【働く人の味方です】 思いどおりにいかない日でも笑うセイカツ -5ページ目

悔しさの落とし前

「悔しさ」というのは、なかなかいい動機づけになると

個人的には思っていて。

今までの自分を振り返ると、大きな変化やら

ステップアップやらの背後には、必ず悔しさがあった

気がする。

のほほんと幸せに過ごしていると、

たぶんワタシは成長できないタイプなのだな。

その悔しさも、ちょっとやそっとの悔しさでは

「あーあ」で終わってしまうナマケモノなのだが、

とてつもなく大きな、奥歯が削れてしまうほどの

強烈な悔しさによってしか変われないのが

自分でもいかがなものかと思うほどで。

 

ゴールデングローブ賞もアカデミー賞も

何部門かずつ受賞した映画、「ラ・ラ・ランド」を観た。

賛否両論あるのもうなづける映画で、

ラストは「おや、まあ、そうきたか」だったんだけど、

泣いて笑って歌って踊ってだけの映画じゃなく、

「悔しさの落とし前」みたいなものも

根底に流れているストーリーだった。

そこは、ワタシにはとても深く刺さった。

 

悔しい思いをした人が皆報われるわけではない。

でも、その「悔しさ」をどう受け止め、どう料理し、

どう腹に収め、どう血肉にしていくかが

割と人生の分かれ目になるような

そんな確信をひそかに持っている。

 

 

心の中にいる

普通に公言しているのだけど、

私は仕事柄知り合いは多いけれど、友達は少ない。

とても少ない。

でも、その数少ない友達は全くの掛け値なしに

100%信頼できる人たちである。

本当に困ったことがあったら、真っ先に駆けつけるし、

駆けつけてくれるだろう、ということもわかる。

でも、お互いに、安易なSOSは出さないだろうということも

わかっている。依存的な人間関係とは対極にあるから。

 

昔、ひとりの親友がいた。

10数年もの間、本当の姉妹のような付き合いをしていた。

彼女のご家族からも「かおる姉」と呼ばれるほど。

年下だけれど、人としてリスペクトしていた。

とある出来事によって、それは本当に突然

ぷつりと終止符が打たれた。

自分の年表を作るとしたら、それは太字の出来事で。

その喪失感たるや、多分今でも、いつまでも、

埋まらない洞穴として、私のどこかに残っている。

しばらくは普通の人付き合いを始めることすら

二の足を踏んだほど、それは深い深い傷となった。

 

一生涯人に恵まれ続ける人もいないだろうし、

一生涯人との縁が全くない人もいないだろう。

 

でも、何かがあったとき、

「自分には頼れる人がいる」という

気持ちが持てるのは、

持てるように復活できたのは、

とても幸せなことなのだと思う。

たとえ頼らないで済ませる可能性のほうが

高かったとしても。

 

圧倒的に足りない

先日、とある方と話していて痛感したこと。

恥ずかしいくらい、勉強が足りないということ。

 

人前に立つ仕事をしていて、

曲がりなりにも「先生」と呼ばれる立場で、

「それなりに」「それらしく」見えるように
やってきているつもりでいた。

勉強しているつもりでいた。

頑張っているつもりでもいた。

 

でも、足りていない。

「自分なりに」「やったつもりでいた」ことに

気づかされて、叫びたくなるほど強烈に

恥ずかしくなった。

それは自分の足りなさを

指摘されたわけでも、叱責されたわけでも、

バカにされたわけでも、見下されたわけでもない。

ただ圧倒的な知識と知性を備えた人と接して、

その言葉の端々にある

「心理を伝えるものとしてのあるべき姿」に接して、

 

「私は今までなにをサボっていたんだろう」

 

と愕然としたまでで。

 

忙しいだのなんだのと言い訳はいくらでも

後付けできる。

でも、そんなことじゃなくて、

理想の自分になるための努力を

怠っていただけだ。

忙しかろうが何だろうが、

ダラダラしている時間を削って

勉強することは出来たはずだ。

 

頑張らなきゃな。

自分に対して恥ずかしいと思うのは

もう嫌だ。