彼の演奏生活30周年のコンサートのプログラムに書いた言葉に
「音楽家は河原乞食だと、若いころからいつも思っていました」
というのがあるらしい。
河原乞食を決して蔑んでいうのではなく、演奏家は常に努力し、自分の音楽を磨いて、技術を高めていかなければ、聴衆にはすぐにそっぽを向かれてしまう、 そういうことらしい。
なるほど。技術をというとテクニックばかりを追いかけてととられがちだろうけれど、これはそういうことをいっているのではないとおもう。 たゆまず研鑽していく、自分の音楽を追い求めていく、そういうことなのだろう。わたしもそうでありたい。切実に今思う。
もうひとつ、
「音楽の演奏というのは、とにかく人に聴いてもらわないとだめなのです。 自分で練習して、ひきこんで、それを聴衆に聴いてもらう。 自分のためだけにひくのではなく、人前でひく。 それを何回も何回も繰り返していくことで音楽がより深められます。 一人でも、二人でも、三人でもいいから、とにかく聴いてもらうことが大切です。 演奏というのは聴き手あってのものなのです。」
なるほど。私がまさにこれ。人の前で演奏していないと自分が生きている気がしない。 自分の部屋で練習したり、曲を作っていても、やはりステージがないと息苦しくなる。 これからは、演奏する機会をどんどん増やして生きたいと思う。 今まで以上に、あちらこちらにKotoをかついでいってみようと思う。 たしかに、聴き手がいない演奏は、自分の部屋でする演奏とかわらないものね。
今日読んだ本は、図書館から借りた「左手のコンチェルト」(ピアニスト舘野泉)という本でした。
この本の中では、他にも、「左手のための」いろいろな作曲家に委嘱をお願いしたり、書いてもらったりしているそうで、 私も、もっと演奏を磨けば、私の二十絃箏に書きたいという方が現れてくるのではないか?切に願っています。 それまでは、自分で書いたり、ある曲を演奏したりしていくしかないけれど。
そしてもう一つの願い、再演。私の曲を、私以外の演奏家にぜひやってもらいたい。 彼らにやりたいと思わせるような曲と演奏を私はこれからやっていかなければいけない。 この決意の大きさを理解してくれる人は、果たしているのだろうか・・・。せめて身近にいてほしい。 そこが今の私の悲しい現実である。
Gayo