ある雨の日に、

私は彼に別れを告げた。


とても雨の強い日で

マンホールの下から

量を増した下水が

ブクブクと唸った。


その唸りは

他人をさげすむ時の

彼の嘲笑と似ていた。


深い暗い

ほらあなの奥から聞こえる

得体の知れない魔物の呻きだった。


そう思うと

街のあちこちの下水道から

彼の笑い声が沸いて

私を呼んだ。


家に帰ると

朝は空だった

雨漏りをうけるバケツに

水が溜まっていた。



割れ目の隙間から


一滴、

一滴、


ゆっくり足されて

水かさが

ひたひたと上っていく。



人を好きになる御椀があるとしたら、


私の彼を想う御椀は


一気に「好き」が溜まるのではなくて


こんなふうに



だんだんと


ちょうどこの雨漏りが一滴を足すように


小さな「好き」を積み重ねて


いっぱいになった。


次もこんな風に人を好きになるのだろうか。



少し時間を置いてまた見てみると


バケツの水はいっぱいになっていて

少しでも刺激を加えたら

こぼれてしまいそうで


表面張力で

かろうじて保っていた。


このバケツの水と

私の感情は一体だった。


私の胸は

膨らませすぎた風船のように

いっぱいいっぱいで


わずかな刺激で

爆発する準備はできていた

バケツを外に出そうと持ち上げたら


バランスを崩して


床に水をぶちまけた。



その瞬間、


私の感情に栓をしていたコルクが抜けて


よくわからない感情が

大波のように

私をさらって


わっと涙があふれ出てきた。


外の雨は止みそうだったが

私の雨はいよいよ本降りで

留まる所を知らなかった。


その涙が

彼がいなくなった悲しみか

彼を可哀想に想う同情か
彼は私さえも信用していなかったのではないかという寂しさか


どれから沸いてくるのかは

もうどうでもよかった。








ひたひたと

前に、付き合ったといえるかわからないが

冬季期間限定の彼氏がいた。

彼はサークルの代表をやっていて、

多くの同輩後輩を引き連れるボスに見えた。


飲み会では人一倍騒ぎ皆を盛り上げるピエロ役。

芸人のように面白いことを言って場を沸かせた。


ただ、彼は完全に演じていた。


彼は本当に孤独な人間だった。


皆に振りまく愛想は孤独にならないための防衛だった。


いじめの経験があり

教室の日陰にいた彼は

ありのままで愛されることを知らずに

素の自分を必死に笑って隠していた。


私の前ではピエロの仮面をそっとはずして

底なしの沼のような暗い目で

周りの人間を汚い言葉で罵った。


彼の心は貧相だった。


たっぷりと水を含んだ

重くて汚くてけだるい

雑巾だった。


どうにもならないほどズタズタで

その穴は私がいくら縫い合わせようとも無理だった。



やがて私の狂った方位磁針は動きを止めて

未来へ向けての確かな方向を指すだろう。


やがて赤いニキビの暴走は止まり

元の白い肌を取り戻すだろう。


とにかく一人ではいられなくて

誰かに「うん、君はそのままでいいんだよ」と

言って欲しかった。


大きな大きな布団の上にダイブするように

暖かな温泉につかるように


もう誰かに大きく暖かく包み込んでもらわないと

指先からサラサラと砂になって

風化してしまいそうだった。


私の風化を止めたのは祖母であった。


祖母は私の孤独を理解し

孤独にやられた傷を再生するメシアだった。


祖母の発する言葉は

暑い夏に飲み干すポカリスエットみたいに

私の体全体にしんしんと染み渡った。


ポカリスエットはおなかの中で

生姜湯に変わって私の心をポカポカと暖めた。


私は

母胎に返り

羊水に揺られる

胎児のような安心感に包まれ

安らかな眠りについた。