昌子さんにとって、
1977年から1981年の5年間は
まさに激動の歌手人生でした。
第1章 燃え尽きてしまった頃
1977年、お父さんとの約束「学業と歌手の両立」を無事に終え
堀越学園を卒業しましたが、逆に心の緊張の糸が切れて
しまい、昌子さんはやがて「燃え尽き症候」状態になって
しまいました。
歌手引退まで思いつめたなか、1ヵ月の休暇をもらった19歳最後の夏の
「アメリカ一人旅」は、昌子さんの心をリフレッシュさせ、「歌手森昌子」
を再発見し歌手人生にとっても大きな転機となった貴重な旅行でも
ありました。
第2章 本格派演歌歌手へ
一方歌手活動では、1977年8月に市川昭介先生の難曲なみだの桟橋、
そして翌1978年9月に出門英先生のニュータイプ演歌彼岸花。
私は、この2曲はファン待望の「本格派演歌歌手 森昌子」のデビュー
へ向けたテストではないかと思っています。
エンディングが「 ♪行かないで 行かないで 行かないで~♪ 」の
なみだの桟橋は、従来型の熱唱演歌。
対して彼岸花は、エンディングの「 ♪アア~アア~アア~アア~♪ 」
が見せ場の聴かせる演歌。
第3章 身も心もスケールアップ
この難しい両タイプの曲を持ち前の歌唱力で
歌い分けることで「森昌子の凄さ」をアピールする狙いがレコード関係者
にあったのでは?。
1979年からスタートした新宿コマの1ヵ月公演によって「真剣勝負の
生の舞台」を経験した昌子さんは、スケールアップして同年10月には
レコード会社も「ミノルフォン」から「キャニオン」へ移籍し、
ためいき橋では初めての全国キャンペーンもしました。
第4章 計算された勝負年 1981年
舞台は整いました。
ここで登場されたのが、恩師「 遠藤実 」先生。
作詞は、美空ひばりさん 島倉千代子さんの曲を手がけてきた
「 西沢爽 」先生です。
1980年の紅白出場曲波止場通りなみだ町でゴーサインが出たのでは。
そして待ちに待った1981年、荒木とよひさ先生作詞、浜 圭介先生作曲
の勝負曲、哀しみ本線日本海が誕生しました。
キャンペーンにも気合いが入り、新潟の「佐渡汽船」さんが乗・下船時に
フルコーラスで曲を流すなど全面的な協力もありました。
昌子さんも10周年記念曲としての「新曲発表パーティ」の席で、
「 この曲で賞レースに挑み、そのためなら燃え尽きてもかまいません 」
ともおっしゃって、並々ならぬ決意でした。
第5章 忘れられない 美空ひばりさん からのお言葉
1976年の5周年記念番組で特別ゲストの美空ひばりさんが
昌子さんへ贈られた言葉が
「 やっと片手(5年)になったね、もう片手(10年)になったら
あなたは、本物の歌手になるわよ 」
ひばりさんの予言通り、デビュー10周年で実力派歌手となった
昌子さんでした。