一般病室にいるの!?』
っていう猛烈に怖い顔つきをしてるプンプン


待たされてムカついてきたのか終いに、義妹は
『その話し、どーしても聞かなくちゃならないのっ!パンチ!

と言い出し、バンと音を立てて椅子から立ち上がり、出て行ってしまった。


暫くして『ありさん先生』が入ってきた。

『どーゆう事ですか!?』
姑が『ありさん先生』にくらいついた。


その場の空気を察してか、
大人しいありさん先生が声を荒げるのをぐっと抑えながら

こう言った。

『そんなに簡単な病気じゃないんだ!!』


『ありさん先生』が退室した後、

姑はなんだかんだと、私に怒りをぶつけて去って行った。


『そんな事言われたって、好きで生きて帰って来たわけじゃないし‥。
死にそうだったことも良く知らないし‥。』

私は、黙ってうつむいた。

夫は入院中一言も口を開かなかった。




ひらめき電球数日前、会津の親族が見舞に来た時
お見舞い金の包みを姑に各人が渡していた。


姑は
『サラリーマンだったら入院費なんか、そう簡単に払えないんですからね!』と嫌みをいいながら

むしりとるように見舞の現金包みを手に取って言っていた。


私は、その見舞金の袋を見せられることも

実家の家族の一人一人が、いくらお見舞いを包んでくれたのか、知らされもしなかった。



義理の両親は厳格だった。私は、あちらの言う方針に、最大限従って20年以上が過ぎた。


義理の妹においては、起業してた時代、カルフォルニアのリゾート地まで私の自腹で連れていった事もあった。


様々な食料もお裾分けしてた時代も長かった。


舅、姑には何度も温泉旅行に招待したり、金のムシンにも私の起業の収入の中から、素直に纏まったお金も出した。


姑にはうつ状態になって
世話にもなったが


爆弾この日の光景は目に焼き付いている。
生涯忘れる事が出来ない。





音譜私は今、
尾崎豊の『卒業』という歌詞のように

『支配からの卒業』をして独り暮らしになって3年目に入る。


そして、とても幸福に暮らしているクラッカー

2015年7月11日