平安橋
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萩城三の丸の3つの総門(北・中・平安古)の一つ、平安古総門の外堀に架けられた石橋で、萩城三の丸から城下町へ通じる道路でった。昔は、中ノ総門や北ノ総門前にも橋があったが、現存するのは平安橋だけとなった。平安古に通じているということから“平安橋”と呼ばれる玄武岩で造られた橋は、吊り桁、定着桁を備えたゲルバー桁橋の構造を持った無橋脚の珍しい橋。橋桁全長約6m、幅約4m、堀底からの高さは2.5m。慶安5(1652)年の萩城下町絵図には木橋として描かれている。新堀川に架かる石橋がいずれも明和年間(1764~71)に構築されていることから、同時期に石造りに架け替えられたといわれている。


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久坂玄瑞旧宅跡
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三条実美が詠んだ追悼の和歌を刻んだ石碑




恒例のマンホール(∀)www
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口羽家は毛利氏の庶流で、石見国邑智郡口羽村を領したことから口羽の姓を名乗る。関ヶ原の役後、毛利に従い萩に移り、藩寄組として1,018石余りを領した。
口羽家は主屋と揃って残り、現存する屋敷として最も古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の一遺例として価値がある。その表門は江戸桜田の藩邸の門を下賜されたもので、萩に現存の門では最大規模を誇る。


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扉の左側に門番所
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口羽家すぐ近くに鍵曲。
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鍵曲とは、鍵の手に曲がった通路で、戦いの際見通しを悪くして、敵の侵入を防ぐために造られた城下町ならではのもの。堀内地区は藩政時代の城内三の丸にあたり、藩の諸役所や、毛利一門、永代家老、寄組といった大身の武家屋敷が並んでいた場所。









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 藩校明倫館は、享保四年(1719)五代藩主毛利吉元によってこの地に創建された。敷地面積は九百四十坪の広さを誇った。嘉永二年(1849)城下の江向に移されるまで、約130年間に渡って防長の最高学府であった。

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案内板
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天樹院墓所は毛利輝元の墓所で、輝元と夫人及び殉死者長井治郎左衛門の墓石3基があります。これらの墓は花崗岩製の五輪塔形です。
なかでも輝元のものは、高さ2.1m、夫人のものは1.8mといずれも大型です。
ここは以前輝元の隠居所である四本松邸があり、死後に菩提寺として天樹院(輝元の法号)が創建されましたが、明治2(1869)年廃寺となり墓所のみが残りました。大照院、東光寺とともに萩藩主毛利家墓所として国の史跡に指定されています。


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輝元、火葬地跡。
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伊藤博文旧宅

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伊藤博文は、1841年9月2日(天保12)、当時の周防の国熊毛郡束荷村、今の熊毛郡大和町で、百姓林十蔵、母琴子の長男として生まれました。
1854年(安政元年)父が家族を連れて、萩藩の中間、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の養子となり、この家に住むことになりました。博文14歳の時でした。 博文が17歳の時に近くの松下村塾に通って吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として活躍しました。 28歳の明治元年、兵庫県知事に赴任するまでの14年の間ここを本拠としました。

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伊藤博文別邸


伊藤博文が、1907年(明治40年)に東京府下荏原郡大井村(現在の東京都品川区大井)に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向かって右に西洋館、左手に書院を配して、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大な建物でした。
ここへは、往時の面影をよく残す玄関、大広間、離れ座敷の3棟をはるばると萩間で移築したものです。 明治時代の宮大工伊藤満作の手によるもので、大広間の畳五枚分の1枚杉板の鏡天井や離れ座敷の節天井など意匠に優れています。


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中には入らなかったー[みんな:01][みんな:02]
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銅像があったけど、なんだこれ(笑)
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ちんちくりん[みんな:03]

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