「その声…さと…し……?」
青白い肌。
幼い顔。
智と同じ、透き通るような、だけど柔らかくふにゃりと骨の通らないような優しい声。
だけど
その男は、どう見ても智とは違う顔をしていた。
「…残念ながら、今の名前は違いますよ…櫻井翔さん。」
「…今の…って…どういうこと…?どうして君は俺の名前を…」
「…1ヵ月前、あなたを海で救ったんですけど…忘れちゃいましたかね。」
──死なないで…!
海の中で聞いた声がリフレインする。
「あの時…の?」
「そう。俺は二宮和也。引っ越してきたばっかなんで、友達いないんです。よろしく。」
スっと差し出された左手に、戸惑いながら右を出しかけ、左を出し直す。
何が何だかわからないまま、握手を交わす。
その手の感触も…智のようなスラリと骨ばったものではなく、まるで子どものような幼い手だ。
「…どういうこと?君は一体…。」
「あなたの想い人の、生まれ変わり…って言ったら信じますか?」
……は?
ニコリと口先だけで笑われても、俺は笑顔を貼り付けることが出来なかった。
生まれ変わり、だって?
目の前の男は雅紀と同じくらいに見える。
12年前に死んだ智の生まれ変わりにはどうしても見えない。
更には話し口調や見た目、醸し出す雰囲気は似ても似つかない。
だけど…声は、間違いなく智の声だ。
それに俺があの日溺れたことも知ってるということは──
「本当に…智……?」
「ええ。ま、今日は挨拶だけのつもりだったんで。また来ますよ。これから長い付き合いになると思うから…。ね、翔さん…?」
二宮…と名乗った男は、ニッと口角を上げて呆然と立ち尽くす俺を残し立ち去った。
俺は引き止めることも出来ないまま、その後ろ姿を見送っていた。
「ねぇ翔ちゃん、さっきの誰?」
雅紀が海から上がって来た頃、もう男の姿は見えなかった。
「あ、あぁ…何か…この近くに引っ越してきたらしい…。」
命の恩人だ、とは言い出せなかった。
それに関して丸っきり信じてない訳では無い。
あの時、あの声を聞いたのは確かだ。
しかしその後の記憶が不鮮明過ぎて。
目が覚めた時に男がいなかったことも気になる。
「ふぅん……。」
雅紀が、男が去った先を訝しげに見つめるも、「…気のせいか!」と切り替える。
「雅紀?」
「ううん、なんでもない!」
雅紀はいつものようにニッコリ笑った。
「…って、サトちゃん?どうしたの?」
雅紀の声にやっと目を向けたサトシは、真っ青な顔をしていた。
「サトシ?…サトシっ!!!」
身体を揺さぶって、やっと我に返った様子で。
《あ…ごめんなさい、ぼーっとしてました。》
ぎこちなく笑うサトシは、あからさまに嘘をついている。
だけどこの後何を聞いても、何でもないと繰り返して真相を口にはしなかった。
《さとし…とは、誰のことですか?》
夜、眠りにつく前。
風呂から戻り隣に行くと、サトシが不安げに俺を見つめる。
…そうだよな。
自分の口で話そうとしてたのに…こんな形になってしまった。
「…ごめんな。ちょっと長いけど…聞いてくれるかな。俺の過去の…『初恋の人』の話。」
サトシは、こくりと頷いた。
俺はゆっくりと重い口を開いた。
*
出会いは、俺が5つの時。
親が海辺の街に別荘を買った。
その別荘に母と俺が入り浸りになったのは、今考えてみると至極自然なことだった。
本邸には父がしょっちゅう女を連れ込んでいたからだ。
自分で言うのもなんだが、櫻井グループは日本でも屈指のトップ企業だ。
不倫するなら別れてやる、とも気軽に言えない程自由を与えられていた母は、離婚することなく別居という道を選んだ。
たまに顔を見せる父も、彼なりに俺や母のことを家族だという認識はあったのだろう。
好きに出来るようにと、家政婦を雇い、母と俺に少しでも楽をさせようとした。
母はそれを単純に感謝していた。
数年して雅紀が生まれた位だから、愛されている、とすら受け取っていたのかもしれない。
今思えば2人にとってそれは一種の愛の形だったのだろう。
しかし当時の俺にとっては、金を支払うだけの冷酷な父親と、それを子どものために邪険に出来ない可哀想な母親だった。
今でもあの瞬間を覚えている。
「こんにちは」
その時母親は引越しの手続きでバタバタしていて。
1人で砂浜で城を作ってた時に声をかけてきたのが、日傘をさした15歳の智だ。
10も歳上な智は、海街に住んでいるとは到底思えないような透き通るような肌で。
それを象徴するかのような白い服に包まれた智は、儚く、脆く、美しかった。
キレイ。
5歳児の脳裏に、そんな言葉がすんなりと浮かぶ程。
前髪も伸ばし長髪の智は、性別すら不鮮明な姿見で、声が透き通るように柔らかかった。
背中に太陽の光を背負った男が、砂場に座る俺に向かって微笑んだ。
「へぇ、あの新しいお屋敷の坊ちゃんなの?大きいお家だね。おいらは大野智。よろしくね、翔くん。」
雷が落ちるっつーのかな。
俺はあの時、ハッキリと確信した。
ああ、この人が好きだって。
智は近くの保養所で暮らす、病弱な青年だった。
綺麗な歌声の人だった。
優しい笑顔の人だった。
温かい性格の人だった。
美しい絵を描く人だった。
頭のいい人だった。
智のことを知れば知る程、自然に惹かれていった。
「翔くん」
10も歳上なその人は、俺の事を柔らかい声でそう呼んでいた。
「智」
生意気な俺は、悪気なく彼を呼び捨てで呼んでいた。
多分、智がそれでいいと言ったんだと思うけど…どういう経緯でいつからそう呼び始めたのか詳しくは覚えていない。
俺らは年の離れた兄弟のようにいつも一緒に過ごした。
学校が終わったら、すぐにいつもの待ち合わせ場所へ走っていく生活を送っていた。