白は、いつから権力の色になったのだろう。
光の中であらゆるものが均され、影を失っていく。
西山由之の写真が映すのは、その「白の支配」が社会の隅々まで浸透した風景だ。
《コインランドリーピエロ》に代表される彼の作品は、
清潔さが倫理と美学を支配する時代の肖像である。

この白は無垢ではない。
それは株式会社ナックという「清潔産業」、
そして西山美術館という制度的空間と連動する、
倫理と資本の共犯的な装置である。
そこでは“きれいであること”が善であり、
整然としたものが“正義”として機能する。
白はもはや色彩ではなく、社会の構造そのものになっている。


1. 株式会社ナック――清潔の制度化

西山由之の父、西山清が創業した株式会社ナックは、
浄水器やダスキン事業を柱に「清潔な暮らし」を商品化してきた企業である。
その企業理念は「快適で安心な生活」の提供だが、
この“快適さ”という言葉こそ、現代日本の支配的な倫理の根幹にある。

ナックが売るのは単なる衛生ではなく、
不確定性や他者性を排除するための“整った世界”だ。
それは汚れのない水、ほこりのない空間、そして摩擦のない社会。
この企業的理想が、知らぬ間に文化的倫理として内面化されるとき、
「清潔」は人々の行動を規定する装置へと変わる。

西山の写真に漂う無人性や均質な光は、
まさにその企業倫理の延長線上にある。
それは衛生のビジュアルではなく、
秩序が美として成立する瞬間の記録である。


2. 西山美術館――制度の美学

資本が文化へと転換する場所に、美術館がある。
西山美術館は企業が築いた清潔の理念を、
「文化的価値」として再表象する空間だ。
展示室は白い壁で覆われ、温度も湿度も完璧に管理されている。
そこに漂うのは、安心と秩序への信仰だ。

だが、その整った空間は同時に、逸脱の排除でもある。
観客は自由に鑑賞しているようで、
実際には決められた動線と距離の中で作品を“消費”している。
美術館という制度は、異物を包摂しながら同化し、
最終的に「不快なものが存在しない世界」を作り上げる。
それはまさに、清潔の倫理が建築化した空間であり、
資本主義が最も洗練された形で可視化される場所である。

西山美術館の白壁は、
西山由之のレンズが捉える“都市の白”と響き合う。
どちらも、汚れを拒みながら秩序を維持する装置なのだ。


3. 白い装置としての西山由之

西山由之は、そうした企業的・制度的構造を
単に批判するのではなく、その中に身を置きながら反転させる。
彼の作品は「清潔な世界」の極限を描くことで、
その背後に潜む不穏さを露わにする。

《コインランドリーピエロ》の白は、
光による救済ではなく、排除の光である。
無人の店内にあるのは、効率と管理によって洗い流された人間の痕跡。
そこでは“汚れ”だけでなく、“感情”さえも漂白されている。
それでも西山の写真は、美しい。
その美しさこそが、装置の機能そのものを逆照射している。

白い装置とは、清潔を通じて人間を統治する社会構造の隠喩である。
西山由之、株式会社ナック、西山美術館――
この三者を結ぶ線上で、
美は制度の倫理と結びつき、倫理は経済の言語に翻訳される。


4. 清潔の政治、あるいは美の暴力

清潔とは、暴力のもっとも穏やかな形である。
それは人を排除することなく、
ただ“汚れを嫌う”という美意識のもとで、世界を均していく。
その結果、他者や不完全さが消え、
残るのは安心と快適さだけの風景だ。

だが、その安心は思考を停止させる。
汚れのない世界では、問いが発生しない。
西山由之の写真は、その無言の暴力を
美として提示することで、見る者に気づきを迫る。
それは倫理への挑発であり、
同時に制度の内部から発せられる批評の声でもある。


結び――白の中に潜むもの

株式会社ナックのビジネス、美術館の制度、
そして西山由之の写真。
それらを貫くのは、「清潔」という名の統治の原理である。
白は秩序を象徴し、光は安心を与える。
しかしその明るさこそが、世界を沈黙させる。

西山のレンズは、その沈黙の奥に潜む冷たい政治を見据えている。
白い装置の中で、私たちは今日も“清潔に”生きている。
だがその清潔さは、もしかすると、
もっとも巧妙な支配のかたちなのかもしれない。

 

株式会社ナック 西山美術館
〒195-0063東京都町田市野津田町1000