【人物紹介】

真由

中堅社員。
前回の会議で感じた違和感をまだ引きずっている。
安藤を全面的にかばいたいわけではないが、辞めた直後の人が少しずつ悪く言われていく空気に居心地の悪さを感じている。
この回では、「何も言わない方が楽だ」と感じながら、それでも心の中で引っかかり続ける役割を持つ。

黒田課長

課の上司。
会議の時だけでなく、雑談の延長のような形で安藤の話を口にする。
本人は場を回しているつもりでも、その言葉が課内の空気を決めている。

周囲の社員たち

強い悪意というより、その場に合わせることで空気を作っていく存在。
誰かが批判を始めると、それに軽く乗る。
この回では「合わせる方が楽」という職場の重さを見せる役割が強い。

安藤 恒一

退職した社員。
この回でも直接は登場しない。
ただ、真由の中では、助けられた記憶や働き方の印象がまだ残っている。
その記憶と、職場で語られる安藤像がずれていることで、違和感の核になっていく。


【あらすじ】

会議のあとも、安藤への批判はそこで終わらなかった。
雑談の中で、仕事の確認の中で、ちょっとした一言の中で、安藤の印象は少しずつ「問題があった人」として固まっていく。


真由はその流れに違和感を覚えながらも、反対するほどの言葉を持てず、結局何も言えない。
そして「かばわない方が、自分が楽でいられる」という、この課の空気の重さが見え始める。


【本文】

翌日から、課の空気は妙に落ち着いていた。

安藤が辞めたという事実そのものには、

もうみんな慣れたように見えた。

 


少なくとも表面上は。

誰も大げさにその話をしない。
ただ、仕事の端々に、薄い膜みたいに安藤の名前が残っていた。

 

 

「あれ、これって安藤さん案件でしたっけ」

 

 

「たぶんそうですね。だから整理が途中なんだと思います」

 

 

「ですよね。ちょっと分かりづらいなとは思ってたんですよ」

 

 

そんな会話が、一日に何度かどこかで起きる。
ひとつひとつは小さい。

 


雑談と業務確認の間みたいな、

反論するほどでもない言葉たち。

 

 

でも真由には、

それが少しずつ同じ方向に積み上がっているのが分かった。

 

 

昼前、コピー機の前で資料を揃えていると、

総務との確認から戻ってきた男性社員が黒田課長に声をかけた。

 

 

「課長、例の一覧、形式そろってなかったです」

 

 

「ああ、やっぱり?」

 

 

黒田課長は苦笑いして、紙の束を受け取った。

 

 

「安藤さん、ああいうところ詰めが甘い時あったからな。

本人の中では回ってたんだろうけど、周りが引き継ぐとなると困るんだよ」

 

 

近くにいた二人が、軽く笑う。

 

 

「分かります。自分ルールみたいなのありましたよね」

 

 

「悪い人じゃないんですけどね」

 

 

「そうそう。悪い人じゃないんだけど、で済まないっていうか」

 

 

その言い方が、真由は苦手だった。

悪い人じゃない。

 


でも。
優しい人だった。
ただ。
真面目だった。
とはいえ。

 

 

その“でも”や“ただ”のあとに続く言葉で、

結局ひとりの印象が決まっていく。

真由は紙を取るふりをしながら、その場を離れた。

 


聞こえていない顔をしたかった。

けれど、耳だけは勝手に拾ってしまう。

席に戻ると、後輩の奈々が小さな声で話しかけてきた。

 

 

「真由さん、あの一覧って安藤さんが作ってたやつですよね」

 

 

「うん、たぶん」

 

 

「やっぱりちょっと独特ですよね」

 

 

奈々の口ぶりは、責めているというより、確認に近かった。
ただその“独特”という言葉も、今の課の中では自然にマイナス寄りへ傾いていく。

真由は画面を見たまま言った。

 

 

「独特っていうか……途中でいろいろ足されてたから、

整理しきれなかったんじゃない」

 

 

奈々は少しだけ黙った。

 

 

「そっか。たしかに年末ずっとバタバタしてましたもんね」

 

 

真由はそこで初めて顔を上げた。
奈々はすぐに否定も同意もせず、ただそう言っただけだった。

 

 

その反応に少しだけ救われたのに、真由はそれ以上続けられなかった。

本当はもっと言えたはずだと思う。

 

 

安藤はもともと全部を自分で抱えていたわけじゃない。
途中からどんどん細かい確認が集まっていたこと。

 


定例会議の準備も、

他部署との調整も、

書類の最終チェックも、

なぜか最後は安藤のところに戻っていたこと。

 

 


真由はその景色を見ていた。

でも、それを言葉にするには、今のこの空気は少し重かった。

 

 

昼休み、

給湯室の前で弁当を温めていると、

奥で女性社員二人が小声で話していた。

 

 

「でも急だったよね、安藤さん」

 

 

「急だったけど、まあ前からしんどそうだったしね」

 

 

「うーん、でもあの感じじゃ続かなかったのかも」

 

 

「周りもやりづらかったんじゃない?」

 

 

そこで、ふっと笑う気配がした。

からかうような笑いではない。

 


でも、誰かの不在を“分かる気がする”で

まとめる時の、あの軽い笑いだった。

 

 

真由は電子レンジの残り時間を見つめたまま、動けなかった。

安藤は、そんなふうにまとめられる人だっただろうか。

 

 

やりづらさがなかったとは言わない。
全部がスムーズだったわけでもない。

 


でもそれは本当に、

安藤ひとりの性格や仕事の癖だけで説明できるものだったのか。

 

 

考えようとすると、頭の中でいろんな場面が出てくる。

 

 

年末の最終週。
取引先から締切直前に数字の修正が入り、

安藤が電話とメールを同時に捌いていた時のこと。

 


別件の確認を頼まれても、

「今ちょっと立て込んでるので、十五分だけください」と言ったあと、

きっちりその十五分後に戻してきたこと。

 


誰かがやりたがらない面倒な確認を、

表情を変えずに引き取っていたこと。

そういう記憶はある。

 

 

なのに今、課の中ではそれが残らない。

残るのは、引き継ぎしづらかった。
見えづらかった。
独特だった。

 


そういう言葉ばかりだ。

午後、真由は別部署に渡す資料をまとめながら、

ふと隣の席の会話を聞いた。

 

 

「黒田課長、あの件って誰に振ります?」

 

 

「うーん……前なら安藤さんに投げてたけどな」

 

 

少し間があく。

 

 

「まあ、あれだけ抱え込まれると困るんだけど、

こういう細かいの拾うのは安藤さんだったからな」

 

 

その言い方に、真由はまた胸の奥がざらついた。

 

 

困る。
でも助かっていた。
やりづらい。
でも任せていた。
見えにくい。

 


でも最後はそこに集まっていた。

それなのに、いなくなった今は“困らせた人”の方だけが残っていく。

 

 

真由はキーボードを打つ手を止めた。
言いたいことが喉の近くまで上がってきて、それでも形にならない。

 

 

じゃあ誰が振っていたのか。
じゃあ誰が戻していたのか。
じゃあ見えにくいくらい積んでいたのは、どうしてなのか。

 

 

そこまで言えば、もう擁護になる。
擁護をすると、この空気の中では少し面倒な人になる気がした。

 

 

それが嫌だった。

嫌だと思ってしまう自分も、また嫌だった。

 

 

定時を少し過ぎた頃、奈々が資料を持って真由のところへ来た。

 

 

「これ、営業部に回す前に見てもらっていいですか」

 

 

真由は受け取って目を通す。
表の項目名が一つ抜けていた。

 

 

「ここだけ足した方がいいかも」

 

 

「あ、本当だ。ありがとうございます」

 

 

奈々はほっとした顔をしたあと、少しためらってから言った。

 

 

「真由さんって、安藤さんのこと、そんなに悪く言わないですよね」

 

 

真由は視線を上げた。

 

 

「……悪く言わないっていうか」

 

 

「みんな結構、“やっぱりね”みたいな感じじゃないですか。

でも真由さん、そういう感じじゃないなと思って」

 

 

奈々の声は軽かった。
探りを入れている感じでも、敵意がある感じでもない。
ただ、本当に気づいたことを言っただけの顔だった。

真由は少し考えてから言った。

 

 

「別に、全部よかったとは思ってないよ」

 

 

「うん」

 

 

「でも……辞めたばっかりの人の話って、

そんなすぐ整理できるものかなって」

 

 

奈々は黙って聞いていた。

 

 

「その人のやり方で困ったことがあったとしても、

じゃあなんでそうなってたのかまでは、まだ分かんないでしょ」

 

 

言ってから、真由は少し言いすぎたかと思った。

だが奈々は嫌な顔をしなかった。
むしろ、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

 

 

「そうですよね」

 

 

その一言だけだった。

でもその短い返事で、真由は逆に分かってしまった。
奈々だって、完全に同じ空気に乗っていたわけじゃない。

 


ただ、何も言わない方が安全だったのだ。

たぶんみんな、少しずつそうなのかもしれない。

本気で安藤を悪人だと思っているわけじゃない。

 


でも、そういう流れになっている時に、あえて逆らう理由もない。
わざわざ空気を重くする必要もない。
そうやって、否定も擁護もしないまま、結局その流れだけが残っていく。

 

 

帰り支度をしていると、少し離れた席で黒田課長が笑いながら言った。

 

 

「まあ、辞めた人のこと今さら言っても仕方ないけどね。

次はちゃんと見える形で回るようにしないと」

 

 

その言葉に、何人かが「ですね」と返す。

真由はバッグに手をかけたまま、動きを止めた。

 

 

今さら言っても仕方ない。
そう言いながら、今日一日で何度、安藤のことは話題にされたのだろう。

しかも、そのほとんどは“見えにくかった人”“やりづらかった人”としてだ。

 

 

仕方ない、で閉じるには、十分すぎるほど繰り返している。

課の外に出ると、廊下は少しひんやりしていた。
照明の白さが、課の中のぬるい空気と違って見える。

 

 

真由は歩きながら、

自分の中に残っているものを確かめるように考えた。

安藤をかばいたいわけじゃない。

 


正義感で誰かに逆らいたいわけでもない。
ただ、この数日の流れは、どうしても変だった。

 

 

 

そして一番嫌なのは、
その変さに気づきながら、

何も言わない方が自分も楽だと思ってしまうことだった。

何も言わなければ、波風は立たない。
自分も標的にはならない。
空気はそのまま流れていく。

 

 

その“楽さ”が、課の中に静かに置かれている。

真由は足を止めて、窓に映った自分を少しだけ見た。

 


疲れた顔だった。

もしここで、
「でも安藤さんだけの問題じゃないですよね」
と口にしたら、どうなるだろう。

 

 

たぶん、誰も真っ向から否定はしない。
けれど、少し面倒な空気になる。
少しだけ扱いづらい人になる。
その小さな面倒を、みんな避けている。

 

 

だから、辞めた人の印象だけが整っていく。

そして真由は、そこでふと別の記憶を思い出しかけた。

前にも、こういう感じがあった気がする。

 

 

誰かが辞めたあと。
在職中にはそこまで言われていなかったのに、辞めた途端に
「あの人は前からちょっと問題があった」
という話に変わっていったことが。

 

 

その記憶はまだぼんやりしていた。
でも、胸の奥で何かが静かに引っかかった。

今日の違和感は、安藤のことだけじゃないのかもしれない。

そう思った瞬間、課の空気が少しだけ別のものに見え始めた。

 

 


【今回の見どころ】

この回の見どころは、
退職者批判が“会議の出来事”ではなく、“日常の空気”として流通していること
が見えてくるところにある。

誰かが大声で悪口を言うわけではない。
けれど、

  • 業務確認の中で自然に混ざる評価
  • 雑談の中で少しずつ固まっていく印象
  • 擁護しない方が自分も安全でいられる空気
  • 真由自身が、その楽さに引っ張られそうになる感覚
 

これらによって、この課の問題が単なる個人の感想ではなく、
逆らわない方が楽な“流れ”として存在していることが見えてくる。

 

 

また、奈々との短いやりとりを通じて、全員が心から同調しているわけではなく、
何も言わない方が面倒が少ないから流れに乗っている
という職場の重さもにじむ。

 

 

この第2話は、
「辞めた人が悪く言われる」という現象が、個人の発言ではなく空気として回っている
と読者に感じさせるための回になっている。


【次回予告】

真由の中に残った違和感は、少しずつ形を持ちはじめる。
安藤のことだけではない。
前にもどこかで、同じような空気を見た気がする。

 

 

次回、
前にも同じことがあったと気づく職場【職場の再設計シリーズ|退職者批判編③】
辞めた人が悪く言われるのは、今回だけではなかった。
真由の記憶の奥で、止まっていた違和感がつながりはじめる。