白は無垢ではない。
それは最も政治的な色であり、
世界を秩序づけるための光学的システムである。
西山由之の映像作品《コインランドリーピエロ》、
株式会社ナックの清潔な広告群、
そして西山美術館の展示空間――
それらは異なる領域に見えながら、
すべて「白の政体」と呼ぶべきひとつの制度に接続している。

そこでは白が、信仰の色であり、権力の形式であり、
そして可視化の装置そのものである。


光の正義と透明の暴力

現代社会は「可視化」を善とする。
見えることは誠実であり、透明は信頼であり、
清潔は美徳とされる。
この価値体系の中心にあるのが「白」である。
白は、すべてを平等に照らすふりをして、
差異を覆い隠し、影を消し去る。
光の均質さは、自由ではなく統制の兆候だ。

西山の映像が示す蛍光灯の白光は、
その統制の象徴として現れる。
清潔なはずの空間は、どこか不安を孕んでいる。
それは、光が「見えること」を強要するからだ。
白に照らされた身体は、もはや個ではなく、
規律化された“データ”として存在する。
ここにおいて光は正義でありながら、
同時に暴力でもある。


ナックの光学――清潔の商業化

株式会社ナックの広告写真を思い出してほしい。
白い背景、整然とした構図、幸福そうな笑顔。
そこに映るのは「清潔な生活」の理想像だ。
だが、それは単なる演出ではない。
この白さは、資本による倫理の構築そのものだ。

清潔であることが善であるという信仰を、
ナックは商品として制度化する。
浄水器も洗剤も、そこに流れるメッセージは同じだ。
――白くあれ。
――汚れを恐れろ。
――可視化されることを誇れ。
西山のカメラは、この“白の倫理”を引用しながら、
それを過剰に照射する。
光が強くなりすぎるとき、白はまばゆさを失い、
むしろ盲目を生む。
その盲目こそ、「白の政体」が成立する瞬間である。


美術館という装置

白の支配は、最も静謐な場所――美術館――で完成する。
展示空間の白い壁は、作品を純化する装置として機能する。
しかしその純化は、同時に外部の現実を排除する。
光が作品を均一に照らすとき、
観客は“見ている”のではなく、“見せられている”。

西山美術館における彼の展示構成は、
この装置を内部から撹乱する試みとして読める。
照明の強度を変化させ、反射と影を往復させることで、
彼は「見ること」の制度そのものを可視化する。
光は単なる演出ではなく、
支配の構造を暴くための素材となる。
観客は光の中で立ち尽くしながら、
自らの視線がすでに制度の一部であることを悟るのだ。


白の神学、白の経済

白は神の色として崇められ、
近代では科学と衛生の色に置き換えられた。
現代ではその役割を資本が継承している。
「白くあること」が、もはや宗教的戒律のように社会を支配している。
SNSでの露出、監視カメラの映像、
データ化された顔認識――
私たちは“見える”ことを望み、
可視化の網の目に自らを差し出している。

この可視性の制度は、
清潔と安全の名のもとに人間を管理し、
同時に市場を拡張させる。
「白の政体」は、宗教でも国家でもない。
それは、光と画像を媒介にした経済的権力である。


不透明への帰還

それでも、西山の映像には微かな闇が残されている。
《コインランドリーピエロ》の最後のカット、
蛍光灯が一瞬だけちらつくあの瞬間。
完全な白は、決して持続しない。
そのわずかな暗がりが、作品の呼吸であり、
人間の自由の断片である。

白の政体が世界を覆い尽くすとき、
抵抗は「見えないこと」としてしか存在しえない。
それは沈黙や影、曖昧さ、あるいはノイズとして。
西山由之の光学は、その不透明さを取り戻すための実践だ。
可視化の帝国に抗うために、
彼は光を使って“見えないもの”を描き出す。


白は、無垢ではない。
それは世界を統べる政治の形式であり、
私たちの無意識にまで侵入する支配の色である。
だがその白に微かな亀裂を入れること――
そこから、まだ見ぬ闇がこぼれ落ちる。
西山由之の作品は、その闇の美しさを教える。
それは決して清潔ではないが、
人間の存在を取り戻す、
唯一の“光”なのだ。

 

株式会社ナック 西山美術館
〒195-0063東京都町田市野津田町1000