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究極的一体感のセックスという関係

考えてみたんだけど、自分自身とセックスがしたいっていうのは、きっと相手の快感を「そのまんま」自分も感じたいんだと思う。

大好きな男が、私の口や中で気持ち良くなって感じている。
その気持ち良さ・快感・幸福感をイメージしてみると、私には嬉しさと同時に快感が生まれる。
自分の身体が貴重なものに思えてもくる。
相手が自分にどういう行為をすればどう感じるか、という行為の次元以上に、大好きな男が感じるもの「そのもの」が欲しい。

となると、そこには常に2人(もしくはそれ以上?)の人間がいて、その中に私自身も含まれる。
関係として感じる快感を考えると、相手に実際与えられる快感だけでは追いつかないんだ。
「アナタそのものを感じたいのよ!」みたいになるのかな、簡単に言うと。
こういう欲望を抱く対象は、さっきから言ってるように、あくまで「大好きな男」ね。
その人の体だけじゃなくて、その人が感じている「感覚」まで自分のものにしたいってことです。
そうなると、自分が自分の中でする射精までの快感を味わわなくちゃ、ホンモノは分からない。
で、『ペニス以上に欲しいもの』の記事に書いたような究極的夢想的欲望が生まれるのです。

自分とセックス

瑠璃の記事を読んで、私も男としての自分が自分とセックスするのを思い浮かべてみる。

前戯なら、お互いの嗜好が完全に分かってるからうまくいくような気がする。
完全に好みの強さ、タイミングが分かって刺激し合ったら、挿入する前に満足してしまいそうだ。
「あー、そこ違うのにぃ」というじれったさを一切感じない前戯。
…それってオナニーと一緒かしら。
そすると、他人とする前戯はじれったさがイイという考え方もできるかもしれない。

いきなり話が逸れた。前戯の話は今はさして問題ではないのだった。

つながっている様を想像するのが難しい。
それでもなんとか自分の股間にペニスらしきものを生やして、自分の中に入ってみる。
なんだかメビウスの輪みたいなイメージが浮かんだ。
股間に生えている敏感な器官が勃起して、暖かさや湿り気のある中へ出入りする感覚。もしペニスが巨大なクリトリスのようなものだと仮定すると、確かにとても気持ちがよさそうだ。

そんな感じなんですか?問うたところでペニスとクリトリスを同時に持ったことがある人なんていないから、それは永遠の謎ということだろうか。

うーーん、難しいなあ。
私にはやっぱり具体的な快感を想像しにくいみたい。
瑠璃の感じている「羨望」には遠い。

挿入するよりも、私は固い筋肉とがっしりとした骨格を持った男として、柔らかい自分の身体を抱きしめてみたい。
どんな感じがするんだろう。

ペニス以上に欲しいもの

>投影と投影の結節点で性行為が存在する。
>換言すれば、私はそこに自分への行為者としての瑠璃を見るのだ。

と、胡桃が書いていた。
その通り!
そうなのよ!
ということで、私の密かに抱き締めている無謀的夢幻的な性的欲望について教えよう。

それは・・・
「私こと瑠璃が、瑠璃自身のペニスを獲得して、瑠璃のあったかい中に射れたい!」
つまり
「瑠璃が瑠璃にセックスする」
「瑠璃と瑠璃がセックスする」
要するに
「自分に入れて感じてみたい!」

だって、私の中に入れて気持ち良さそうにしてる男の子達を見てると、ほんと羨望するのだ。
その、濡れててあったかい締め付けを、私だって味わいたい。
単なるペニス願望じゃないのよ。
あくまで、私に入れて感じたい。
二重に感じ合いそうでしょ。

「自分で自分に入れてみたいの!」
というようなことを、以前、社会人の男友達に言ったことがあった。
すると、彼は
「それは、皆そう思ってるけど、そうやって口に出しちゃいけないよ。」
と言った。
そうなのかぁ・・・。
恐らく、彼は何か違った意味で捉えたのかもしれないね。

倒錯的思考実験

>私はオトコ「として」、或るオンナを見て感じていると思う。
>映像を見る時、私を女性に投影させるんでなく、その女性を感じさせている男性として見ると興奮する


映像等を見るときの瑠璃の視点について思うことを述べてみる。
若干倒錯的だけど引かないでね。

私は、エロティックな文章や映像は100%女の立場で見ている。
例えば昨日の『O嬢の物語』の引用だと、それを読んで感じ濡れる私は、まさに責められて呻く主人公の”O”なのである。
一方で瑠璃は同じ文章を”見知らぬ男”あるいは”ルネ”の立場で読んでいる。

そこで、試しに瑠璃と私とそれぞれのその読んで感じている時間を切り取って重ねてみる。
すると奇妙な現象が起こる。

投影と投影の結節点で性行為が存在する。
換言すれば、私はそこに自分への行為者としての瑠璃を見るのだ。


空間を隔てているから想像しにくいが、例えば一緒に官能的な映像を見ているとしよう。すると、私は女に自分を重ねて見ていて、瑠璃は男に自分を重ねている。

>ある描写でオトコの立場からオンナに囁いてやったりするのがたまらない。
と瑠璃は言う。
囁いている「オトコ」に自分を投影しているからだ。そして、時を同じくしてその囁かれている「オンナ」に自分を投影しているのはまさに隣にいる私なのである。
試しに、漫画のように想像が頭の上にもやもやっと具現化される図を考えてみてほしい。男に自分を重ねる瑠璃と、女に自分を重ねるわたしと。
触れ合いそうで触れ合わない、まさに紙一重な感じがしないだろうか。


ただ、実際はお互いのその妄想が重なることはない(それぞれの妄想の中で行為の対象がお互いになることは有り得ない)ので、これはやはり単なる思考実験なのである。そしてまた、だからこそこうやって公にできるのだろう。

現象としては、隣り合って違うことを考えているだけの話なのだから。



瑠璃、また今度なんか一緒に見てみようね(笑)

感じるポイントは立場次第かしら

>例えばエロティックな文章を読んだり、映像を見たりするときって人によって感じるポイントが違うと思うのだけど、瑠璃のポイントはどこ?
と、胡桃に聞かれたのでお答えします。

目の前に相手のオトコがいるセックスだったら、断然その相手に対して身も心も欲情できるけど、その場に相手がいない時、つまり、くるみの言う「エロティックな文章を読んだり、映像を見たりするとき」は絶対にオトコに対して感じない。
どういうことかと言うと、私はオトコ「として」、或るオンナを見て感じていると思う。
映像を見る時、私を女性に投影させるんでなく、その女性を感じさせている男性として見ると興奮する。
生身じゃない異性(男性)の体や部分を見ても滑稽なだけ。
でも男性は、「デッカイおっぱい」とか「きれいな脚」とか「エロい裸」とか「かわいい顔」とかの、イメージ(=像)に対して興奮する人が多いから、異性の身体に抱くものとしては、私は男性と違うね。

具体的には、ある描写でオトコの立場からオンナに囁いてやったりするのがたまらない。
実際、囁かれるのもイイ。
声とか言葉に弱いかも。
私の置かれた状況や、私の体の状況や、二人の身体接続関係の状況を、ありのままに言語化できるオトコって、ある意味、才能あると思うわ。
なかなかできないのよね、世のオトコは。

さて、最後は余談気味になっちゃったけど、こんなところです。

やっぱり

昼間ってここに書きたいことが思いつきにくい。
早朝に近い深夜とか、いくつも出てくるのに。

人間の頭と体って不思議だ。

秋の夜長に濡れる文章

わたしの感じる文章を抜粋。

恋人ルネが主人公Oのことを仲間の男に引き渡したシーンから。



彼女には男の顔をまともに見る勇気はなかったが、男は、彼女の乳房や腰をなでまわすと、やがて両脚をひらくことを彼女に命じた。
「言うことをきくんだよ」
とルネは言い、背後から彼女を抱きかかえるようにして、彼女の身体を支えた。ルネの右手は彼女の乳房を愛撫し、左手は彼女の肩を抱いていた。見知らぬ男は、ベッドの縁に腰かけて、彼女の毛をひっぱりながら、下腹部の窪みを保護する唇をとらえ、これをゆっくり左右に開いた。ルネは、男が彼女に何を望んでいるかを見てとると、さらに行為を容易ならしめるために、彼女の身体を前に押しやった。そして右腕を彼女の腰のまわりにまきつけ、さらにしっかり彼女の身体を押さえつけたのである。男の愛撫は、彼女にとって身もだえするほど恥ずかしく、彼女はできるだけ早くこの愛撫からのがれたい、自分の身体が影響を受ける前にのがれたい、と思った。
(中略)
するうち突然、彼女は自分がのがれられなくなったのを感じ、もうだめだわ、と思った。彼女の内部の花冠をおおう肉のふくらみに押しつけられていた、見知らぬ男の唇が、急に彼女の感覚に火をつけたとき、思わず彼女はうめき声を上げていたからである。

ポーリーヌ・レアージュ(澁澤龍彦訳)『O嬢の物語』61頁(河出書房、1992年)


これがわたしにとっての感じる文章。
「言うことをきくんだよ」、のとこなんて、本当にドキドキする。
あと、押さえつけるっていうのもどうやらポイントみたい。

他にもたくさんいい表現があるので、『O嬢の物語』は大好き。
「感覚に火をつける」っていうのは、すごく共感できる表現。
ポーリーヌ・レアージュは謎の作家と言われてるけど、女性なのは間違いないだろうなあ、と思う。

あと、澁澤龍彦の訳が古典的で素敵。

感じるポイント<アンケート>

ここを読んでくださっている方々へ。

あなたが映像なり文章なりに触れて、「感じる」ポイントはどこですか?

感じるポイント~SMについて~

例えばエロティックな文章を読んだり、映像を見たりするときって人によって感じるポイントが違うと思うのだけど、瑠璃のポイントはどこ?

私はやっぱりSMテイストの物が感じる。
ただ、なんでも感じるかといえばそうでもなく、情緒のかけらもないような頭の悪い記述や頭の悪い映像は笑ってしまう。

情緒がないと感じないのは実際にプレイにおいても同じ。
自己満足で支配した気になられても、冷めるだけだし。
全然その気になってないのにも気付かず「ご挨拶しなさい」とか言ってフェラチオさせようとした自称S男がいたけど、日常生活にせよセックスにせよ、空気が読めないのって重罪だ。

私は性的ゲームとしてのSMが好きなのであって、「精神的なSM」にはそれほど興味がないので、あまりにも精神的SM万歳!!みたいなのも笑ってしまう。(私は奴隷。いつもご主人様の言うことには完全服従なの…みたいな。いい例が思いつかないのでこれについてはまた日を改めようっと。)

本当にそうなら否定はしないけど、精神的・日常的に誰かを支配したり、服従したりって、そんなに世の中あふれていていいことじゃない。

好きな体位

話題を振られたので、お答えします☆

相手とか状況によって好きな体位って変わると思う。
たとえば、好きな人と愛情交換の営みとしてセックスするなら、密着してたいし顔も見ていたい。だからそういうときは、ごくごく普通に正常位が好き。
でも実際はしてる最中にあんまり目を開けないもんだから、今思い出そうとして最中の顔が思い浮かぶ人なんてあんまりいない…てことは「見ようと思ったら顔が見える」っていう気分の問題ね、きっと。

後ろ手に縛られているときは、断然後背位。
相手には全部見えているのに自分は何も見えないのが羞恥心を煽るし、手が使えないものだから相手の動きに合わせて顔とか頭が枕に擦れるのも被虐的でイイ。
あと、目の前に鏡があったら、無理矢理頭を持ち上げられてその姿を見せつけられるのも興奮する。

瑠璃が言ってた「帆掛け舟」、刺激的よね。
相手の肩にかかってる自分の脚が視野に入ってるのって、不思議な感じがするし。けど、内臓を突かれてる感じがして、あまり長く続けられると怖くなる。