○館記の解説
 弘道とは如何なる義であるか。弘道とは人が能く道を弘めるといふ意である。即ち道を世に弘め、人々に能くこれを実行させることである。然らば其の道とは何であるか。道とは天地に基いた人の大道である。
 凡そ事物には理法(則)といふものがある。宇宙の万物皆夫々此の理法に順つてゆくことが道である。即ち天地には天地の道があり、人には人の道がある。故に人たるものは、斯の道から寸時も離れることは出来ない。而して我が日本民族としての遵ひ守るべきの道、これ即ち皇道である。
 謹んで考へるのに、神代に於て、畏くも 天祖天地に基づいて大中至正の道(極)をお立てになつて、斯の国を肇め、斯の国に君臨し、斯の国民を教へ導きなされ、そして後世御子孫がこれを承け継がれるやうに、天業の基をお定めになつた。これによつて、天は高く地は低く、各々其の所を得て安らかに万物皆夫々時を得て完全に生々発育して居る。神皇が世界に照臨し、天下を統べ治められるのに、一として斯の道に由りたまはぬことはない。斯の道によりて宝祚は無窮であり、斯の道によりて国体は尊厳であり、全国民は斯の道により安寧幸福であり、又斯の道の光被によつて諸外国の民までも悦服し同化する。神州の宇内に冠絶する所以、此に存するのである。而して御歴代の 天皇は、畏くも 天祖の立て給うたかやうな立沢な道を以て、これで充分であると御満足なさらず、更に他国の長所を取入れ、斯の道の内容を一層立派なものにすることを楽しみとなされた。乃ち支那の理想時代と謂はれた唐虞三代(尭・舜、夏・殷・周の三代)の政治文化の如き、其の美点を資り入れて皇政上の御参考となされた。是に於て、宇内に冠絶する我が皇道が、愈々大きく、愈々明らかに、愈々善美を極めるに至つた。
 然るに、中世この方、此の正道に反した邪悪な外来思想が世人を欺き惑はし、また見識の狭い、心卑しき儒者や、時代に迎合して学の本義を曲げるやうな学者が出て、我が国粋を捨てて外国の風に惑溺するやうになつて、為に畏れ多くも 天皇の御徳化が漸次に衰替し、兵禍戦乱続出し、皇道の世に明らかでなくなつたことが随分久しい間であつた。
 我が東照公には、乱世を治めて正造の御世に引きかへされ、皇室を尊び、夷狄を攘ひ、武功文徳並似び勝れ、以て天下太平の基を開かれた。我が祖威公(頼房)領を常陸に封ぜられるや、夙に日本武尊の御性格を慕はれ、神道を尊崇し、武備を治め整へられた。次いで義公は威公の志業を継承してこれを大成することに努められ、或る時支那の伯夷・叔斉の伝を読んで痛く感動し、更に儒教を崇ばれ、人倫を明らかにし、大義名分を正し、以て皇室の御垣の守となられた。爾来百数十年の間、子孫代々其の遺業を承け継ぎ、朝廷及び幕府から甚大なる御恩沢を被り、以て今日に至つたのが水戸藩の実情である。さうであるから、苛も臣子たるものは、斯の道を益々推し弘め、先祖の美徳を愈々顕し、以て列聖の鴻恩に報い奉ることを深く思はなければならぬ。これ則ち弘道館の設けられた所以である。
 次に建御雷神を館内に祀つたのは、どういふ訳であるか。これは皇道の淵源を崇拝する精神からである。皇道の淵瀬は固より 天祖であるから、天祖を祀るのが本筋ではあるが、人臣が 天組を祀ることは畏れ多いといふので此の神を祀つたのである。建御雷神は、神代に於て 天祖の大御業を御助けなされた御神であらせられ、しかも領内鹿島に鎮座まし/\霊験あらたかなるによつて、此の神を祀り、以て報本の義をこれに寓し、領内の民をして斯の道の由つて来る所を知らしめようとするものである。
 その孔子廟を館内に造営したのは、如何なる訳であるか。それは決して神儒同格の施設といふのではない。惟ふに唐虞三代の道を折衷して中正の処に定められた孔子教が、忠孝仁義を重んずる其の精神に於て、我が皇道精神と一脈相通ずるものがあり、古米我が国の治教上に寄与するところが尠くなかつたので、斯の敦の本尊たる孔子の徳を欽慕し、其の教に資りて尊び、人々に我が皇道の内容が益々大きくなり、愈々明らかになつたことが、決して偶然でないことを知らしめようとするものである。
 嗚呼、我が水戸藩下の士民たるもの、日夜懈ることなく、斯の館に出入して学び、我が神州固有の皇道を遵奉し、皇道の精華を発揮する為の助として儒教を取入れ、忠孝の大義を重んじ、且忠と孝とは一本で二物ではないことを体得して実行し、文武は其の帰を一にするものであるから、両道分れることなく一本筋で修練し、また学問と事業との一致を認め、理論と実際とが相離れないやうに修養し、敬神と崇儒が其の一方に偏し、又は神儒同格とならぬやう留意し、能く衆人の考を集め、衆人の力を展べ、上下一体一気、治教に努力し、以て国家無窮の御恩に報い奉るやうにしたならば、ただに我が藩祖宗の志を堕さないばかりでなく、在天の神霊も亦御降りになつて御助け下され、真に皇道を推弘める所以となるであらう。これ実に弘道館教育の方針とするところである。斯の弘道館を創立し、其の政教を一にして斯の道を推弘しようとするものは誰であるか。権中納言従三位源朝臣斉昭である。

 

以上、興亜教育会編纂『藤田東湖正気歌・回天詩・弘道館記 読解』による。
同書の奥付は次の通り。


元宮は権中納言従三位源朝臣斉昭公と弘道館烈士の御霊前でもあります。

いち弘道館門下生である私にとっては学問の府 聖地ですww


 

弘道館記

徳川斉昭


弘道館記(訓み下し)

弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざる者なり。弘道の館は何の為にして設くるや。恭しく惟みるに、上古神聖、極を立て統を垂れたまひ、天地位し、万物育せり。其の六合に照臨し、宇内を統御したまふ所以の者は、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。宝祚は之を以て窮り無く、国体は之を以て尊厳に、蒼生は之を以て安寧に、蛮夷戎狄は之を以て率服せり。而して聖子神孫は、尚肯て自ら足れりとしたまはず、人に取りて以て善を為すを楽みたまふ。乃ち西土の唐虞三代の治教の若きをば、資りて以て皇猷を賛けたまふ。是に於て斯の道愈々大に愈々明にして、復た尚ふること無し。中世より以降、異端邪説は民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲学は此を舍てゝ彼に従ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵ぎ、大道の世に明ならざるや、蓋し亦た久し。我が東照宮は乱を撥めて正しきに反し、王を尊び、夷を攘ひ、允に武にして允に文に、以て太平の基を開けり。吾が祖の威公は実に封を東土に受け、夙に日本武尊の人となりを慕ひ、神道を尊び、武備を繕ふ。義公は継ぎ述べ、嘗て感を夷斉に発し、更に儒教を崇び、倫を明かにし名を正しうし、以て国家に藩屏たり。爾りしよりこのかた百数十年、世々遺緒を承け、恩沢に沐浴し、以て今日に至れり。則ち苟も臣子たる者、豈に斯の道を推し弘めて、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館の設くることを為す所以なり。抑も夫の建御雷の神を祀るは何ぞや。其の天功を草昧に亮け、威霊を斯の土に留むるを以て、其の始を原ね、其の本に報ひ、民をして斯の道の由りて来る所を知らしめんと欲するなり。其の孔子の●(マダレに「苗」)を営むは何ぞや。唐虞三代の道、此に折衷するを以て、其の徳を欽し、其の教に資り、人をして斯の道の益々大にして且つ明なる所以は偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。嗚呼我が国中の士民、夙夜懈らず、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教に資り、忠孝無二、文武岐れず、学問事業其の效を殊にせず、神を敬ひ儒を崇び、偏党有ること無く、衆思を集め、群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報ぜば、則ち豈に徒だ祖宗の志の墜ちざるのみならんや。神皇在天の霊も亦た将に降鑒したまはんとす。斯の館を設けて以て其の治教を統ぶる者は誰ぞ。権中納言従三位源朝臣斉昭なり。

『勤王文庫』第弐編(大正8年初版。昭和6年11版。大日本明道会)による


 

 靖国の元宮とは
この小さな社は、明治維新のさきがけとなって斃れた志士の霊を祀るため同士によって京都に建てられたもので、70年後の昭和6年(1931)に靖国神社に奉納され、この場所に移されました。国を守るために尊い生命を捧げられた方々の御霊を祀る靖国神社の前身となったことから、「元宮」と呼ばれています。


弘道館記の素読

 明日もやっております
 お近くの方はぜひおいでください  

麻布十番にある賢崇寺(けんそうじ)に詣でしませんか?

都心ですが下町の風情の残る麻布にて

 以下の要領で実施されますので、どうか奮ってご参加いただけたら幸いです。


【日時】平成24年4月6日(金)

【集合】地下鉄南北線「麻布十番駅」4番出口 11:00
   ※「弘道館」のプラカードを持った人が目印です。

【内容】賢崇寺にある鍋島藩主の墓所に詣でる
    ほか、周辺散策および懇親会(途中参加・離脱自由)
    http://jin3.jp/otera/kensouji.htm
   ※寺社仏閣がたくさん!興味ある方はぜひ!

【会費】無料(実費のみ)

【備考】小雨決行・荒天中止

【主催】弘道館 http://ameblo.jp/koudoukan1

< 弘道館コミュニティ>




日本には四季をつかさどる姫神様がいらっしゃいます。
春には佐保姫様、夏は筒姫様、秋は竜田姫様、冬は白姫様。
佐保姫様は春霞の衣の姫様です。

春の姫様のご守護といえば東をつかさどる神様なので、日の出、健康かな。。
皆さまに春姫様のご加護を。。