大野の震える指がひとつ、またひとつとボタンを外す。
松本は口角を上げ、下目使いでそれを眺める。
「…俺を見ながら脱 げって。」
松本の声に、大野の手は止まる。
「誰のために脱 いでんのか、ちゃんとその目に焼き付けてよ。」
「……最低ですね。」
大野は嫌な顔を隠さずに松本を睨む。
「ん、イイ顔。折角可愛い顔してんだから、もったいぶらずに相手に見せるべきだと思うけど。ソソ るよ、その反抗的な目も…。」
松本がゆっくりと近付き、大野の顎を持つ。
クイッと上に向けられる間も、大野はじっと松本の顔を見つめていた。
──いいだろう。
大野は覚悟を決める。
何か一つでも、弱味を見つけるのだと。
そのために、どんな些細なことも見逃さない…。
(お前の挑発、受けてやる。)
松本が大野の真剣な目に、クッと笑う。
「キスする時にガン見するタイプ?まぁ、いいけど。そんな余裕無くしてやっからさ。」
「っ…」
大野は迫る影に反射的にぎゅっと目を瞑る。
(櫻井さんっ……!)
松本の半開きの口が大野のそれに当たる直前。
コンコン。
扉の音がぴたりと2人の動きを止める。
驚く大野に、松本は大丈夫だと視線を送る。
「今、忙しいから後にしてくれるかな。」
松本がそちらに向かい声をかけると、
「……俺です。」
低い二宮の声が扉越しに響く。
「ああ…」
ちらりと大野を見て少し考え、松本は溜息をつく。
そして、着ろ、と小さく呟いた。
大野は慌ててボタンを戻す。
「入れ。」
松本が服が戻ったのを確認し、面白くなさそうに言うと、すぐにカチャッと扉が開く。
「何の用かな。忙しいんだけど。」
松本はストンと椅子に座る。
二宮がちらっと大野の…胸あたりを見る。
ボタンがかけ違っていたのかと慌てて確認する大野を尻目に、二宮の視線はすぐに松本へ向く。
「皆川のバアサン、スナイプ手術を受けるとの噂を耳にしたもんで。」
二宮は感情のない目で、深く座る松本を見る。
『懐かない猫』。
先程そう表現した通り、二宮は今にも噛み付きそうな雰囲気だ。
「ふん。アイツら言うのがはえぇんだよ…」
「…松本教授。まさか、俺を差し置いてお楽しみ予定でしたか…?」
ニッと妖艶な笑みを浮かべる二宮に、大野はギョッとする。
二宮のそれで、一瞬で部屋の空気が変わる。
「…だとしたら?」
松本が薄く笑う。
「……別に?でも……」
松本に歩み寄り、その膝にゆっくり跨るように二宮が座る。
ギッと二人分の体重を受け止める椅子の音。
大野はその光景に息を呑む。
「オモチャの斡旋業者より、アナタの悦 ぶこと…俺の方が出来ると思いますよ…?」
ぐりっと 腰を 押し付ける二宮に、松本が嬉しそうに笑って髪を梳く。
「妬くんだ、お前も。」
「まさか。」
そう言い、二宮は松本の唇 に噛み付いた。
「んっ…ぅ、…っぁ…」
目の前で始まる痴態に大野が呆然としていると、二宮が視線で扉を指す。
ハッと我に返り、大野は「し、失礼します!」と教授室を後にした。
「何を考えてる?」
「…何がでしょう?」
二宮が服装を整えながら無表情に視線だけ松本へ向ける。
「何でアイツを助けた?」
「助けた?……ああ、あの斡旋業者ですか。」
二宮がやっと思い出したかのようにクスッと笑う。
「助けたつもりはありませんよ。ただ…俺は自分の居場所へ戻ってきただけです。」
『居場所』などという甘い言葉に松本が気を良くして、腕を広げる。
抱 きしめてやろうということだと簡単に理解出来たが、二宮はふっと笑う。
「黄金の腕、ちゃんと労わって下さいよ。火遊びは控えてもらわないと。教授のオペを待ちわびる患者は山程いるんだから。」
二宮は何事も無かったかのように、身を翻して出ていった。
「…懐かないねぇ…。」
松本は喉で笑い、床に落とした白衣を羽織った。
デスクの上では、真っ黒なペアンが飾られている。
松本のみが使うことを許される漆黒のペアン。
『ペアンを使う』ということは、手術の成功を意味する。
松本にとっての、象徴だ。
「…二宮、悪いな…。」
松本は苦しげな表情でブラックペアンを撫でる。
「俺は、お前の息子を……。それでも、この秘密は絶対に守るから……。」
「二宮先生、あの…。」
「んだよ?」
二宮が住み着いている仮眠室で待ち伏せをしていた大野は、声をかけておいて戸惑った表情を浮かべる。
二宮は露骨に眉を顰める。
「その…さっきは…」
「ああ。別にアンタのためじゃないから。」
二宮が大野の脇を通り抜け、どすんとソファに腰掛ける。
「…いつから?」
「…お前に関係ねぇだろ。」
「そうですけど…」
大野が拳をぎゅっと握る。
「…好き、なんですか?松本教授のこと。」
「はぁ?まさか。真逆だよ。」
真逆。
その意味を理解しないまま、大野は口を開く。
「……なら、逃げて下さい。ここを辞めたら良いだけの話でしょう?」
「お前に関係ねぇだろ。つーかさっさとあのオモチャ持ってここから出てけ。邪魔。」
二宮が近くにあった服を手繰り寄せ、顔に載せる。
これ以上喋りかけるなというボーダーラインを嫌という程感じた大野は、小さく
「とにかく…ありがとうございました。」
と頭を下げ、仮眠室を後にした。
「…俺の獲物だ。復讐が終わる前に部外者に横取りされてたまるかよ。」
二宮の消え入るような独り言は、空の仮眠室に吸い込まれた。