【人物紹介】
黒田課長
営業支援二課の課長。
これまで退職した人に問題があったような空気を作ってきた発生源。
ただし今回は、単なる悪意ではなく、退職が出るたびに現場が崩れ、自分の負担も増える中で、防衛的にそのやり方へ寄っていったことが見えてくる。
この回では「責められる側」ではなく、「崩れた現場を抱えてきた側」としても描かれる。
石川部長
複数の課を見ている上役。
現場の違和感を集めた上で、この回で黒田課長と正面から向き合う。
ただし、断罪ではなく改善に引き込む姿勢を取る。
「誰が悪いか」ではなく「何が崩れているか」を見ようとする人物。
真由
今回の中心人物ではないが、これまで感じていた違和感を外に出したことで流れを動かした存在。
この回では直接対話には入らない。
ただ、課の空気の変化を遠くで感じ始める側として背景にいる。
営業支援二課という現場
この回では一人の人物のように機能する。
人が辞めるたびに仕事の穴埋めが発生し、残された側の負担が増え、誰かに原因を置いて早く整理したくなる。
黒田課長の言葉の背景にある“現場のしんどさ”を体現する存在。
【あらすじ】
石川部長は、これまで集めた違和感をもとに黒田課長と向き合う。
最初、黒田課長は安藤にも問題があったと防御的に話すが、
対話が進むうちに、人が辞めるたびに自分の負担が増え、
現場が乱れ、残る人間まで不安定になることを恐れていた本音がこぼれ始める。
その結果、「辞めた側に問題があった」と整理することで
職場を保とうとしていたことが見えてくる。
石川部長はそのやり方の限界を示し、人を責めるのではなく、
崩れているものを一緒に見ようと黒田課長を改善側へ引き込んでいく。
【本文】
月曜の朝、営業支援二課はいつも通りに動き始めていた。
週明けの数字確認。
取引先からの折り返し。
修正依頼。
会議前の準備。
それぞれの机の上には仕事が並んでいるのに、どこか落ち着かない。
安藤が抜けた穴は、まだきれいに埋まっていなかった。
誰がどこまで引き取るのか曖昧な案件。
途中経過だけが残っていて、最後の意図が見えない資料。
本来なら一言あれば済むはずの確認が、今は行き先を失っている。
真由は朝から何度も、同じような言葉を聞いた。
「これって今どなたが見てますか」
「一旦こっちで持ちます?」
「いや、その前の経緯が分からないな……」
課は止まってはいない。
でも、前みたいに自然には回っていなかった。
黒田課長は朝からずっと落ち着きがなかった。
電話を取り、誰かに確認を返し、別の社員に指示を出し、
そのまま立った姿勢で次の質問を受ける。
動線が多く、止まる時間が短い。
真由はその様子を見ながら、自分の中に少しだけ変化があるのを感じていた。
これまでなら、黒田課長の言葉の引っかかりばかりが目についた。
もちろん今も、それはある。
辞めた人を後から説明しやすい形に整えていく、あの話し方。
あれが苦手なことに変わりはない。
でも先日、石川部長に呼ばれて話してから、
真由の中には別の見え方も生まれていた。
この課で同じことが繰り返されているのだとしたら、
その中心にいた黒田課長もまた、
何かを守ろうとして同じやり方に寄っていったのかもしれない。
午後、黒田課長は石川部長に呼ばれた。
場所は大会議室ではなく、部長席の奥にある小さめの応接スペースだった。
外から見れば、少し込み入った確認をしているようにしか見えない。
だが、呼ばれた本人にとっては、その静かさがかえって落ち着かなかった。
「失礼します」
黒田課長が入ると、石川部長は手元の資料を閉じて顔を上げた。
「忙しいところ悪い」
「いえ」
向かい合って座る。
机の上にあるのは、営業支援二課の進捗表と退職の一覧、
それから直近の会議メモだった。
黒田課長はそれを見て、一瞬だけ目を細めた。
だがすぐに、いつもの表情に戻る。
石川部長は、いきなり核心には入らなかった。
まずは今止まっている案件の確認。
安藤が持っていた仕事の振り分け。
今週中に整理が必要なもの。
そこまでは普通の業務の話だった。
黒田課長も、最初はいつもの調子で答えていた。
少し早口だが、内容は整理されている。
ただ、その話し方の端々に疲れが混ざっていた。
ひと通り確認が終わったところで、石川部長が資料を閉じた。
「黒田さん」
「はい」
「少し、別の話をしていい?」
黒田課長は短く頷いた。
その頷きには、もう何の話か予感している人間の硬さがあった。
「安藤さんの件だけじゃなくて、この二、三年の退職の出方を見てたんだけど」
石川部長は退職一覧の紙を指先で軽く押さえた。
「営業支援二課だけ、少し偏ってる」
黒田課長はすぐには答えなかった。
数秒遅れて、息をつく。
「……退職が続いたのは事実です」
「うん」
「ただ、全員が全員、こっちの運営だけの問題だったとも思ってません」
その返しは、用意していたもののように聞こえた。
石川部長は否定せず、先を促す。
「というと?」
「安藤の件でいえば、実際に見えにくい持ち方はありました。抱え込み気味だったのも事実です。周りがやりづらかった場面もありました」
黒田課長の声は落ち着いている。
だが、それは冷静というより、防御の形に近かった。
石川部長はしばらく黙ってから言った。
「安藤さんに課題がなかった、という話ではないよ」
その言い方に、黒田課長の視線がわずかに動いた。
「ただ、現場から話を聞くと、辞めた人が後から
そういう言われ方をされることが、この課では一度ではないように見える」
黒田課長の顔から表情が少し落ちた。
「……誰がそう言ってましたか」
石川部長はすぐには答えなかった。
「そこは今、大事じゃない」
そのひと言で、部屋の空気が少し変わる。
「大事なのは、同じような整理が何度も起きているなら、
それを個人の問題だけで終わらせない方がいいってことだ」
黒田課長は椅子に少し深く座り直した。
その仕草が、さっきまでより少しだけ重く見えた。
「……現場は、そんなにきれいに割り切れないですよ」
石川部長は静かに聞いている。
黒田課長は、最初は抑えたままだった声を、少しずつ低くしていった。
「人が辞めると、穴埋めが一気に来るんです。案件の整理、社内説明、残った人間への振り直し、取引先対応。課長がやることも増えるし、周りの不安も増える」
そこまでは、事実の説明だった。
でも次の言葉から、少しずつ“本音”が滲み始めた。
「しかも残る側は見てるんですよ。誰が辞めたか、
そのあと課がどうなるか。そこで毎回“課の問題でした”
みたいな空気になると、残る人間まで不安定になる」
石川部長はそこで初めて、小さく確認を入れた。
「だから、辞めた側に問題があったと整理した方が、場が落ち着くと思った?」
黒田課長は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、否定のためのものではなかった。
認めるかどうかを決める時間に見えた。
やがて、黒田課長は視線を落としたまま言った。
「……そういうところは、あったと思います」
石川部長は何も挟まない。
「辞めた人に課題があった、って形の方が、
残る側も“じゃあ自分はそうならないようにしよう”
で踏みとどまりやすいと思ってました」
黒田課長は、自分で言いながら、その言葉の重さを確かめるようだった。
「現場を止めたくなかったんです」
その一言で、部屋の中の空気が少し沈んだ。
言い訳ではなかった。
正当化とも少し違った。
もっと切実で、もっと狭い場所から出てきた言葉だった。
「辞める人が出るたびに、残る側まで揺れるんです。『この課、大丈夫なのか』って。そこで全部こっちの問題に見えたら、次の退職に繋がる。そう思ってました」
石川部長は、ようやく口を開いた。
「だから、人の側に寄せた」
黒田課長はうなずきもしなかった。
ただ、否定もしなかった。
「でも黒田さん」
石川部長の声は低く、責める調子ではなかった。
「そのやり方だと、残るのは“怖くて辞めない人”になりやすい」
黒田課長の眉がわずかに寄る。
「本当は何かおかしいと思ってる人まで、口を閉じる。共有も相談も浅くなる。結果的に、次の退職を止めるどころか、見えないまま進めてしまうことがある」
黒田課長は顔を上げた。
その言葉は、反論しにくいものとして届いたらしい。
なぜなら、それは理屈だけではなく、現場の実感にも触れていたからだ。
「……分かっています」
絞るように、黒田課長が言う。
「分かってないわけじゃないです。ただ、その場ではそれしかないと思ったんです」
「うん」
「正直、毎回余裕がない。辞めた人の仕事を分けるだけでも一苦労なのに、
そのたびに“課の構造がどうだ”なんて整理してる暇はない。
だから先に、人の問題としてでも一度閉じたかった」
一度閉じたかった。
その表現に、石川部長は少しだけ目を細めた。
「閉じたつもりでも、閉じきれてなかったんだろうね」
黒田課長は何も言わなかった。
「むしろ、その閉じ方が次の詰まりを作ってた可能性がある」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
外では誰かの電話の声が遠く聞こえる。
コピー機の作動音も、壁越しに小さく届く。
現場は今も動いている。
だからこそ、この部屋の会話も“理想論”では終われない。
石川部長は、声の温度を変えずに言った。
「黒田さん。人を責めても、仕事の詰まりは消えない」
黒田課長は顔を上げる。
「辞めた人に問題があったと整理しても、今ここで何が偏ってたのか、何が見えなくなってたのかは残る。だったら、一緒にそっちを見よう」
その“見よう”という言い方に、黒田課長は少しだけ目を止めた。
責任を取れ、ではない。
改めろ、でもない。
一緒に見よう。
石川部長は続ける。
「今のやり方を全部否定したいわけじゃない。現場を回そうとしてきたのは分かる。でも、そのやり方の副作用が見えてきた以上、次はそこを直さないといけない」
黒田課長は長く息を吐いた。
それは、反発を飲み込んだ息というより、
ようやく張っていたものが少し緩んだ時の息だった。
「……何から見ますか」
その言葉は小さかった。
でも、十分だった。
石川部長は、机の上の進捗表に視線を落とした。
「まずは安藤さんが持っていた仕事だね。感情の整理は後でいい。
誰が何を持っていて、何が見えてなかったのか。そこから洗おう」
黒田課長はゆっくり頷いた。
その頷きは、納得しきった人のものではなかった。
でも少なくとも、ここで話を終わらせようとする人の頷きでもなかった。
営業支援二課に戻ると、黒田課長の表情はいつもより静かだった。
何か劇的に変わったわけではない。
指示の出し方が急に柔らかくなるわけでもない。
それでも、真由は少しだけ空気の違いを感じた。
黒田課長が、安藤の名前を出さなかったのだ。
午後の確認で止まっている案件が話題になった時も、
「誰が持ってたか」ではなく、
「どこまで見えてるか」
を先に確認していた。
それだけのことだった。
ほんの小さな違いだ。
けれど真由には、その小さな違いが妙に残った。
あの日以来ずっと、この課では人が辞めるたびに、
その人の話し方から整理が始まっていた。
それが今日は、少なくとも数回、違った。
夕方、真由がファイルを閉じると、窓の外はもう暗くなっていた。
課の中は相変わらず忙しい。
安藤がいなくなった分のしわ寄せも、まだ消えていない。
でも、見え方だけは少し変わった。
黒田課長は、人を責めたかったわけではないのかもしれない。
人を責めることでしか、崩れる現場を止められないと思っていたのかもしれない。
そう考えると、これまでの言葉の嫌さが消えるわけではない。
けれど、その嫌さの奥にあったものが、少しだけ別の形で見える。
誰か一人の悪意ではなく、
崩れそうな職場を無理やり立たせようとしてきたやり方の歪み。
そしてたぶん、ここから先に見るべきなのは、
その歪みを責めることではなく、
何がそうさせていたのかを確かめることなのだ。
真由は画面を閉じながら、静かに思った。
この課の問題は、人の話し方だけじゃない。
その話し方が必要になるくらい、何かが偏っていたのかもしれない。
それが見えなければ、
また誰かが辞めた時、同じことが繰り返される。
その予感は、前よりもずっとはっきりしていた。
【今回の見どころ】
この回の見どころは、
黒田課長のやり方の歪みが、悪意ではなく防衛反応として見えてくるところ
にある。
特に重要なのは、
- 石川部長が一方的に責めず、現場のしんどさを前提に話を聞いていること
- 黒田課長が、人が辞めるたびに残る側まで揺れることを恐れていたと認めること
- 「辞めた側に問題があった」と整理することで、職場を保とうとしていた本音が出ること
- そのやり方では、怖くて残る人しか残らず、共有も相談も止まりやすいと示されること
- 最後に石川部長が、断罪ではなく改善へ引き込むこと
この第5話は、
退職者批判文化の発生源を“悪い上司”で終わらせず、
“崩れた現場を守ろうとして歪んだやり方に寄った管理職”として描く回
になっている。
【次回予告】
人を責めても、仕事の詰まりは消えない。
そうして始まるのは、感情ではなく現場の棚卸しだった。
次回、
辞めた人が抱え込んでいたのか、抱え込まされていたのか【職場の再設計シリーズ|退職者批判編⑥】
安藤が持っていた仕事を洗い出した時、
“見えにくかった人”の別の姿が少しずつ浮かび上がってくる。
