小学校4年生から通っていた、自宅から2駅隣にあるその塾は先述した大手ハンバーガーチェーンと提携していて、配達を頼むことができた。

 

塾の通り道にある店に立ち寄って予約票に記入し、お金を払っておけば、休憩時間に合わせて届けてくれるのだ。


算数の授業が終わって理科の授業が始まる前に、もしくは国語の授業が終わって社会の授業が始まる前に、僕らは塾のビルの1階まで駆け下りて自分の予約票がホッチキス止めされた袋を掴み、また駆け戻る。

 

作り立てでまだ温かいハンバーガーやポテトは、申し訳ないが母親が作ってくれるお弁当よりも美味しいと思った。

 

自分でお金を払って食べ物を買うなんてことは初めてだったから、それに対する興奮だったり刺激だったりが上乗せされていたに違いない。


セットを頼む優等生の女子がいれば、ハンバーガーばっかり何個も買って両手に持ち、交互にかじって笑いをとっている男子もいる。

 

ハンバーガー1個をちびちび食べている友達は、食費(お小遣い、とは決して言わなかったのが今となっては微笑ましい)を浮かせてまた、欲しい文庫でも買うのだろうか。


十五分か二十分か、そんな短い時間にハンバーガーを頬張る間は、みんな笑顔だった。

 

そしてまた真剣な顔に戻る。

 

誰もが子供なりにメリハリがきちんとできていたのだ。


ショートトリップから戻り、あと数口で食べ終わる知らない地域の名産品を見つめながら、自分の思い出の味を切り出してみようかと考える。

 

笑われるかもしれないが、それも悪くないだろう。

 

きっと東北出身の彼女とだって、四国出身の彼とだって、味も映像も共有できるはずだ。


東京生まれ、東京育ちの僕は、それがとても嬉しい。
 

東京生まれ、東京育ち。

 

高校生の頃までは意識もしなかったそんな言葉は、大学時代に特別感を持ち始め、社会人になるとさらに際立った。

 

「東京出身の人間は生まれながらにして『東京に出る』という夢を奪われているのだ」と言ってみたら、友人に大袈裟すぎると笑われた。

 

長期休みの直前には『帰省』『Uターン』なんて言葉が飛び交い、一方帰るところがない僕は相変わらず東京でダラダラ過ごして休みが明け、地方出身の同僚それぞれの地元の名産品を食べながら、土産話を聞く。

 

今の季節にしかとれない食材を使った名産品や料理、もしくはそのままストレートに丸かじり。

 

美味しそうだねと返事しながら、味も映像もさっぱり浮かばない。

 

僕が食べ物で季節を感じるものと言えば、大手ハンバーガーチェーンのハンバーガーだ。

 

春夏秋冬それぞれに定番があり、特に秋の月見をテーマにしたものはおそらく、数十年レベルで毎年欠かすことなく食している。

 

ふと、初めてハンバーガーを食べたのはいつだったかと考えてみる。

 

自分でも驚くことにそれはもう三十年近くも前のことで、しかも場所は自宅ではなく塾の教室だ。

 

とてつもなく暇になると、ブログのことを思い出す。

 

自粛要請の始まった3月頃は、仕事が多忙でそれどころじゃなかったのですが、

 

年末になってようやく「暇だ」と口にできるようになりました。

 

ということで、更新。

 

世間的にはブログなんてオワコンでしょうが、僕的には、ここで書いたことについて、

 

誰かとやりとりしたいわけじゃないので、オワコンでむしろちょうどいいです。

 

暇な人が書いて、暇な人が読む。それでいいかなって。

 

閑話休題。

 

さて、ちょっと前にエッセイもどきを書いて某所に送ったのですが、落ちました。

 

理由は分かってるんですけどね。だってそもそもテーマに合ってないから(笑)

 

ただ、本人はまあまあ気に入っているので、載せようかなと。

 

1回か、長ければ2回に分けます。

 

それではよいお年を。またいずれ。


数ヶ月前から、時々夜に走るようになった。

きっかけはラグビーのワールドカップだ。

試合だの大会前後の特集だのを見てて最終的に思ったことは、結局体力が基本なんだなということ。

スポーツ選手に限らず、一般人だって体力という土台がなければ、結局その上にはろくなものが築けない。

そう思ってから、何となく走り始めたのだ。

その際、いくつかルールを設けている。

走るのが嫌になったら歩く。上り坂と最後の直線では必ず走る。

前者はなるべく長続きさせるために。後者は「今日も走った!」という充実感や達成感を味わうためにだ。

そんな日々を続けていると、不意に中学生の頃を思い出した。そこが多分、人生で一番走った時期だ。

毎日校庭だの近所の坂道だのを走り回り、帰り道ではパックのブルガリア飲むヨーグルトをガバガバ飲んだ。

おかげで骨太な体が出来上がったのである。

もしかしたら、「苦労が身につかない」「楽天家」「悩みがない」「毎日楽しく生きている」などの性格は、この肉体によって後天的に得たものなのかもしれない。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉には少々大袈裟な嫌いがあるが、体力的な余裕があるからこそ、精神的にも余裕が出るのではないかとは思う。

多分僕はその中学生当時から、世の中には自由などない、という事実を無意識に受け入れていたのだろう。

だから、物事が思い通りにいかないことを当たり前だと思っていた。

だから、なるべく物事が思い通りにいくようにと努力をしていた。

その根本にあったのが、『走』るという行為だったのだと思う。

現在の自分が、過去の自分の行動に解説を付けるのは中々面白いものだ。

少なくとも、「あの時こうしておけば・・・・・・」などと思うよりは「あの時こうしたのはこういう理由だったんだろう」と思うことの方がよっぽど楽しい。



解説なんて付けなくても走り続けた頃を思い出しながら、今年が終わっていく。

こんなダラダラとしたクソみたいな独り言に目を通して下さった極少数の方々(一体何人いるのかさっぱり見当もつかないが)、どうぞよいお年を。

三が日は駅伝とテレ東ばっかり見る予定です。










【コミック】

『ダメな私に恋してください』8巻

ドラマ化かー。でも深キョンにあの軽妙なトークの表現力とか、罵声の連続への耐性とかあるのか?

『君に届け』25巻

『日常』10巻(完結)

『中間管理職トネガワ』1巻

本家喰いっ・・・・・・あるぞっ・・・・・・!

『僕だけがいない街』7巻

盛り上がってまいりました!

【文庫・新書】

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹

『大地のゲーム』綿矢りさ

『ツンドラモンスーン』森博嗣

『蛭子の論語』蛭子能収

【書籍】

『うそつき、うそつき』清水杜氏彦

アガサ・クリスティ賞選考委員の人々の眼は信用してる。



とりあえず三日坊主の壁は越えたなと思ってなんとなくブログを見直したら、文体が日によって結構違ってますな。

でも中の人は一人です。

多重人格でもないです。

気分屋なだけです。




好きなクリスマスソングは、キンキキッズの『シンデレラ・クリスマス』とアイマスの『神様のバースデイ』です。

全然街中では聞かないですが、僕の脳内では流れています。

今日はケーキは食べましたが、チキンは28日にケンタッキーのにわとりの日パックを食べるので買いませんでした。

どっちに食べるかって言ったら、にわとりの日のがクリスマスより適してると思うんですよ。お財布的にもね。

ちなみにケンタッキーでは今や骨なしやらクリスピーやらがありますが、僕は断然オリジナルが好きです。ずっと変わりません。

しかし、最近食べ物の好みが大きく変わったものがあります。

スパゲッティです(パスタとの違いうんぬんには触れない)。

小学生の頃からずっとカルボナーラ一筋20年で生きてきたんですが、つい先日食事の際、(自分でも驚くことに)ほぼ初めてナポリタンを口にしたらメチャクチャ旨かったんです。

その時自分が注文していたカルボナーラを放り出し、一口だけという約束で貰ったナポリタンをさらに二口三口と要求し、結局交換してしまいました。

今なら分かります、僕はただ惰性でカルボナーラを食べ続けていたのだと。

僕の心にはまだ、新たなる世界の訪れを受け入れる余裕があったのだと。

今度池袋に行ったら、いつも素通りしていたパンチョに足を踏み入れてみようと思います。

食券の買い方もシミュレーション済みです。






つい先日、ふとしたことで年齢を感じる瞬間があった。

僕は十代の頃は老け顔だったが、苦労が顔に出ないタイプだったようで、そこから顔つきが大きく変化することなく、今では逆に実際より若く見られることが多い。

三十を過ぎているが、何浪かした大学生くらいには見えると言われる。

だからだろうか、店で買い物をするときなど、未だに学生時代と同じように、少々雑な扱いをされることがしばしばだ。

おばちゃんの店員さんの場合は特に顕著で、「お兄ちゃん」呼ばわりのうえタメ口を使われるのが当たり前になっている。

ところが数日前に寄った持ち帰りの寿司屋で、その典型的なおばちゃん店員に「おやっ?」と思うほどに丁寧な対応をされたのだ。

少しは社会人らしく見えるようにはなったのかな、と嬉しいような寂しいような気持ちになった。

まあ、僕のお肌はまだちゃんと水弾きますけどね!(ドヤッ

・・・・・・って書きたくなるくらいだから、結局若く見られる方が嬉しいんだろうな。

男だってそうなんですよ、奥さん。




3ヶ月も書いてなかったのか・・・・・・。

書かない期間って、本当にブログの存在自体をすっぱり忘れてるもんですね。

他の人のブログ読んだりとかもしないから、何かダラダラ書くか、って思った時しかアメブロにアクセスしないし。

週1回は更新しよう、みたいのもないし。

じゃあ何で更新しようかと思ったかというと、今日山手線に乗ってたら行きも帰りも電車が緊急停車したんですわ。

帰り電車内で「またかよ」と思いつつ動き出すの待ってたら突然不意に、帰ったらブログ書こう、と思ったのです(思考回路はショート寸前?)。

でもその後私鉄に乗り換えてから、まさかの本日3度目緊急停車をかまされた時は、やっぱり更新するのやめようかと思いました。

いや、1日に3回とか嘘の臭いプンプンじゃないですか。まあ結局書きましたけど。

ちなみに3回とも「線路内に人立ち入り」でした。

一昔前なら「嘘つけ、JRめ!」とか思ってたけど、それに違和感を覚えなくなってしまった今日この頃。

踏切とか赤信号とか無視せざるを得ないほど本気で切羽詰まってる人なんて見たことないけど。

まあ、見たくもないし、だからOKって訳にもいかないか。



久しぶりに池袋の大型書店で買い物。

【漫画】

『ヒメタク』 細野不二彦

「新境地」と大きく帯に書いてありますが、細野さんは常に新ジャンルにトライしてる方です。

過去作品調べたらジャンルの広さに驚くこと間違いなし。

本当にすごいところ(=魅力)は、どんなジャンルでも一本筋の通った細野節がきっちり感じられるところ。


【書籍】

『くいんしんぼう』 松浦弥太郎

食べ物エッセイ大好き。

美味しい手土産の店を把握しておくのは、男のマナー(ドヤ顔

『”ひとり出版社”という働きかた』 西山雅子

書評を読んで読みたいなと思った一冊。

本とは何か、何故本を読むのか。

その答えは複雑そうでシンプルなのかもしれない、と最近思う。


【文庫】

『働く男』 星野源

以前読んだエッセイが面白かったので。

多才な方ですな。

『墜ちていく僕たち』『工作少年の日々』 森博嗣

著作の抜けを補完買い。

そのうち『MORI LOG ACADEMY』も揃えたいんだけど、中々本屋で見かけない。

できれば本屋で買いたいんだけど、ネット注文するかなあ・・・・・・。





※ブログタイトル通り、映画版に関する考察です。

小説版は読んでないので、もしかしたら映画化の際改変されたり削られたりして、原作を知っていれば成立しない解釈もあるかもですが、ご容赦を。※



今さっきDVDを一気に見終え、思うところあっていくつかの感想サイトをめぐってみた。

だが、自分が見た限りでは同意見がなかったので、まあこんな解釈もあるよ的な感じで書いておきたい。

出発点は、やはり映画タイトルの『ソロモンの偽証』という言葉。

誰が何について偽証したのか。

これを考察するうえで僕が手がかりにしたのは、作品内で描かれる裁判の特殊性について。

中学生が行う裁判、という点ばかり注目しすぎて忘れられがちだが、この裁判は判事、検事、弁護人、陪審員、その全てが協力して『作りあげた』裁判だということだ。

つまり、この裁判そのものが真実であるという保証はないのである。

よって、『ソロモン』=『裁判を作り上げた中学生たち』、『偽証』=『学校内裁判それ自体』ではないか、と思う。

根拠はいくつかあるが、最も大きいのは転落死した柏木くんの自殺の動機。

これがあまりに・・・・・・(割愛)なので、彼をクソ呼ばわりする声は多いようだが、よく考えてみてほしい。

彼がこのような動機で自殺したというのは、全て弁護人役の神原くんの証言によるものだ。

それだけでよくみんな(登場人物、視聴者どちらも含む)納得するな、と逆に思うのだが。

さらには屋上でのやりとりの部分が偽証し放題できる以上、当然実は神原くんが突き落とした可能性だって十分にあるのだ。

『ゲーム』についても、客観的証拠は通話記録と電話ボックスでの目撃証言だけなので、そこからでっち上げることはいくらでもできる。

また、検事の藤野さんが語る柏木くんに言われたセリフも、彼女しか聞いてない以上、その信憑性は偽の告発文と大差ない。

結局、真実にたどりついたようには到底思えない。

だとすれば、裁判自体が作り物である可能性はある。

ここで、では何故この学校内裁判を行ったのか、と考えてみる。

思い当たったのは、転落事件後の一連の流れによって殺伐とした空気が流れ続ける学校を『浄化』したかったのではないか、ということ。

浄化という言葉が大袈裟なら、何が本当なのか分からずにいる生徒・教師・親・関係者らに、ある程度納得できる落としどころを与えたかったのだ。

そう考えれば、弁護人であるはずの神原くんがその対象である大出くんを糾弾したシーンも納得できる。

このシーン、本当におかしいのは糾弾それ自体ではなく、その糾弾を判事の井上くんがやめさせなかったことである。

法律用語をひたすら暗記し、実際の手順に従って裁判を粛々と行おうとしていた彼がその行為を見逃すのは、実はそれが行われることがあらかじめ『裁判』に盛り込まれていたからだとすれば腑に落ちる。

もちろんただ神原くんの勢いに押されただけかもしれないが、不良の大出くんの脅し文句にも動揺を見せずに進行を続けたことを鑑みれば、僕は自説の方を押す。

大出くんだって転落死については無罪だけど、クズだからハメられるんだよね、彼にも原因があるよね、という落としどころを付けて生徒たちの溜飲を下げたのだ。

ここまでの流れを考えると、最後の「その後友達になりました」のセリフの見方も変わる。

「(大勢の人々を作り物の裁判によってだましきった私たちは)その後(大きな秘密を共有することで)友達になりました」という風に補完できうる。



以上。いかがでしょうか。

もちろん、これは僕の深読みに過ぎないので、制作者の意図に適したものかどうかは分からない。

無理矢理・こじつけに感じるところも多々あるだろう(例えば、僕の説だと神原くんが他校の学校内裁判に加わりたがった理由がイマイチ分からない。まあ、それもいくらでもこじつけできるけど)。

ただ、「結局、これフィクションだもんね」というのが根底にある感想があまりに多いので、「じゃあ何でフィクションの世界の『真実』をそのまま受け入れるの?」と思ったのです。

全てが嘘、全てが真実だというケースより、嘘に真実が混じっている、真実に嘘が混じっている、というケースの方が世の中圧倒的に多いはず。

何でも白黒付けて断定することは可能だけど、それが絶対に正しいと思い込むことは危険だし、息苦しいし、何より面白くない。

自分の意見が簡単に世界中に発信できる今、僕はそれを念頭に置いて日々を過ごしている。