迷いの無い人 とは 正しく迷う人 ? | 祐女(ゆめ)・くぼうゆめ

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迷いの無い人には憧れるものだけど
そもそも 人はなぜ 迷いの無い姿に憧れるのだろうか?。



「あいつ憎たらしいな。殺しちまえ。」
グサッ!。・・・死んだ(笑)


これも 迷いはないんだけど 憧れる?。<<☆Σ(゚Д゚ ヲィ! 


いやいや・・・(^^;

馬鹿な例を出したけど・・・・ではなぜ馬鹿だと思う?。<<☆Σ(゚Д゚ ヲィ! 

(笑)

まぁ 例えば 「極論過ぎる そもそも それは正義ではない。」・・とかって話ね。

正義ではない。・・と言うならば
「迷いの無い」行動には 「選択した道が正義でなければならない」という前提条件がある。
・・って事になる。


つまり・・・その前提条件を満たすためには
行動を起こす(道を選択する)前に正義かどうかを考えなければならないってことだ。

現実に私達が 色んなことで悩む場合
その事柄というものは単純ではなくて複雑だから悩むのであるから
これは正義なのか? それとも悪なのか?と考えることは熟慮を要する。

当然 「熟慮」とは「深く考える」ことであるから
その姿は「迷いの無い人」には程遠い「悩める(迷う)人」って姿に見えるだろう。

だが・・・
「迷いの無い」行動には 「選択した道が正義でなければならない」という前提条件がある以上は
その熟慮(悩み)は避けてはいけないことになる。

選択した道が正義となっている「迷いの無い人」だって実は熟慮はしているわけで
沢山経験して熟慮した(悩んだ)から 公式が出来上がっていて
答えを導き出すのが早くなっているだけだ。

その公式を作るためには 結局 熟慮(悩み)が必要だ。


だげと 熟慮しても正しい結果になる選択が出来なくて 
それでも道は選択しなければならない。

ほとんどの迷いとは そういうものだったりする。


それでも 道を選択した以上は突き進むしかない。
突き進む為には 「迷い」は邪魔だ。

「迷いの無い人」とは選んだものに対しての「潔さ」もあるのだろうが
その「潔さ」を持てるのは 自分が「悪い結果になっても仕方ない」と納得できるだけの
充分な迷い(熟慮)(悩み)があったからだ。

つまり・・・
「迷いの無い人」に成る為には 
沢山 迷わなければ(熟慮しなければ)(悩まなければ)ならないってことでもある。



そして 道を突き進むには「迷い」は邪魔だが 
常にその道が正しいのか?という「検証」は必要だ。

その検証作業は時として熟慮しなければならない時がある。

結局 熟慮はどこまでも着いて回るから
「迷いの無い人」とは「悩まない人」って事じゃない。

どちらかと言うと 「正しく悩む(迷う)人」って言葉の方が適切かもしれない。


だから 悩む(迷う)ことは別に悪いことではない。

問題は悩み(迷い)方なのだろう。

ちゃんと 答えを出せる 悩み(迷い)方をしようってことなのだろう。