「守護不守國,而寄政於臣;臣握兵食,而國聽於下。名存而實亡,亂之本也。」
通鑑戰國


威烈王二十三年(戊寅、西暦前403年)

「初命晉大夫魏斯、趙籍、韓虔為諸侯。」

「はじめて晋の大夫・魏斯、趙籍、韓虔を諸侯に命ず。」

戦国時代の始まり――三家分晋

これは『資治通鑑』の第一条であり、司馬光はこの出来事をもって戦国時代の始まりとしています。


日本の戦国時代においても、応仁の乱を起点とする見方や、明応の政変を始まりとする見方があるように、中国の戦国時代についても、「三家分晋」以外に、「三家が智氏を滅ぼした時」や「成周の成立」を起点とすべきだとする意見があります。

 

三家分晋とは、周王が晋公国の三人の大夫――魏斯・趙籍・韓虔――を子爵から侯爵へと昇格させ、正式に諸侯として認めた出来事を指します。これにより三者は、従来の主君であった晋幽公と並び立つ存在となりました。


晋国そのものはこの時点で滅亡したわけではなく、その後も27年間は存続しましたが、領土の大半はすでに韓・趙・魏の三国に分割され、晋に残されたのは絳城と曲沃の二城のみでした。

 

晋国の姫氏は、春秋前期には覇を唱えた最強の諸侯国でした。しかし驪姫の乱において、多くの公子が政争の中で命を落とします。最終的に即位した晋文公は、一族内の争いを避けるため、公子・公孫を大夫に封じることをやめました。これがいわゆる「晋無公族」です。


以後、晋では異姓の大夫が重用され、彼らが事実上の公族となったため、姫氏の権力は次第に衰退していきました。国内では諸氏族が台頭し、春秋末期には韓・趙・魏・范・智・中行の六家が最強勢力となり、「晋国六卿」と称されます。


その後、まず范氏と中行氏が他の四家によって滅ぼされ、残る四家のうち智氏が一強となりますが、やがて韓・趙・魏が連合して智氏を滅ぼし、その領土を分割しました。これが三家分晋の直接的な基盤となったのです。

日本戦国にもあった「分晋」構造――斯波氏の場合

同様の出来事は、日本の戦国時代にも見られます。


戦国ゲームなどでは、能力も低く、弱小勢力、いわば「ザコ扱い」されがちな斯波氏こそが、今回の主役(あるいは被害者)です。斯波氏は足利氏の一門で、家格においては畠山氏や細川氏をも上回り、室町幕府の三管領家の筆頭に位置していました。

 

斯波氏の主な領国は、尾張・越前・遠江の三国でした。畿内近辺に基盤を持つ畠山氏や細川氏と比べると、京都から距離があるため、当主は幕府政治に参与する目的で長く在京し、領国統治は家臣に委ねざるを得ませんでした。


当初、筆頭家臣で執事を務めた甲斐氏が越前・遠江を掌握し、両国の守護代とされ、尾張は序列第二位の織田氏が尾張守護代を務めていました。

越前朝倉氏の下剋上

朝倉氏七代当主の孝景(一般に英林孝景とも呼ばれ、朝倉宗滴の父)は、次第に越前守護代の甲斐氏や他の国人領主を凌駕し、斯波氏の筆頭武将となります。しかし応仁の乱では西軍を離脱して東軍に与し、最終的な東軍勝利に貢献しました。


この功績によって、名実ともに斯波氏に代わって越前守護となったとする見解もありますが、孝景の死後、その子・氏景が越前守護代に就任した記録が残っており、孝景自身も守護代に過ぎなかったとする説もあります。

 

孝景の旧主である斯波義敏は、朝倉氏による越前支配に強く反発し、幕府に対してたびたび訴訟を起こしました。これに対抗するため、孝景は斯波義俊を「鞍谷公方」として擁立し、義敏と対立させます。


義俊の父は斯波義廉で、もとは渋川氏の出身でしたが、将軍足利義政の命により斯波氏の家督を継ぎ、越前・尾張・遠江三国の守護職も継承していました。孝景は義俊を名目的な越前国主とし、幕府が支持する義敏と対抗させたのです。

 

朝倉孝景が実際に越前守護であったかどうかは別として、朝倉氏の家格が守護代相当と認識されていたことに異論はありません。氏景の代には、もう一つの越前守護代家である甲斐氏や反対勢力を完全に打ち破り、越前を事実上統一しました。


しかし朝倉氏が正式に越前守護と認められるのは、孝景の曾孫で朝倉家第十代当主、同名の孝景(曾祖父と区別して宗淳孝景と呼ばれます)の時代になってからです。

尾張織田氏の下剋上

一方、越前出身の織田氏は、斯波高経が越前守護に補任された際に斯波氏の家臣となり、その後尾張守護代となってからは、次第に本拠地を越前から尾張へ移していきました。


織田氏嫡流で尾張守護代を世襲した家系は、代々伊勢守を称したため「織田伊勢守家」と呼ばれます。伊勢守家は臣下の臣という立場ながら、幕府将軍が斯波氏を経由せず直接御内書を出すことも多く、その地位は他国の守護にほぼ等しいものでした。

 

しかしそれゆえに、伊勢守家も斯波氏と同様に長く在京せざるを得ず、尾張の実務は配下の「又守護代」、すなわち織田氏分家で代々大和守を称した織田大和守家に委ねられました。


応仁の乱では伊勢守家が西軍、大和守家が東軍に属し、戦後、幕府は大和守家の織田敏定を尾張守護代とし、伊勢守家の織田敏広を更迭します。これに対し敏広は、岳父である美濃の斎藤妙椿の支援を受けて対抗しました。最終的に幕府の調停で、尾張は上四郡を伊勢守家、下四郡を大和守家が統治する形となります。

 

守護代職を失った織田敏広の死後、その子・寛広は正式な尾張守護である斯波義寛を迎え入れ、大和守家と対抗しました。これにより斯波氏は一時的に尾張支配を回復します。


しかしその後、美濃守護・土岐氏の家督争いが勃発し、伊勢守家は旧来関係の深い斎藤妙椿を支援し、大和守家は対立陣営を支持したため、尾張は再び混乱に陥ります。斎藤妙椿は戦死し、伊勢守家は後援を失って衰退します。


一方、大和守家は斯波氏が遠江に繰り返し出兵したこと(遠江は今川氏の侵攻を受けていました)に反発して挙兵しますが、斯波義達に鎮圧されます。しかし永正12年、義達が遠江で大敗し、斯波氏は尾張における権勢を完全に失いました。

 

織田信長の出身である織田弾正忠家は、実際には大和守家の三家老の一つに過ぎず、他の二家は因幡守家と藤左衛門家でした。しかし弾正忠家は経済力を背景に、信秀の代には主君である大和守家を凌駕します。


信長の時代、大和守家の尾張守護代・織田信友が尾張守護斯波義統を殺害すると、信長は義統の子・義銀を奉じて大和守家を滅ぼし、続いて伊勢守家を滅亡させ、最後に斯波義銀を追放して、尾張における下剋上を完成させました。

 

遠江といえば今川氏の支配が強い印象を持つ人も多いでしょうが、実際には斯波氏が遠江守護を務めた期間も、今川氏に決して劣るものではありません。ただし、斯波氏と今川氏の遠江を巡る争いは、また別の物語であり、今回の下剋上の主題とは直接関係しないため、ここでは触れません。

 

 

本文では、『資治通鑑』冒頭の「三家分晋」という時代を画する出来事を軸に、日本戦国史における類似の構造を考察しました。織田氏や朝倉氏による尾張・越前の掌握は、韓・趙・魏の三家が共謀して主君を架空した三家分晋とは形を異にしますが、主家に代わって統治を担い、戦国大名化したという点では大きな差はありません。


もちろん、日本の戦国時代には下剋上の例は枚挙に暇がなく、斯波氏以外にも多くの「苦主」が存在します。皆さんは、三家分晋のように、複数の家臣が共謀して主君の支配を分割した、より類似した例を思い浮かべることができるでしょうか。