説明板
薄くなってきて読みずらい

三田尻の御舟倉は、萩藩の水軍の根拠地でした。藩主の御座船や軍船が常置され、船の建造や修理も行われました。また周辺には関係者の住宅があり、それにちなんだ地名が今日も残っています。
現在では通堀、これに通じる船入水路の一部を残すのみです。
また、下関の功山寺で決起した高杉晋作は、決死隊を率い、ここ三田尻(現在の防府市)の海軍局を襲い、軍艦を奪取しました。

山口県指定史跡 【現地案内板より】
野村望東尼は1806年(文化3)9月6日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、その名を「もと」と称しました。24才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、夫婦共に和歌をたしなみ、54才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。
1861年(文久元)京都に上った望東尼は、尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。1865年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。
1867年(慶応3)薩長連合の討幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参詣し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、討幕軍の戦勝を祈願しました。しかし老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年11月6日に62才の生涯を閉じました。

