第12章 某氏の謎


 閑静な住宅街、しもた屋作りの一軒家。広めの和室に横たわる老人、横に居住まい正して座っている男、大田原。

「ファンレターで騒がせてしまった、申し訳ない。」
「いえ、これで彼も先生の心、『流布』の作風を忘れないでしょう。」
「彼は元気ですか。」
「ええ、『流布』という素晴らしいお手本に出会い、そして試行錯誤の末に自分の作品を生み出し、それら2作品を比べることで“小説とは何か“ということが少しわかったようです。次の作品では『流布』の思想が色濃く反映されることになると思いますよ。」
「こんな形で彼を作家に仕立ててしまったが、彼にとって迷惑ではなかったのかな。」
「彼は今、作家として生きていくことにとても魅力を感じているようです。つい先日、勤めていた会社も正式に退社したようですし、味を占めたというのではなく、素晴らしい作品を生み出したいという気迫が伝わって来るようになりましたよ。やはり先生が見込んだだけのことはあります。今の気概を忘れなければ、彼はきっと成功すると思いますよ。」
「そう言ってくれると気が安らぐ。私はこの先どれくらいの時間があるのか心もとないが、彼には出来るだけいろいろなことを伝えてあげたいと思っています。その為にも今執筆中の作品をなんとか書き上げたいと願ってはいるが、どこまで体が持つことやら。」
「先生、そんな気弱なことを、先生にはまだまだ素晴らしい作品を執筆していただきますから、早く体調を良くしていただかないと困りますよ。」

老人はやさしい微笑を浮かべていた。

「年寄りをそんなにいじめてはいかんよ。花には花の、鳥には鳥の、そして人には人の、それぞれに生きる時間が定められているのです。私の場合、その時間が少し予定より長くなったようだけどね。それもきっと彼を見つけ、素晴らしい作家になってもらうための計らいだったような気がします。」
「先生にはまだまだ長生きしていただきますが、確かに彼にとっては先生の大病が生んだ幸運だったのかも知れないですね。あの時の闘病生活で先生が偶然読まれた本に彼の論文が載っていたのですから。まさか彼も論文を評価されて小説家になるとは、夢にも思わなかったでしょうね。まあ、本人はそのことに関しては自覚していないので思いようもないのですが。」
「あの本を読んだ時、とても不思議な気分がしたのを今でもはっきりと憶えている。論文なので小説のような表現はないはずなのに、何故か彼の文章から得も言われぬ、匂い立つような感動を覚えたんだ。私は無神論者だが、あの本を読んだ時のあの感覚は、それこそ“神の啓示”と言っても良いようなものだった。」
「そうそう、その直後でしたね。私がお見舞いに伺ったら先生が唐突にあの本を私に渡して、“その男を作家にさせたい!”って。病人とは思えない勢いで言われてびっくりしましたよ。正直言って、病気の影響で夢うつつの戯言を仰っているのではないかと心配もしました。」
「はは、それは悪いことをしたね。しかし、君の協力のおかげで無事彼に作家人生を歩んでもらうことが出来たし、君には本当に感謝しているよ。何かお礼を考えないといけないな。」
「そんな、感謝だなんて、私はただ先生のご希望に沿えるよう動いただけですから。それに、ビジネスの方でも良い思いをさせていただきましたし、十分過ぎるくらいの役得をいただいております。こんな私のことより、とにかく先生のお体の方が大事です。本当に早く直してくださいよ。」

窓から木漏れ日が射し込み、庭で鳥がさえずっているのが聞こえた。老人は穏やかな笑顔を微かに浮かべ、目を閉じていた。

第11章 才人

 件の老作家のコメント以降、マスコミからの出演依頼もパタッと止まり、執筆活動に専念する気もなくなった私は、しばらく旅行でもして気を紛らそうと考え、妻を連れて、沖縄の奥地で、TVも新聞も見ずに2週間ほどゆったりとした時を過ごしていた。執筆活動用に購入した携帯電話も電源を切ったままにしていたが、ある時、どこで調べたのか、相澤がプライベート用の携帯に連絡をしてきた。


「Iさん、どこにいるんですか?ご自宅にもいらっしゃらないし、いつもの携帯も繋がらないし、この番号を調べるのにもえらく手間がかかってしまいましたよ。」


怒っているわけではなさそうなのだが、いつものようにプレッシャーをかけるような話し振りに思わず笑ってしまった。


「すみません、そろそろ私の作家活動も潮時かと思ったものですから。サラリーマンに戻る前にのんびり旅行するのも良いかな、ということで誰にも行き先を告げずに妻とゆったりした時を過ごさせてもらっています。」


最後まで聞かずに相澤がさらにプレッシャーをかけるような勢いで話し始めた。


「何が潮時ですか!TVとか雑誌を見ていないんですか?Iさんの作品、すごいことになってますよ!とにかくすぐにでもお会いしたいのですが、どこにいらっしゃるんですか?」
「どこって、沖縄のヤンバルクイナが住んでる辺りですが。」


からかうつもりはなかったが、この辺りは今では種の滅亡が危惧されているヤンバルクイナの生息地なのである。


「ヤンバルクイナ?あの飛べない鳥ですか?そんな鳥はどうでもいいから、せめて那覇空港まで出てこれませんか?私もこれからそちらに向かいますから。あ、そうだ、いつも連絡に使っている携帯の電源、取り敢えずはそのままにしておいてください。状況がわからないままマスコミ各社から連絡が入っても困るでしょうから。それじゃ、到着時間がわかったらまたこの携帯に連絡入れます。」


早口でそこまで言うと、こちらの返事も聞かずに電話を切った。


「どなたから?」


散歩から帰ってきた妻が聞いた。


「相澤さんだった。わざわざこの携帯の電話番号を調べてかけてきたらしいのだけど、何だか、この間出した作品がとんでもないことになっているらしいんだ。今から沖縄に来るから那覇まで出て来いって言って電話切られちゃった。」


妻が笑いながら


「相澤さんらしいわね。そろそろ都会の喧騒が恋しくなったんじゃない?行ってらっしゃいよ。」


妻の言う通り、少し都会の人ごみが恋しくなりかけていた。ここから那覇空港まで行くためには車で2~3時間かかるので、相澤の乗る飛行機が羽田を飛び立つ頃にこちらを出ればちょうど良いだろう。

 


 那覇空港で相澤を出迎えると、彼はすぐさま私の車に乗り込んで、駐車場に停車させたままの車中で状況を説明してくれた。せめてお茶でもどうかと進めたが、


「Iさんは有名人なんですから、どこで人に話を聞かれるかわからないのですよ。いや、常に聞かれていると思っていた方が良い。ということは、微妙な話をする時には周りに気をつけないといけないですよ。」


と叱られてしまった。仕方なく車の中で話を聞いたところ、老作家に酷評されて人気が一気に落ちてしまった私の作品は、例のアイドル歌手が好評した後から徐々に人気を回復したと言う。最初は彼女のファンが読み始めた程度であったが、その後、彼女と同様に作品を誉める芸能人が何人か出始め、すると今度は評論家の中にも作風が変わったことを良しとする者が出てきた。この頃になるとマスコミが食いつきだし、再び、雑誌やワイドショーで取り上げられるようになり、あちこちで賛否両論が交わされるようになった。こうなるともう、良くも悪くも一度は読んでみようということになり、販売部数はあっという間に増えていき、今日も増版の依頼をしてから飛行機に乗ったのだ、と相澤は言った。


「こんな状況ですから、あと数ヶ月もすればIさんの作家としてのステータスが決まります。というわけですから、潮時だなんて言わないでくださいよ。」


相澤が珍しくへこんだ感じでこちらを見た。


「いやぁ、そんなことになってるだなんて、全然知りませんでした。アイドル歌手がほめてくれたことは、たまたまTVを見ていて知りましたが、まさか、そこからそんな風になるだなんて、、、ほんと、世の中ってわからないもんですね。」


狐につままれるとは正にこういったことなのだろう。私は既に、作家をやめ元のサラリーマンに戻るつもりでいたし、作家業に未練もなかった。今、相澤から聞いた話もなんだか実感が湧かず、“ふーん、すごいなぁ”くらいにしか感じていなかった。そういった私の雰囲気を感じ取ったのか、相澤がいつもの調子に戻って、


「Iさん!早く東京に戻りましょう!そしてマスコミに登場して今の騒ぎをもっと大きくするんです。より多くの人に読んでもらえば、それだけ作品の評価も精度が高くなります。その結果、仮に賛否が極端に分かれても半分はIさんのファンになってくれます。この先Iさんが作家としてステップアップしていく際にも、今の時期に固定ファンがついてくれると大変心強いはずです。今ならマスコミもすぐに食いついてくるでしょうから、上手く利用してファンを増やしましょう!!」


やはり彼には、顔を突き出し、つばを飛ばさんばかりの勢いで話す方が似合っている。聞く方は少しうっとおしい時もあるが、変に憎めないキャラクターの持ち主である。


「沖縄には何時までいる予定なんですか?」


今泊まっているところは普通の一軒家をとりあえず1ヶ月だけ借りていた。不動産屋に無理を言い、大家さんに直接お願いしたところ、どうせ空いているのだから、ということで気軽に貸してくれたものだった。食事は近くの食堂で済ませていたし、寝具の類はレンタルしていたので、大家さんに多少多めの額を支払えば特に問題なく、今日にでも引き払うことが出来るだろう。その旨を相澤に告げると彼は


「それじゃすぐに戻って手続きしてきてください。今から往復してどれくらいかかります?4時間位ですか?であれば今日の最終便に間に合うな。Iさんが手続きに戻っている間に、飛行機のチケットやマスコミへの連絡をしておきますよ!」


とせっかちに言った。


「ちょっと待ってください。いくらすぐに引き払えるとは言え、今から行って大家さんに会えるかどうかもわからないし、寝具の返却もしなきゃいけないし、それに今から往復するのはしんどいですよ。」


相澤には隙を見せてはいけないことをすっかり忘れていた。今から往復しろだなんて、彼らしい発想ではあるが、久し振りに街まで来るだけで少し辟易としていた私には、強行軍を突破する元気はなかった。


「そうですか。確かについさっき出てきたばかりで、またとんぼ返りをするのはきついですかね。」


まだ何か画策しようとしている相澤を押さえ込むように


「東京に戻るのは3日後にします。今日これから戻るのはちょっときついので今夜は那覇市内に泊まります。明日、戻って大家さんやらレンタル屋の手続きをして、全部終わるようでしたら明後日に戻りますが、明日は日曜日ですから多分レンタル屋も休みのはずです。となると手続きは明後日になってしまいますので、それが終わって月曜日の飛行機で東京に戻ります。これで勘弁してくださいよ。」


一気に話すと相澤は何か言いたそうにしていたが、あきらめたらしく珍しく素直に引き下がった。


「わかりました。それじゃ念のため明後日と明々後日の飛行機を押さえておきます。マスコミの方には、そうだな、来週のどこかでサイン会を兼ねた販売会を開催することを連絡しておきます。来週以降の予定は大丈夫ですよね?」


そう言うと相澤は携帯を取り出してあちこちに電話をかけ始めた。しばらくその様子を見ていたが、私は私で、今日の泊まる宿を探したり、妻に状況を伝えたりしなければならないことに気付き、慌てて携帯取り出し電話をかけ始めた。


 

 翌日、大家さんの自宅に伺い事情を説明すると、ハウスクリーニングなど気にしなくて良い、料金も1か月分の家賃だけで良い、と笑顔で答えてくれた。しかも、寝具類の返却もしてあげようと言ってくれた。沖縄の人が親切なのは以前から度々感じていたが、こんな風に言ってもらえるとそのありがたさが身に染みてくる。私達が何度も沖縄に来るのは、沖縄に住む人達のやさしさに触れられるからなのかも知れない。さすがにレンタルしたものは自分で返すことにして取り敢えず店に連絡をすると、通常は休みなのだが今日はイベントの準備があって臨時に空いているとのこと、早速品物を車に積み込んで返却に向かった。イベントの準備で忙しいはずの店員も、準備の手を休めて親切な対応をしてくれた。結局、昼前には部屋を引き払うことが出来、すぐに那覇空港に向かった。相澤の用意してくれたチケットを使って東京に着いたのは、まさに夕日がくれようとしていた時であり、羽田の飛行場に着陸しようとする飛行機の窓から、騒動の行く末を暗示するかのように、赤々と燃える太陽がはっきりと見えた。もう少しのんびりするつもりでいた私達だったが、リムジンバスで自宅のある最寄駅に着く頃には、すっかり都会の空気に馴染んでいた。そのことを自覚してしまった私は、少し物寂しい気分を感じ、妻にそのことを告げると、彼女も同じような気分を感じていたと答えた。


 

 東京に戻るや否や、マスコミからの電話がひっきりなしに鳴りつづけた。雑誌やTVでは私の作風が変わったことを題材に、評論家、一般読者、芸能人などが入り乱れて、面白おかしく議論をぶつけあっており、機会がある毎にそういった場に呼び出された。そんな場に何度も立ち会っていると、最初はよくわからなかったが、様子を見ていくうちに面白いことに気がついた。それは、私の作風が変わったことに批判的な人々は、一般読者はよくわからない面もあったが、評論家にしても芸能人にしても割と砕けた感じのタイプが比較的多かった。それに反して、賛同派は、まじめそうとか、堅物とか、理論的といった、どちらかというときちっとしたタイプが多かった。『流布』という作品は完璧なまでに正統派と言われており、どちらかというときちっとしたタイプに好まれていると勝手に想像していた。しかし、今回の作風の変化を割と砕けたタイプが好んでいるというのは、もしかすると、読者は作品に自分のイメージとは違うものを求める傾向があるのかもしれない。沖縄から戻って開催したサイン会でも、落ち着いた感じの雰囲気を醸し出している読者が多かったように感じる。私の今回の作品はそういった人達の息抜き的な存在なのかもしれない。そう思ったら、なんだか急に小説を書くことがとても素敵なことのように感じてきた。沖縄に行く前の私は、作品に対する批判的なコメントばかりを気にしていたが、今はそういった、作品を肯定してくれる読者が、例え一人でもいることに喜びを感じるようになっていた。もしかすると小説家としての醍醐味はこういったところにあるのだろうか。だとすれば、初めての作品でそのことに気付いた私はとてもラッキーなのだろう。


 

 議論は3ヶ月を過ぎてもやまなかった。おかげで私の作品はどんどん売れ、処女作である『流布』を超えるのは時間の問題とまで言われるほどになっていた。ファンレターも数多く寄せられ、読むだけでも一仕事になるほど日々届けられていた。ある日、散歩を兼ねて公園の先にある喫茶店に足を運んだ。ここ数日のうちに送られてきたファンレターを読みながら、美味しい紅茶を飲んでいたら、どこか、見覚えのある字が目に入ってきた。しっとりと落ち着いた和紙の封筒には、素人目にも達筆とわかる文字で私の名前が書かれており、裏には差出人の氏名はおろか、一文字も書かれていなかった。差出人の名前が書かれていないファンレターは決して珍しくなかったが、この手紙を見た時には、何故だかいたたまれない、漠とした不安を感じた。もう一度、表に書かれた私の名前を凝視していたら、ポケットに入れていた携帯が振動した。不意を突かれて手紙を落としそうになったが、なんとかこらえて電話に出たら、いつもの調子で相澤がしゃべりだしていた。相澤は来週行なうサイン会の確認で電話をしてきたのだが、第一声を聞いた途端、私の思考はさっきの封筒に戻っていた。この封筒にかかれている文字は、以前、相澤から見せられた『流布』の原稿に書かれていた文字と同じことを思い出したからである。相澤との話を手短に済ませると、改めて封筒を手に取り、しばらくそのままの状態で差出人と思われる人物について知り得ること全てを思い出そうとした。以前、相澤から聞いた、『流布』を執筆した人物のことを。しかし、差出人について私が知っていることは限定的であり、ほんの数分もかからずに全てのことを頭の中で整理することが出来た。もう一度封筒を見ながら、書いてある内容についてあれこれと想像したが、いつまでもこうしているわけにもいかないことに気付き、とりあえず開封してみることにした。別に悪さをしているわけでもないのに、妙に周りの視線が気になった。店内を見回してみたが、店はいつも通りの落ち着いた雰囲気を醸し出しており、私の素性を知っているマスターや常連客も、心地よい気遣いで、私に対して余分なコミュニケーションを取らないようにしてくれていた。おどおどしている自分が恥ずかしく感じられたが、今の私にとっては、ある種の脅威となり得る人物であり、出来れば接したくない人物だったので“仕方がないんだ”、と自分に言い聞かせ、先ほどのファンレターを開封した。中には達筆な文字で書かれた、こちらも和紙の、便箋が数枚入っていた。


「拝啓 盛夏の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。」


最近はこのようにきちんとしたあいさつ文から入る手紙を読むことは珍しい。その重さのようなものがまたぞろ私の心を揺さぶった。先を読んでいくと、『流布』は素晴らしい作品であり、この作品に出会えてとても嬉しい、といったような普通のファンレターと似たようなことが書かれていた。あくまでも作者は私であることを前提に書かれていた。きっと第三者に読まれた時のことを考慮した上でのことであろう。そう思うと、先程まで感じていた恐怖心のようなものがとても恥ずかしいものに感じられた。手紙は私自身が書いた作品にも言及しており、作風の大変換は読み手を心地よく驚かすものであり、世間で言われている批判めいたものは気にしなくて良いのではないか、といった感じで、私を元気付けるような内容になっていた。最後まで読み進んでも、懸念したような表現は一切なく、最後にきちっとした結びの言葉があり、手紙は終わっていた。読み終わった途端、緊張から一気に開放された私は、ソファに深く背をもたせ大きくひとつ深呼吸をした。そのままの体勢で手紙の内容を反芻してみたが、批判めいたものや、未練のようなものは一切なかった。ただ、何かが私の心の中に引っ掛かっていて、なんともすっきりしない気分ではあったのだが。気になるのでしばらく考えていたが、どうしても答えが出ないので、マスターにアールグレイを入れてくれるようお願いして、他のファンレターを読むことにした。


 

 結びの言葉の前に書かれていた一言が気になりだしたのは、家に帰ってそろそろ寝ようとしていた時だった。その時は妻と何気ない会話をしていて、彼女が何かの拍子に


「本を書くのって何が楽しいの?」


と聞いてきた。ちょっと前だとこの質問に答えるためいろいろと考えていたのだが、先日来の騒動のきっかけとなったアイドルの一言


「とても素直な文章が心に染み入って、なんだか幸せな気分になれるんですよ。」


を聞いてからは


「自分の表現で人を幸せな気分に出来る」


ことだと言えるようになっていた。会話はすぐに他の話題に移っていったが、ベッドに入って寝ようとした時にその一言が脳裏の底に焼きついていることに気付いたのである。


「私もまた小説を書いてみたくなりました。」


今日読んだファンレターの中に紛れ込んでいた、『流布』の作者、と思われる差出人の手紙にはこの言葉が書かれていた。喫茶店で読んだ時には気にならなかったつもりでいたが、こうやって思い出すところを見ると、心のどこかで何かを感じていたのだろう。ファンの中には小説を書く人がかなり多くいて、“また小説を書きたい”という文章自体、気にとめるものではないのだが、差出人が『流布』の作者となれば話は変わってくる。どんな事情があったのかは知らないが、ベストセラーとなった『流布』を書いた本人が、素性を明かせないというだけで権利を全て放棄したのである。権利を放棄する時点で既に作品の評価はある程度されており、ここまで売れることは想像できなくても、それなりに売れることをわかった上で放棄したのである。それを今になって“また小説を書きたい”というメッセージを送ってくるというのはどういう理由なのであろうか。何か事情が変わり、小説を書ける、素性を明かせる環境になったと言うことであろうか。そうなると、“『流布』は私の作品である”と主張してくるのであろうか。彼は相澤に直接


「権利を全て放棄する」


と宣言したはずである。だから『流布』に関しては言及してこない可能性が高いと思われる。ただし、その後、彼が小説を書くかどうかについては話をしていないし、仮に彼が小説を執筆したとしても、我々には何ら干渉する権利もない。彼が小説を執筆し、発表しようとも、『流布』との関係さえ明かさなければ私とは一切関係がなく、何ら気にする必要もないのであるが、なんとなく落ち着かない、もやもやとした気持ちが心の中で渦巻いていた。翌日、相澤に電話をかけ、送られてきたファンレターの話をすると彼は一瞬絶句し、言葉を詰まらせた。すぐに“気にすることはないだろう”と言っていたが、不安を感じていることを雰囲気から消すことは出来ず、逆に私の不安がより一層強くなってしまった。その後しばらくはファンレターのことが頭から離れず、気分のすぐれない日が続いたが、別段変わったことが起きるでもなく、時は過ぎていった。


 

 ファンレターを受け取ってから2ヶ月ほどが過ぎた頃、私の2作目を巡った論争も落ち着き始めていた。どちらに軍配が上がったかは判断の難しいところではあるが、売上部数は80万部強まで伸び、関係者にとっては大成功であった。大田原や相澤達が開いてくれた出版記念パーティの帰り、久し振りに彼らと3人で酒を飲むことになった。落ち着いた雰囲気の店で、静かに飲んでいる時、ふっと例のファンレターのことを思い出した。あの後、私の周りで彼に関する動きは一切見られず、“小説を書きたい”という欲望がその後どうなったのか、想像することも出来ない。現に、私自身、この数週間は思い出すこともなく、今、思い出しはしたが、いつの間にかあまり気にならない事柄になっていた。それでも酒のつまみになるかと思い、軽い気持ちで2人に話を投げかけてみた。


「そういえば、その後、例の方から何か連絡はありましたか?」


カウンターで3人並んで飲んでいたのだが、大田原の向うから相澤が見を乗り出すようにして、


「何か言って来たんですか?それともまたファンレターですか?」


と畳み掛けるようにして聞いてきた。


「いえ、私の方にはあのファンレター以降、何ら音沙汰がないですね。最近はファンレター全てに目を通せなくなっていますが、例の書体であればすぐに気付くと思いますからね。」


相澤の反応に少し戸惑いつつ答えた。相澤が止まり木に腰を戻し


「なんだ、驚かさないで下さいよ。私はてっきりまた連絡してきたものかと。会社の方には、私が知ってる範囲では特に何もないようですよ。編集長は何か聞いてますか?」


相変わらず、マイペースに飲んでいた大田原がおもむろに口を開いた。


「例の方って、2ヶ月ほど前にIさんのところにファンレターを送ってきた彼のことだろ?私は何も知らんよ。Iさん、どうしたんですか、唐突に。」
「いえ、今日のパーティがあるのも、元はと言えば彼のおかげなんだな、ということを思い出したもんですから。なんとなく、その後を知りたいような、知りたくないような、、、ちょっと飲みすぎましたかね。」
「その気持ち、少しわかるような気がします。最近のIさんの仕事に対する姿勢を見ていると、もう立派な小説家ですからね。あの作品の素晴らしさを、プロの目として見るようになったのではないですか。」


大田原が静かに答えた。

 

特に告知とかしているわけでもないので仕方ないのでしょうが、小説を載せても何の反応がないのは寂しいもんですね。(^^;

やっぱりまめにやらないといけないってことかな・・・。

今日から11月。

今年もいよいよ残り2ヶ月です。

なんてことなく過ぎてしまったかな・・・。

さーて、このあとどうすっぺかねぇ。。。

第10章 次回作

 ある日のこと、執筆活動用に購入した携帯電話が鳴った。K出版の相澤からであった。

「こんにちは、Iさん。ご活躍ですね。もうすっかり執筆活動にも慣れてきたんじゃないですか。」

真実を知ってる彼から言われると少し嫌味っぽく聞こえなくも無いが、本人にはそんな気など毛頭もないらしく、笑って言葉を続けた。

「今日は次の作品について相談したいと思って電話しました。既にご存知だと思いますが『流布』の売れ行きは予想以上の好調さを見せています。この調子で行くと百万部を超えるのも時間の問題でしょう。読者からも絶賛のコメントが次々と寄せられていて、早く次回作品を出版して欲しいという声も数多く含まれています。で、次の作品なんですか、まさか他社と約束したりしてないですよね?」

売れていることは知っていたし、先日のラジオ番組の収録中に百万部を越えるだろうと聞かされてはいたが、まさかこんなに早く達成するとは思っていなかったので少し驚いた。と同時に不安が首をもたげてきた。

「他の出版社から依頼は来てますが、なんだかんだ理由をつけてまだ引き受けてないですよ。それより、こんなに一気に売れてしまって大丈夫でしょうか。人間、気が変わることなんてしょっちゅうありますからね。」

こちらの不安などお構いなしといった感じで

「彼のことですね。大丈夫ですよ。あれだけはっきりと放棄したのですから。それよりも、次の作品について一度打合せをしたいと思いますが、明日か明後日、お時間取れませんか?」

前向きというか、楽観主義というか、やはり私とは考え方の土台が違っているのだろう。明日の午後に打合せを行うことにして電話を切った。翌日、久し振りに相澤の訪問を受けた。意外なことに大田原が一緒であった。

「これは編集長。ご無沙汰してます。」

授賞式後、相澤は2,3度我が家に来てマスコミの対応方法などを教えてくれたことはあったが、大田原編集長とは、授賞式の3日後に都内の小洒落たお店でお祝いをしてもらって以来であった。

「Iさん、大変ご無沙汰しております。最近のご活躍、順調そうで何よりです。一度ご挨拶に伺わねばと思っていたのですが、ついついタイミングを逸してしまいまして申し訳ありませんでした。今日、相澤が次の作品についてお打合せに伺うと聞きまして、便乗させてもらいました。」

二人とも次の作品がかなり気になっているのだろう。まあ、当人である私の方がよっぽど気になってしょうがないのだが。。。これだけ『流布』が好評を博せばどうしたって次の作品を書かざるを得ない雰囲気になってくる。しかし小説など書いたことの無い私に、『流布』は超えられないにせよ、それに近いレベルの作品が書ける訳も無く、どうやって次の作品を書けばよいのか、いくら思案したところで名案は浮かんでこないのである。2人はしばらく歓談した後、肝心の話題に触れてきた。切り込み隊長宜しく相澤が

「で、Iさん、新作の件なのですが、何かアイデアとか、実際に書き始めたとかされてますか?」
「えっ、私が小説を書くんですか?」

思わず声がうわずってしまった。二人は顔を見合わせると互いにやや複雑な表情を見せた。大田原がおっとりと

「やはり無理ですよね。丸っきりの素人ですからね、Iさんは。ここ1ヶ月程、TVやら雑誌やらマスコミで活躍されていたので、もしかして作家としての感覚というか、能力のようなものを身に付けていればと思っていたのですが。」

そりゃ無理と言うものだ。たったひと月で作家になれるのなら、そこらじゅうで大作家が誕生してしまうではないか。しかし、彼らの気持ちもわからなくは無いので

「すみません、なかなかそう簡単には行かないようです。」

と恐縮して見せた。相澤が何の気なしに

「ゴーストライターでも使いますか。」

一瞬間を置いてから

「そんなわけにはいかないか。怪しまれるのが見え見えですものね。」

と言って下を向いて考え込んでしまった。名案が出ない時とはこんなものなのだろう。しばらくして相澤から出たのは没になった作品を持ってきてそれを元に書いてみてはどうかというものであった。しかし、それこそばれたら大変なことになる。下手すると法律違反を犯すことにもなりかねないのでこの案も即座に却下された。その時、ふとあることに気付いた。私は作家としてはもちろん、この業界のことについてもまるっきりの素人だが、目の前にいる二人は出版業ではプロであり、素晴らしい作品も知り尽くしているはずである。そこで

「お二人が書かれるというのはどうです?お二人は業界の動向とかも良くご存知だし、素晴らしい作品も知り尽くしていらっしゃるから、そのノウハウを活かして作品を執筆するのなんてわけもないのではないですか?」

我ながら名案だと思ったが、この案も即座に却下された。

「Iさん、我々にそんな才能があると本当に思っているのですか?もしそんな才能があったら、当の昔に書いていますよ。いくら業界のことを知っていても、いくら素晴らしい作品を知っていても、書くことはまるっきり次元が違うのです。」

相澤が怒っているような笑っているような、複雑な表情で答えた。先程からずーっと考えていたのか、黙していた大田原が口を開いた。

「Iさん、やはり次の作品はIさん御自身が書かれてはどうでしょう。今回の作品を、仮にIさん以外の誰かが執筆したとしても、その次の作品ではまた同じ問題にぶち当たります。しかも、Iさん以外の誰かに執筆させる、その方法さえ簡単には見つからないですし、仮に毎回、変に画策をしていると、いつかほころびが出てくるような気もします。だったらここはIさん自身が筆を持って作品を作り、その作品を出版しましょう。万が一、その結果が箸にも棒にも掛からないようでしたら、残念ですが、1作だけで筆を置くという手もあると思います。」

大田原の提案は的を得ているように思えた。私が作品を作るという点を除いては。答えに窮していると大田原が続けた。

「もちろん、ネタやストーリー作りとかへの協力は全面的に行なわせていただきます。ご存知無いかもしれませんが、こういった協力をすることは何ら問題にはなりませんから安心です。また、作品の校正も十二分に行なって、通常はあまり行なわない細かい点までコメントさせていただきます。もちろん、Iさんの意志を最優先させた上での話です。どうです、やってみませんか!」

最後は乗り出すようにしてきた大田原の勢いに圧倒された形で、もう承諾するしかない、と観念した私であった。

「わかりました。どこまで書けるかわかりませんが、トライしてみます。」

この時は気付かなかったが、あとから考えてみると彼らの間で事前に策を練ってきていたような節があった。相澤が突っ込んで行って相手をかく乱し、相手が沈みかけたところを見計らって大田原が留めを刺す。このパターンが彼らの十八番だと気付いたのは、その後、彼らと付き合っていくうちに、徐々にわかっていったのである。

 書くとは言ってみたものの、何をどうすれば良いのか何もわからない私は、翌日から常にパソコンとノートを持ち歩くことにして、何でもいいから気付いたことをメモし始めた。そして、時間のある時には試験の論文でも書くつもりでパソコンに向かった。ダメ元といった気分が良かったのか、思いのほか筆が進んだのには我ながら驚きであった。読み手のことなど一切考えず、手の動くのに任せて書き進めていったら、1ヶ月もたたないうちに50ページ程の原稿を書き上げていた。最初は相澤にチェックしてもらいながら書くつもりでいたが、半分ほどを仕上げるまでの間、彼とのスケジュールが上手くあわなかったこともあり、結局ノーチェックで書き上げてしまったのである。出来上がった作品を彼らに読んでもらったところ、

「うーん、とても平易な文章ですね。『流布』とはまるっきり性格の異なる作品です。少し厳しい言い方をすると、この作品だけでは多分売れないと思います。ただ、『流布』の作者が書いたとなると読者の受け止め方は変わって来るかも知れませんが。編集長どうです?」

浮かない顔で相澤が大田原に救いのまなざしを投げた。腕を組んだまま節目がちの大田原はしばし間を置いてから

「うーん、困りましたなぁ。作品の評価は相澤が言った通りで、この作品だけでは難しいですな。しかし、百万部の大台を達成した『流布』を書いたIさんの新作ですからね、ある程度は売れると思います。問題はその後で、Iさんの作家としての評価がどうなるか、ですね。読者が前向きに受け止めてくれれば良いのですが、もし悪い方に受け取られると一気に評価が落ちてしまうこともあり得るでしょうから、その辺りをどう捉えるかです。」

私としてはすいすいと書き上げたせいか、それなりに評価されると思っていた面もあり、酷評されたことで少しショックを受けていた。

「すみません、やっぱり私には物書きの才能はないんですね。2作目はやめてサラリーマンに戻りますよ。」

相澤があわてて

「ちょっと、Iさん、待ってくださいよ。そんな、短絡的に考えないで下さい。まだ、この作品がダメと決まったわけじゃないんですから。私も編集長も言ってるように、Iさんは『流布』の作者であり、その作風については大絶賛なんです。ただ、この作品を世に出すと、その作風が究極の変化を遂げることになるわけで、その影響が読みきれていない、という点が問題なんです。」

いつもの調子で相澤が体を乗り出して来るのに押されながら、テンションが下がった私の思考はどんどん落ち込んでいった。

「仮にこの作品がそこそこ売れても、これ以降も同じようなレベルの作品しか書けないのだから、結局同じことなんじゃないんですか。」

相澤がさらに体を乗り出そうとしてきたので、思わずソファの背もたれに深く寄りかかってしまった。

「Iさん、そんなことないですって!!小説家を何人も見てきてわかったことなんですが、作風と言うのは変わるものなんです。作風の変わらない作家なんてまずいません。変わり方は人によって千差万別ですが、大概の場合、デビュー後、1~2年で変わる事が多いですね。だから、Iさんだって作品を重ねれば、『流布』とは違う、本来のIさんの作風が出てくるはずです。大丈夫ですよ、自信を持ってください!!」

相澤の今にも立ち上がらんばかりの勢いに圧倒されて返す言葉がうまく出てこないでいると、横から大田原が例の落ち着いた口調で言った。

「この作品を出版しましょう。Iさんはこの作品を独りで書き上げたのですよね?我々が手助けをせずここまで書き上げるのは簡単なことではないはずですし、誰の手も入っていないということは、これが今のIさんの作風なわけです。それを読者がどう受け止めるかは、ある程度予測は出来ても結果まではわかりません。1ヶ月前の打合せで我々3人はIさんの作品にかけようということにしたのですから、この作品を世に出して審判を仰ごうじゃありませんか。」

最後は少し芝居がかった喋り方になったのが照れくさかったのか、大田原にしては珍しく、うつむくようにして言葉を切った。

 結局、書き上げた原稿を校正してから作家Iの第二作として出版することになった。出版することが決まると彼らの作業は素早く、かつ正確にこなされていった。本が製版され書店に並ぶまでの間、私が行った作業は校正結果を確認することくらいであり、あっという間に私の記念すべき第二作が読者の下に届いたのである。出版することが決まると、あの『流布』の作者が書いたと言うことで、こぞってマスコミが作品を取り上げていった。当然、私の所に来る取材依頼も過熱していった。今回は自分自身で書いた作品なのでマスコミのインタビューで変な緊張をすることはなかったが、発売された後の読者の反応が気になり、却って言葉に詰まることも何回かあった。発売前の段階ではマスコミ各社共に好意的な記事が続いていたが、いざ本が店頭に並び読まれ始めるとその状況は一変した。そのきっかけとなったのは、評論家の肩書きを持ち、マスコミへの露出が激しい一人の老作家のコメントであった。元々『流布』に対してもあまり好意的ではないコメントを発していたこの作家は、作風が著しく変わり、平易な文体になったことをあちこちでこき下ろした。マスコミはこの老作家をしばしかませ犬的な使い方をしていたこともあり、それらのコメントを大袈裟に、そして尾ひれをつけて流し始めた。こうなると世の中は単純なもので、私の元に届くファンレターやメールがいきなり減りだし、近所を歩く時も遠巻きにする人が増え始めた。相澤の連絡によると発売部数もコメントに連動するように一気に落ち込み始めたらしい。そうして私の周りが静かになり始めた頃、私もそろそろ会社員に復帰しようかと考えていた矢先、とある歌番組に出演していたアイドル歌手が番組の中でこの本を誉めるコメントを発してくれた。

「実は私、本を読むのが大好きなんです。今は仕事が忙しくてあまり読めないのですが、最近読んだ本では『XX』が好きですね。とても素直な文章が心に染み入って、なんだか幸せな気分になれるんですよ。」

めったに歌番組など見ない私だが、この時は偶然この番組を見ており、彼女のコメントを聞いた私は本を執筆したこと、執筆出来たことにとても感謝をした。自分の表現で人を幸せな気分に出来ると言うこの職業をまっとうすることは出来ないかもしれないが、一人でもそういう気持ちにすることが出来た自分が誇らしかった。

 

第9章 授賞式会場

 会場の設営も無事終了し審査委員長も先程到着した。後は唯一の受賞者である『某氏』が到着すれば準備は完了する。時計を見ると16時半を示していた。山本は念のためK出版の相澤に電話をしようと思い、人ごみから離れた。その時、相澤と編集長の大田原が入り口から入ってくるのが見えた。男性が一人同行していたので、きっと彼が『某氏』なのであろうと思い、彼らの方に歩を向けた。大田原は作家の高塚と挨拶を交わしていたが、相澤がこちらに気づいて2,3歩近づいてきた。

「山本さん、ご苦労様です。今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願い致します。こちらの方が『流布』を書かれた方ですか?」

横の男性を見やりながら相澤に聞いた。

「ええ、こちらが『某氏』ことIさんです。Iさん、こちらが事務局長の山本さんです。」


緊張していたせいか、思わず名刺を出そうと胸のポケットに手を入れかけていた。悲しいかな、長年の習性で初対面の相手と挨拶する際には名刺を出そうとしてしまう。行き場を失った手を丸めながら挨拶を交わした。

「はじめまして、Iと申します。今回は大変素晴らしい賞を戴きありがとうございます。」

山本と呼ばれた男は表情を変えずに軽くお辞儀をした。

「はじめまして、事務局長を務めさせていただいております、山本と申します。今回は大変素晴らしい作品を応募いただき、こちらこそありがとうございました。後ほど審査委員長からもコメントがあると思いますが、各審査委員の先生方も皆さん絶賛されていましたよ。私もかれこれ十年ほど事務局長をやらせていただいてますが、今回ほど質の高い作品はなかったのではないかと思ってるくらいです。」
「ありがとうございます。自分ではまだまだ力不足だと思っていますので、そのような評価をしていただけるとなんだか照れくさいですね。」
「そんなご謙遜を。相澤さんから聞かれてるかと思いますが、今回の選考会では圧倒的な支持を得て授賞を決めたほどの作品です。大いに胸を張って授賞されてください。」

ぼろを出さぬよう気を使ったのか、横から相澤が口を挟んだ。

「ところで山本さん。Iさんが『某氏』というペンネームで応募して素性を明かさなかった件でちょっとご相談させてもらえますか。ご存知のように、昨夜の会見ではうちの判断で素性を明かさなかったじゃないですか。で、昨日の今日で180度方針変更ですと伝えたら、マスコミの皆さん、かなりテンションが上がってしまうと思うんですよ。そんな彼らの相手を山本さんやIさんにお願いするのはとても心苦しいものがあります。ですから、この件に関してはK出版の方でマスコミに説明をさせてもらいたいのですが、如何なものでしょう。授賞式後の会見で、冒頭、お詫びと共に説明をさせてもらえませんか。」

山本はしばらく何かを考えてるようであった。

「そうですね、夕べの会見は芥木賞の主催者とは関係のないところで行われたものですから、そのことに関する説明はK出版さん、またはIさんにお願いする方が良いでしょうね。出来れば、授賞式前にして欲しかったですけどね。」

軽い皮肉を笑顔で冗談に変えながら続けた。

「授賞式後の会見冒頭で時間を割くようにします。そこでの説明はどなたがされます?」

相澤は思惑通りの展開にも関わらず少し神妙な顔つきで

「私がお詫びと説明をさせてもらいます。今回は私の不手際でご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。」

普段から著名人とやりあってるだけあって、なかなかの演技者だなと感心させられるやり取りであった。きっと山本の方も、何故昨日の会見で相澤達が私の素性を明かさなかったのか、その理由を見抜いているのであろう。昨日の騒ぎも、あれはあれで、より一段と今年の芥木賞を印象付けたわけで、この後を上手くまとめれば事務局としてもプラスにはなれどマイナス要素にはならないと踏んだのだろう。そこへ背はあまり高くないが雰囲気を持った人物が近づいてきて山本に話しかけた。

「山本君、準備の方はどうですか。」
「あっ、中川さん、丁度良いところに来られましたね。今、本日の主役である『某氏』ことIさんにご挨拶をしていたところなんです。」

中川と呼ばれた男は、よくよく見るとたまにTVや雑誌で見かけたことがあった。ただ、今までは興味が無かったこともあり、その人物が大家なのかどうかも私にはわからなかった。

「初めまして、今回、選考委員をさせてもらった中川と申します。三河委員長が都合により授賞式に参加できませんので、僭越ながら代理を努めさせていただくことになりました。」

中川はきっとそれなりに評価された作家なのであろう。言葉とは裏腹に、表情の一部やちょっとした仕草に人を見下すようなところが感じられた。

「はじめまして、Iと申します。今回は大変素晴らしい賞を戴きありがとうございます。」

相変わらず緊張はしていたが、今回は名刺を出そうとせずに済んだ。緊張しながらも“ぼろを出してはいけない”という気持ちが強く、山本への挨拶と同じ言葉を繰り返すのが精一杯ではあったが。

「Iさんは今回の作品が処女作だと伺いましたが、初っ端からあれだけの作品を作られるとは驚嘆物ですよ。選考委員の間でも“平成の大作家誕生!”との声が挙がってた位です。どちらかで書き物について学ばれたりしていたのですか?」

第一印象のせいか、何となく探られてるように感じる言い回しであった。

「いえ、読むことは好きで、若い頃から無作為に読んではいますが、特にどこかで学んだとかいうことはないです。」

警戒する気はなかったが、気持ちが表面に出てしまったのであろう、

「少し緊張されてるようですな。まあ、処女作がいきなり芥木賞ですから無理もないでしょう。今日は授賞式だけですから、気楽に楽しんでいってください。山本君、そろそろ準備をした方が良くないかい?」

腕時計を見ながら山本を促した。

「そうですね。Iさん達は準備の方は大丈夫ですか?よろしければ式次第を説明させてもらいますが。」

横を見ると相澤と大田原が軽く頷いていた。

「ええ、緊張してますが、一応OKです。」

山本から式次第を聞き始めると、中川が私達から離れて壇上の方に向かって歩いていった。一通り簡単な説明が終わり、所定の位置に腰掛けると、何時の間にか会場内に多くのカメラマンやら記者らしき面々が集まっていることに気づいた。記者達はこちらを見ては何事かささやいている。どうやら私がここにいることに気づいて文句でも言っているのであろう。ところが夕べの記者会見とは違って、こちらに気づいても誰もフラッシュを焚くようなことはせず、誰も撮影をしていないようであった。主催者の方から撮影時間を制限されているものと思われた。


 ライトが灯され、壇上下手のマイクスタンドに山本が向かうと会場内の照明がピンポイントで山本を照らした。

「皆様、お待たせいたしました。これより平成20年度、芥木賞授賞式を開催させていただきます。私、本日の司会進行を努めさせて頂きます、事務局長の山本と申します。」

ここで間を置き、会場を軽く見回してから

「それではまず始めに、本年度の芥木賞につきましてご説明させていただきます。」

ここで応募作品の数や第一次選考の結果等が簡単に説明された。

「これらの作品についてはお配りしました資料の方に寸評も含め記載しておきましたので、詳細についてはこちらをご覧ください。それでは本年度の芥木賞についてご紹介いたします。作品は既に昨日の時点で速報させていただいておりますので皆さんご存知かと思いますが、改めてご紹介いたします。本年度の芥木賞は、選考会、満場一致で『流布』に決定致しました。」

会場からはお座なりに拍手が起きた。この手の授賞式には出たことがないのでわからないが、盛り上がりに欠ける、なんともしまらない雰囲気が会場内に広がっていった。

「それでは作者の『某氏』ことIさん、壇上にお上がりください。」

山本がこちらを向くとそれにあわせるかのように照明が私に向けられた。予想以上の明るさで一瞬前が見づらくなったが、今度はカメラのフラッシュが照明の上から一斉に焚かれ始めた。この時、夕べ感じたのと同じような感覚が体の中を貫いていき、それを合図にしたかのように私は立ち上がり、壇上に向かった。ついさっきまで自分の鼓動が聞こえる程に緊張していたはずなのに、カメラのフラッシュを浴びた途端、一気に緊張の呪縛が解け、昨夜の記者会見で受け答えした時と同じ気分になっていた。壇上に上がり、前を向くと、少し収まっていたフラッシュがより強い光の塊になって私を包み込んだ。少し間を置いて山本が式を進めるべく、次の段取りに入っていった。

「それでは芥木賞の授与を選考委員である中川先生にお願いしたいと思います。中川先生、よろしくお願いいたします。」

壇上の椅子に腰掛けていた中川が先程と同じ雰囲気を漂わせつつ近づいてきた。傍らで待機していた女性から芥木賞の楯を受け取ると、面に柔和な表情を浮かべ、楯をこちらに差し出してきた。楯を左手で受け取りながら中川と握手をした途端、またもフラッシュが一斉に焚かれた。すると中川が笑顔を光の発せられた方に向けた。“そう言えば、よくゴルフの表彰式でこういうシーンがあるな“、と思いながら、カメラの放列に笑顔を向けることを忘れなかった。


 一通り撮影が終わるタイミングを見計らって山本が

「引き続きまして、中川先生より受賞理由についてコメントしていただきます。」

と言った。なんともそつのない進行役である。中川は壇上下手にいる山本のところまで行き、マイクの前に立ち、こちらに視線を向け、受賞理由について解説を始めた。

「まずは、Iさん、受賞おめでとうございます。これから選考会の結果をお話しますが、今回はとにかくすごかった、と最初に言っておきましょう。」

マスコミ連中がいる会場の方に向き直り先を続けた。

「今年も例年通り、2回の選考会を経て応募作品の出来栄えを吟味させていただきました。第一次選考会では、これは大変異例なことなのですが、なんと、選考委員の全員が推挙することになり、作品の内容を議論するまでもなく通過しました。」

会場から軽いどよめきが起こった。

「通常、第一次選考会では、作品について議論する前に、各選考委員から応募された全作品に得点をつけてもらいます。この得点は結構バラけることが多く、結果的にはあまり参考にならないケースがほとんどです。ただ、今回受賞した『流布』という作品は、この得点でほぼ満点を獲得しました。私も何回か選考委員を務めさせていただいてますが、ここまで高得点になったのは記憶にありませんし、長年事務局長を担っていただいている山本さんも記憶にないと仰っていたので、かなり異例なことだと思われます。」

そこまで話すと一息入れるように間を置いた。話すことによってテンションが上がってきたことに気付き、少し落ち着かせようとしているようにも見えた。

「こうしてなんなく第一次選考をパスした後、昨日、最終選考会を行なったのですが、ここでも議論となるほどの懸案も見つかりませんでした。作品を絶賛する声は挙がっても、検討を要するようなコメントは一切出なかったのです。ほぼ完璧な作品と言って良いのではないかと思います。」

会場がまたもざわめいた。素晴らしい作品であることは相澤から聞いて知っていたが、ここまで絶賛されるとは思っていなかった私は、まるで自分のことのように喜びが心の底から湧いてくるのを感じた。

「聞くところによるとこの作品はIさんの処女作とのこと。今後の作品が大変楽しみな、素晴らしい作家の誕生です。」

一斉に拍手が起こり、スポットライトが再び私の目の前を光の海に変えた。昨夜の記者会見で感じたものとは比較にならないくらいの恍惚感が襲ってきた。光の海の中を漂うような感覚は、拍手が収まるまでの間、たゆまなく続いた。ふと気付くと拍手は収まり、照明も元に戻っていた。

「それでは本年度の芥木賞受賞者であるIさんからコメントをいただきたいと思います。Iさん、よろしくお願い致します。」

山本の声に促されるようにしてマイクの側まで行くと、山本は穏やかな笑顔でポジションを空けてくれた。マイクの前に立つと、三度フラッシュが焚かれたが、さすがに慣れて来たのか、例の恍惚感はあまり感じられなくなっていた。

「本日は、大変素晴らしい賞をいただきありがとうございます。昨日、連絡をいただいてから丸一日が経ちましたが、未だにピンと来ないというのが今の実感です。先ほどの中川先生のお話にもありましたが、実はこの作品は私の初めての作品でして、まさか賞をいただけるなんて、ありきたりの言葉ですが、夢のようです。今後、どのような作品が書けるかわかりませんが、今日いただいたこの賞を励みにして、少しでも良い作品が書けるよう、今後も頑張っていきたいと思います。ありがとうございました。」

会場内を拍手の音が埋める中、山本に促された私は壇を降り、相澤達が座っているところに戻っていった。

「それではこの後、記者会見に移らせていただきます。会場のセッティングがありますのでしばらくそのままでお待ちください。」

相澤と大田原が立ち上がり、壇の裏に向かいながら

「Iさん、いよいよ正念場ですね。気楽にいきましょう!」

と小さな声で言ってきた。返事を返す代わりに二人を見ながら大きく頷いて、大丈夫であることを彼らに伝えた。山本が私と相澤を記者会見用にセッティングされた椅子のところへ来るよう呼びに来て会見が始まった。

「まず最初に、昨夜の記者会見についてK出版から説明があるそうです。」

山本が事務口調で告げると、相澤がマイクを持ち深々とお辞儀をしてから話し出した。

「K出版の相澤と申します。昨夜の記者会見に置きまして、一部不手際のあったことをお詫びさせていただきたく、事務局の方にお願いをし、この場をお借りしました。まず最初に、昨夜の記者会見で今回の芥木賞を受賞した『流布』の作者である『某氏』が誰か、と言う点に関して質問を制限させてもらった件について説明させていただきます。今回、我々はここにいらっしゃるIさんから依頼を受け、芥木賞の応募、およびその後の対応について代理で行なわせていただくことになっておりました。というのも、今回の作品では作者であるIさんが作品の構想段階時点で、既にペンネームを使用することを想定しており、可能な限り素性を明かさずにいたいと考えていたからです。ペンネームを使うことについては事前に事務局の方に確認を取り、了承いただいており特に問題はなかったのですが、素性を明かすタイミングについて、我々K出版側の認識が事務局で指示されたものと異なっていたことから、皆様にご迷惑をおかけすることになってしまいました。事務局の方では賞が確定するまでに素性を明確にするよう指示されておったのですが、我々はこの”賞が確定”というのを本日の授賞式と勘違いしてしまいました。Iさんにも事前にその旨、“賞の確定までに素性をあかすこと“、を伝えていたのですが、昨夜の記者会見時点では、Iさんも授賞式で素性を明かせば良いと認識されており、あの段階で明かすだけの心の準備が出来ていませんでした。そこで、我々K出版の判断で、あのように顔を隠し、素性に関する質問を制限することにさせていただきました。本来なら昨日、賞が告知された時点までに素性を明かさなければいけなかったものが、結果的には本日、この場にまで延びてしまったこと、大変申し訳ありませんでした。全ては我々K出版側の不手際でございまして、事務局を始め、関係各位およびマスコミの皆さんに大変ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございませんでした。」

深々と頭を垂れるや否や、事務局長が

「マスコミの皆さん、昨日の記者会見には色々とご不満もおありでしょうが、K出版さんも大変反省されているようですし、何より、このような素晴らしい作品が世に出た記念すべき日です。なんとか穏便にお願いできませんでしょうか。」

会場からTVのワイドショーで見たことのある中年女性が立ち上がった。

「この後の記者会見ではIさんに関する質問はしても構わないんですよね。」

山本が本意を得たとばかり

「ええ、結構です。我々芥木賞を主宰する側としましては、ペンネームでの応募は認めておりますが、素性を隠すことは認めておりません。今回は手違いもありましたが、先ほどお配りした資料にもIさんの氏名を記載しております。記者会見において質問の制限を設けるようなことは致しません。まあ、常識を逸脱するような質問は困りますけどね。」

先ほどの女性が

「確認しますが、今回の不手際はあくまでもK出版側の問題であり、主催者側には非がないということでよろしいでしょうか。」

やはり昨夜の記者会見における相澤の態度に腹据えかねる、といったとこなのだろう。悪者は糾弾してやろう、という意識がちらちらと見え隠れしていた。返答しようと山本を見た相澤を手で制し山本が答えた。

「結果的にはK出版さんの解釈が間違っていたわけであり、その点については事務局に非はないと考えます。ただ、今年の選考会は、こちらの都合でスケジュールを変更しており、マスコミへの発表も例年とは異なっています。直接関係することではありませんが、今回のトラブルに若干でも影響を与えたのかも知れず、そういう面では申し訳なく考えております。」

さすが長年事務局長をやっているだけのことはある。問題の本質を上手くぼかした回答であった。

「皆様、納得していただけましたでしょうか。であれば引き続き、記者会見に移らせていただきたいと思います。Iさん、恐れ入りますが壇上の方にお越し願えますか。」

隣で所在なさげに立っている相澤をちらっと見てから壇上に上がり、用意された椅子に腰掛けた。いよいよ正念場である。ぼろを出さぬよう、応答しなければ。

「それではご質問をお願い致します。」

先ほどの女性リポータが、座りもせず、待ち構えていたかのように質問してきた。

「昨夜もお祝いを述べさせていただいたのですが、昨夜はIさんかどうかわかりませんでしたので、敢えて申し上げます。Iさん、この度は芥木賞受賞おめでとうございます。」

皮肉たっぷりに祝いの言葉を笑顔で発したが、目は笑っておらず、あまり気分の良いものではなかった。取り敢えず礼を言おうとしたが間髪いれず質問してきた。

「今回、ペンネームで応募した理由は昨日お伺いしましたが、第一次選考会以降、あれだけ騒がれていたにも関わらず素性を明かさなかったのには何か理由があったのですか?」

最初の質問なのだから、作品について聞くのが礼儀だと思うが、彼女にはそんな常識はないらしい。まあ、ワイドショーとかでたまに見かける記者会見も、大抵は野次馬根性丸出しだから仕方ないか。

「今回の応募はここにいらっしゃるK出版の相澤さんに代理で行なってもらったのですが、もともと私の方でペンネームを使いたいこともあり、最初は事務局にも素性を知らせず手続きしていただきました。その後、マスコミの皆さんがいろいろな憶測を流し始めましたが、私を特定するようなものではなかったので放って置きました。事務局の方には、先ほど説明がありましたように、授賞式までにお伝えすれば良いと思っていましたので、相澤さんとも相談してしばらく様子を見ることにしたのです。ところが最終選考会の数日前には、報道の内容が変わってきて、あきらかに私を示すようなものが出てきました。この頃になると、私も会社の同僚や知人らにいろいろと聞かれることが増えてきてしまい、流石に放っておく訳にはいかないと思いましたが、受賞したわけでもないのに自ら”私が『某氏』です“と名乗るのも変ですし、どうしようと悩んでいるうちに昨日の最終選考会を迎えてしまいました。昨夜の記者会見で公表しなかったのは先ほど相澤さんが説明された通りでして、私もあんなにマスコミの方が集まるなど、予想もしておりませんでしたから、会場に入るや否や舞い上がってしまって、とても冷静に説明できる状態ではありませんでしたので、大変申し訳ないとは思いつつ、あのような会見になってしまいました。本当に申し訳ありませんでした。」

神妙な面持ちで言い訳をしたが、件のリポーターは、逃してなるものか、とばかりに大きな鼻を膨らませながら聞いてきた。

「すると、特に理由も無く、あれだけ私達が探していたにも関わらず、放っておいたということですか。」

叱責するような聞き方である。今日はお祝いの場なんだが・・・、と思いつつ、どう答えようか思案している時、壇上に駆け上がってくる人影が視界に入った。相澤がフォローをすべく、馳せ参じたようである。私の横に立ち、マイクに向かうと

「先ほども申し上げましたが、今回は私ども、K出版がIさんの代理人として手続きを行ないました。マスコミ各社への対応も我々が行うべきであったと思っています。ところが、皆さんの報道が明確にIさんを示すようになった頃、今回の手続きを担当していた私が別件に手を取られ、十分にIさんのフォローを出来ない状況になってしまいました。Iさんは今の回答にもあったように、なんとかしなければと考えていたのですが、何分、この手のことには素人であり、どうしたら良いのかわからなかったそうです。本来ならこの時点で我々、いえ、私の方で事務局及びマスコミの皆さんに説明をしなければいけなかったのですが、先程申し上げたように別件で手一杯になってましてこのような事態になってしまいました。皆さんには大変ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。」

これでもかというくらい、深いお辞儀をした相澤を見て、私も慌てて深くお辞儀をした。カメラのフラッシュが一斉に焚かれた。


 授賞式も無事終了しマスコミ各社の面々が帰った後、事務局長の山本と委員長代理の中川に挨拶をしてから、相澤、大田原と共にK出版のオフィスに戻った。さすがに3人とも疲れたせいか、帰りの車中どころか、オフィスの会議室に入ってからもしばらくの間、無言で椅子に腰掛けているだけであった。ようやっと大田原が

「まあ、なんとかクリアすることが出来て良かった。多少、批判の目を向けられるかもしれませんが、これで、実力派作家の誕生ですな。」

疲れた顔に笑みを浮かべ、私の方を向いて祝いの言葉を告げた。

「芥木賞、受賞、おめでとうございます。」

それにつられるように相澤も

「Iさん、おめでとうございます。」

と告げた。二人とも静かな語り口ではあったが、心のこもった一言であった。

「ありがとうございます。これもお二人のおかげです。本当にありがとうございました。」

あまり自覚はなかったが、きっと記者会見でかなり興奮していたのだろう。頭の中に靄がかかったような、ちょっとした浮遊感を感じながら一言返すのが精一杯であった。こんなに感動したのは何時以来だろう。久しく忘れていた感覚であった。


 大田原がお祝いをしようと誘ってくれたが、昨夜からの緊張から解放されて頭の中がへとへとになっていると告げたところ、彼らも同じ状態だったようで、後日、日を改めて乾杯しようということになり、相澤が用意してくれたハイヤーで妻が待つ自宅へと向かった。家に着いた時、授賞式開始から6時間が過ぎていた。自宅近くになって、マスコミの連中が待ち伏せしているのではないかと気を揉んだが、家の前にはそれらしき人影は一切なかった。少し拍子抜けしたが、よくよく考えればそこまで注目されるような人物ではないことは自明であり、座席のシートに凭れたまま、気恥ずかしい気分を運転手に悟られまいと少し間を置いてから車を降りた。家に入ると妻が出迎えるなり、

「大変よ、さっきからお祝いの電話が鳴りっぱなし。携帯にかけても全然出ないし、もう、てんてこ舞いで困っちゃったわよ!」

と言ってきた。怒っているのかな、と様子を見たが、どうやらそうでもなさそうである。彼女は私より10才若く、口の悪い友人からは“若い奥さん持つと我が儘で大変なんじゃないか”などと言われるが、我が儘を言ったり怒ったりすることはほとんどない。本人に言わせるとたまに怒っているらしいのだが、おっとりした性格のせいか、おとなしそうな外見のせいかわからないが、そういう時でも怒ってないように見えることがあるから不思議である。この時も怒っていないように見えたが、もしかしたら内心、沸々と腹立たしさを感じていたのかもしれない。

「鳴りっぱなしって、誰がかけてきたんだい?」

探りを入れるように聞いてみた。

「うちのお母さんに、あなたのお父さんでしょ、それに親戚は片っ端から。そうそう、仙台の叔父さんからもかかってきたわよ。普段、年賀状くらいしかやり取りしてないのにねぇ。みんな今日の記者会見を見て、早速かけてきたみたい。誰かが言ってたけど、みんな、このところ噂になってるのを気にしてたみたい。で、今日のニュースを見て確信をもってかけてきた、そんなとこかしら。しかし、TVの威力ってすごいわね。」

やや興奮気味にまくし立てると、私の上着を掛けにクローゼットへと向かった。どうやら怒っていないようだ。少し安心してリビングのソファに腰掛けると、待っていたかのように電話が鳴った。出てみると10年来会っていない中学の時の同級生であった。社交辞令的なお祝いを述べると、しばし思い出話に花を咲かせ、一区切りついたところで電話は切られた。時計を見ると午後11時を20分ほど過ぎていた。何てこともない電話だったが、長年連絡のなかった知人がこんな夜更けに掛けてくるなんて、マスコミの威力を改めて見せ付けられた気がした。後から考えると、威力といってもほんの小手調べ程度だったのだが。。。


 夕飯代わりに軽く晩酌を始めると、妻が何かを思い出したらしく、隣の和室に行ってすぐに戻ってきた。ニヤニヤしながら近づいてくると、

「芥木賞、受賞おめでとう!」

と言ってリボンのかかった小さな箱を目の前に差し出した。

「なんだ、お祝いを用意してくれたのか?嬉しいね。」

と言って受け取り包装を解くと、中からがっしりした感じの万年筆が一本出てきた。一昔前の作家のイメージにぴったりしそうな、黒を基調に茶でアクセントを与えている、趣味の良い万年筆だった。

「おっ、なんだか渋みのある作家みたいだな。最近、万年筆で字を書くことなんてなくなったけど、今度はこれで書いてみようかな。」
「どんなものが良いのか悩んだけど、何てったって、今をトキメク芥木賞作家ですからね。実際には使わなくても、万年筆の一本くらいあってもいいかと思って。」

こういう気持ちの篭ったものは、とてもうれしいものである。長年、夫婦をやってると照れくさい面もあるが、素直に礼を述べることが出来た。

「ありがとう。本当に嬉しいよ。今度は受賞の賞金で君にも何かプレゼントしないとな。」

どこの家庭も似たり寄ったりだとは思うが、こういった喜びの時は夫婦でいて良かったと感じるのだろう。普段一緒に生活していると、物事に対する感じ方が段々と同じ向きになっていくような気がする。


 一夜明けて、少し遅めの朝食を取りながらTVを見ていると、昨日の授賞式の模様が放映されていた。こうして見ていると自分のTV映りも捨てたもんじゃないな、などとお気楽なことを考えている時、電話が鳴った。時計を見ると10時5分前であった。またお祝いの電話か?と訝りながら受話器を取ると、馬鹿丁寧な話し方をする男からであった。

「私、TV東都の大川と申します。この度は芥木賞の受賞、大変おめでとうございます。」
「はあ、ありがとうございます。」

TV局が何のようだ?とまだ目覚めきらない頭でぼんやり考えていると、大川と名乗った男は、一方的に自分の用件を一気にまくし立てた。

「突然、お電話差し上げ申し訳ございません。私、局内で文化部に所属しておりまして、文化に関するホットな話題を視聴者の皆様に提供していくことを職務とさせていただいております。最近は、文化的貢献をなされていらっしゃる方自身にスポットを当てることも多く、そういった方の生き様や、作品をお茶の間の皆様にご紹介することが多くなっております。特に、小説を始めとした文壇においては、芥木賞や各賞を受賞された方々の生き様をご紹介させていただくケースが増えております。そんなおり、昨日の授賞式で先生方のコメントを聞いたところ、平成の大作家誕生とも評されており、これはもうすぐにでもお会いしなければいけない、こういった方を紹介していくことが私の天命であると感じました。そんな次第で、昨日の今日で性急かとも思いましたが、お電話させていただきました。お疲れのところ大変恐縮ですが、今日の午後にでもお会いすることは出来ませんでしょうか。」

なんとも気の早い人だ。今は日曜日の午前中であり、一般的には休日の朝なのである。そんな時間に電話してくることもそうだが、昨日の夕方に発表されて、今日の朝に依頼をしてくるなんて、かなり太い神経でないと出来ない行動だよな。TV局に勤めてる人間にはなんとなく軽いイメージがついてまわるが、こういった図々しい行動に出られると余計に印象が悪くなってしまう。

「今日は予定が入っていて時間取れませんが。そもそも、どんなご用件なんですか?」

わざとらしく不機嫌な調子で返してやった。

「これは大変失礼致しました。そうですよね、唐突に会ってくれと言われても困りますよね。先ほどもお話したように、私、I先生のように文化的な活動をされてる方、特にその時ホットな活動をされてる方を番組で紹介させていただいております。今回お電話差し上げたのは、この番組にI先生に出ていただけますようお願いする為でございます。つきましては、お電話では失礼かと思い、直接お会いした上でお話させていただけないかと考えた次第でございます。大変恐縮なのですが、如何でございましょう。」

如何も何もない。端からそう言えば良いのである。しかし、昨日デビューしたばかり、厳密に言うとまだデビューもしていない私のことを先生扱いとは、マスコミと言うのは好い加減なものだな。そんなことを考えながら、“平日は仕事なので出来れば週末にしてもらえないか”と伝えると、相手は、“ほんの一時間で良いから仕事の帰りにでも会えないか”と言って来た。面倒くさくなってきた私はろくに後先も考えず、水曜日の業後に会うこととして電話を切った。いつの間にか洗濯物を干した妻がリビングに戻ってきていた。

「どこから?」
「東都TVから。番組に出てくれってさ。」

何故だか大した事ではないと思い込んでいた私は何気なく答えたが、妻の反応で電話の要件を再認識した。

「えぇ、TVに出るの?!すごいじゃない、で、何ていう番組?」

勢い込んで聞いてくる妻の顔を見ながら

「うーん、番組名を聞くの忘れた。」
「もう、やだぁ。肝心なことじゃない。」

妻が興奮気味な表情で笑った。昨日までは普通のサラリーマンが、たったひとつの賞を得ただけでTVに出演できる。今更ながら【芥木賞】の影響力に感心させられる出来事であった。


 今までの人生ではTVに出る、しかもスポットのあたるゲストとして出演するなど、微塵も考えたことがなかったし、そもそもTVに出て何を話せば良いのだろう?そんなことを考えてる間に同じような電話が相次ぎ、ほんの1時間ほどで、TV局からの出演依頼3件、ラジオの出演依頼2件、そして雑誌への寄稿依頼が3件あり、瞬く間に受けてしまった。最初はあまり考えずに請け負っていたが、これだけ続くとこちらも真剣にならざるを得ず、途中からは手帳とカレンダーをテーブルの上に置き、スケジューリングしていった。基本的に出演依頼は土日に振って行ったため、この先1ヶ月は毎週どこかの局に出演することになってしまった。雑誌への寄稿は取り敢えず受けたが、どのくらいで書けるのか、皆目検討がつかなかったので、締め切り時期は検討させてもらうよう条件を出すことにした。“寄稿の件については後で相澤に相談してみよう。“親戚や知人からのお祝いは相変わらず続いており、出演依頼などの合い間に何本か入っていた。いい加減、電話に出るのが面倒くさくなってきた私は、電話を留守番モードにセットし外出することにした。妻を残して出かけると、私の代わりに彼女が電話攻めにあって、その反動がこちらにくるのは目に見えていたので、一緒に出かけるよう誘ってみた。最初、あまり気乗りがしない様子であったが、”電話が頻繁にかかってくるよ”、と言ったら慌てて外出の支度を始めた。こういったところに愛嬌さが出てくる妻は、今年35才になるが、年齢を感じさせない雰囲気をもっていた。


 外に出ると、初夏の日差しが心地よく体の中に染み込んでいくのが感じられた。せっかくの好天気なので近くの公園まで少し散歩をしてから、美味しい紅茶を飲ませてくれる喫茶店に向かうことにした。一昨日から数多くの瞳に見つめられてきたせいか、行き交う人がこちらを見ているような気もしたが、実際にはそんなこともなく、自意識過剰になっている自分が少し恥ずかしかった。そのことを妻に言うと、

「あら、早くも一流作家のつもりなのね?それじゃあ、私も一流作家の妻として有名人になるのかしら?」

などと他愛もないことを言いながら、大袈裟にポーズを取って軽く笑った。喫茶店のマスターは一瞬“おやっ”という表情を浮かべたがすぐに柔和な笑顔に変え、とても美味しいアールグレイを入れてくれた。“太っちゃう“と言いながらも甘いものに目が無い妻は、マスターお手製のレアチーズをミントティと一緒に楽しんでいた。日曜日の昼下がり、こんな風にのんびりした時間を楽しんでいると、一昨日からのことがまるで夢の中の出来事だったような気がしてくる。しかし、経緯はどうあれ、今の私は芥木賞作家であり、これからも素晴らしい作品を生み出していくことを期待された作家なのである。数日前までは毎日通勤電車に揺られて都会のオフィスに通う日々であったが、今後は執筆活動にも時間を費やさねばならない。どちらかというと明日やれば良いことは明日にまわす性分なので二束のわらじを器用に履きこなせるとも思えない。今は芥木賞の余波でマスコミも取り上げているが、今後、発表する作品によっては箸にも棒にもかからなくなることも想定されるから、いきなり今の会社を辞めるわけにもいかないだろう。出来ることなら、しばらくの間、今の仕事を休むとか軽減するとか出来れば良いが、会社がそんなことを認めるかどうか。。。妻が横で心配そうな表情でこちらを見ていることに気付いた。

「どうした?何かあったのか?」
「険しい顔して考え事してたからどうかしたのかな、と思って。」

と言いながら眉間に手を当てた。私は考え事とか何かに集中している時、眉間に皺を寄せる癖がある。今のように考え事ならまだしも、食事時でも”これはどんな調理をしているんだろう?“といったことを考える時にもついつい癖が出てしまい、相手に余計な心配や悪い印象を与えてしまうことがあった。この癖を知っている妻が気にするほどなので、よっぽど深刻そうな表情をしていたのだろう。

「今後のことを考えていたんだ。会社に行きながら執筆活動を出来るほど器用じゃないし、かといって、会社を辞めるほどの覚悟も自信も無いし。さて、どうしたもんかと。。。」

レアチーズケーキの最後のひとかけを食べながら

「そっか、大きな賞をもらったのは良いけど、それはそれで悩みも出てくるのね。」

妻のふんやりとした言い方には助けられることが多い。この時も深刻さのかけらも見せないような言い方が”まあどうにかなるか”といった気分にさせてくれた。


 美味しいティータイムを過ごした私達が家に着くと、留守電にはお祝いの言葉や取材/出演/寄稿等の依頼がいっぱいになっていた。一通り聞き終えてほっとした瞬間、再び電話が鳴った。キッチンにいる妻を恨めしげにちらっと眺めると、彼女も“しょうがないわね、でも出ないとね”といった表情を浮かべた。仕方が無いので受話器を握ると、意外なことに総務部長からであった。いつも何を考えているのかわからない彼は社内で少し浮いた存在であった。職務上仕方ないのかもしれないが、媚びるような動作でお役所的な仕事をし、そしてこれは彼だけではないが、上からの圧力にとんでもないくらい弱い。そんな彼が一体どんな用があるのだろう。

「お休みのところ申し訳ないね。大事なことなので早い方が良いと思って、失礼ながら自宅の方に連絡させてもらったよ。」

上にばかり視線を向けている彼にしては割と丁寧な口調に少し奇異な感じを受けた。

「いえ、今日は家でのんびりしてましたので構わないのですが、私に何か?」

“そう言えば先日、副業がどうのこうの言ってたな、服務規程か何かに引っ掛かるのか?“警戒しながら次の言葉を待った。

「先ほどTVのニュースで芥木賞のことを聞きましたよ。受賞したそうじゃないですか、おめでとう!」

ごく普通のお祝いを続けた後、

「ところで、I君は今後仕事のほうはどうするんですか?芥木賞の選考委員も絶賛する作品を書かれた新進気鋭の作家先生ですから、次の作品も期待されてるんでしょう?」

どうやら彼は、総務部長として彼の仕事に汚点がつかないよう、早めに根回しをしようとしているらしかった。

「昨日の今日なのでまだ何にも考えていませんが。」

うっかりしたことは言えないと思った。

「マスコミがあれだけ騒いでいたんだから、それなりにプランを考えているんだろ?良いように計らってあげるから言ってごらんよ。」

受話器の向うで下卑た笑いを浮かべているのが目に浮かんだ。

「いえ、本当に受賞するとは思っていませんでしたから、プランも何もないんですよ。」

正直、マスコミが騒いでいたここ数週間、芥木賞が終われば騒ぎも落ち着くだろうと見込んでいただけで、自分の生活が変わるなんてこれっぽっちも考えていなかった。まあ、その時点では私が書いたわけでもないので当たり前なのだが。

「本当に無いのかい?あれだけ騒がれていながら?ちょっと信じられないなぁ。僕なら詳細なところまで詰めておくけどねぇ。本当に無いのかい?」

総務部長は自分のイメージ通りに行かないことで少しいらつき始めていた。

「とりあえずは今まで通り出社して何日か様子をみようと思っていますが。」

当り障りの無いよう回答したところ

「いかんよ、君!!さっきのワイドショーでも言っていたが、君が正体を隠していたことについてマスコミ各社がかなり怒っているそうじゃないか。そんな君がオフィスに現れてごらん、マスコミが寄ってたかって我が社のことを悪く言う可能性がある。いや、きっと悪者にする。そうなっては我が社としても大変困るんだよ。」

”おいおい、ニュースじゃなくてワイドショーかよ、それになんだって会社が悪者になるんだ?”

「はあ、しかし、一応私も社員ですから、勝手に休む訳にもいかないかと。」

待ってましたとばかりに声のトーンをあげ、怒鳴るようにして総務部長が私の言葉を継いだ。

「いや、今回のようなケースは極めて異例ではあるが、総務部長である私の判断で、I君の勤務形態を在宅勤務にすることで会社を休まなくてもオフィスに出なくてすむぞ。」

“私の”という部分をやけに強調しているのは、きっと、上司に報告する際にポイントがかせげるとでも思っているのだろう。しかし、彼の思惑など別にして、在宅勤務は今の私には渡りに船かも知れない。とりあえず機嫌を損ねないようこの話に乗ってみるか。

「在宅勤務にしていただけるのですか。それは大変助かります。仕事で使う資料の作成などはインターネット経由でサーバにアクセスすれば大丈夫ですから問題ないですし。あと、自宅での勤務時間とか、勤務状況の報告とかを簡単に決めていただければ、それでよろしいかと思います。」

そんな簡単なものではないのだが、名案だと思い込んでいる総務部長は私の言葉に気を良くしたらしく

「そうか、それじゃぁ、明日にでも君の上長に話をして細かいところを詰めた上で連絡させよう。とりあえず明日は自宅で待機していてくれたまえ。」

課長の苦虫をつぶしたような顔が目に浮かぶ。総務部長にはああ言ったものの、今の仕事で在宅勤務は若干厳しい面がある。週の何日か、または、一日のうち数時間だけでもオフィスに行けばまだしも、まるっきりの在宅では、仕事が滞る可能性が高く、結果として生産性が落ちるのは明らかである。総務部長がどのように話を持っていくのかわからないが、課長がすんなり納得するとは考えにくいのである。それでも、万が一在宅になれば時間の都合をつけやすくなるだろうから、今の自分にとってはきっと好都合であろう。


 翌日、総務部長からではなく直属の課長から電話があり、しばらくの間は在宅勤務で構わないと告げてきた。勤務時間帯も特に限定しないという特別待遇であり、しかも、あろうことか、マスコミ対応も含めた執筆活動までも業務として認めると言う、まさに私にとっては願ったりかなったりという内容であった。課長は何か文句を言いたそうな雰囲気で話していたが、嫌味のひとつを言うでもなく、事務連絡を済ますとすぐに受話器を置いた。狐につままれた気分とはまさにこういうことなのだろう。マスコミのインタビューに答えたり、雑誌に寄稿したりしているだけで会社から給料がもらえるなんて、信じろと言われても困ってしまうと言うもんだ。しばらく呆けていた私の様子を心配した妻が、

「はい、お茶。」

と言って顔を覗き込んできた。

「どうしたの?会社、首にでもなった?」

真面目に聞く顔を見て思わず笑ってしまった。

「なんで首になるんだよ。プライベートで芥木賞を受賞したからといって首に出来るわけないだろう。変なこと言うなぁ。」

笑いながら昨日の総務部長の言葉を思い出していた。“総務部長である私の判断で在宅勤務に・・・”、一体どんな風に上を説得したのか、こちらにとばっちりが来なければ良いが、今はしばらく様子を見るしかないだろう。早速、本来の仕事はほっぽって、マスコミの対応に取り掛かった。昨日依頼のあったものに加え、新たに3件の原稿依頼が今日になってあったが、これらは本来の仕事との兼ね合いを見て決めるつもりでいたため返事を猶予してもらっていた。昨日の分とあわせてどれくらいの期間でこなせるのかわからないが、とりあえず依頼を受ける旨を連絡し、原稿に取り組んでみた。


 執筆活動に専念してから1ヶ月程は、作業自体が新鮮なこともあり、思いつくままにペンを走らせていた。ペンといってもノートパソコンのキーボードを気の向いた場所で叩いていたのだが。原稿の依頼はその大半が雑誌等への寄稿であり、テーマに沿って数ページ書けば済むものばかりだったので、かなり気楽に書いていた。本当にこんなもので良いのだろうか、という不安もあったが、何本かを渡した限りでは特に文句を言われるでもなく受け取ってもらえたので、まあ大丈夫なのであろう。TVやラジオの収録も、聞き手のパーソナリティが上手く引き出してくれるので、適当にあわせているうちにいつの間にか終わっている、といった感じであった。執筆活動自体はこんな感じで順調に行っていたが、どこで調べてくるのか、誹謗中傷の電話やメールが送られてくるのには閉口した。これも有名税と半分あきらめてはいたが、電話の場合、妻が対応することも多く、しかたなく自宅の電話番号を変えざるを得なくなってしまった。

目くじら立てることではないけれど、最近気になったことをふたつ・・・。

<その1>
昨日だか一昨日だか、ニュースを見ていたらどこぞの国の経産大臣が大勢の役人を前に訓示(?)を垂れていました。まあ、内容についてもいろいろと引っ掛かるものがあったのですが、それ以上に気になったのは全員がスーツ姿だったこと。東京は未だに夏日が続いていて、きちんと冷房を効かせないことにはとてもスーツの上着を着ようとは思わない人も多いはず。だけど、テレビの画面に映る役人たちは全員上着着用。冷房は電気を食うからなんたらクールビズとかいって節電しましょうと言ってた人って誰でしたっけ?

<その2>
このところ、とある国では国会議員が所属する党の代表選挙に躍起になっているそうです。だけど、彼らには国会議員として税金から給与が支払われているんですよね?その給与を使って自分たちの立場確保のための代表選挙に精を出すってどうなんでしょう。

性格がひねてるからこんな風に感じるのですかね。(^^;

まあ、少し気になっただけなんですけどね。

だけど、このねたを吉田照美氏に振ったらきっと口角泡を飛ばすように怒るんだろうな。。。(^o^)

第8章 授賞式

 昨夜は乾杯をした後、今日の授賞式に関する打ち合わせを簡単に済ませ、大田原と相澤の二人は帰っていった。彼らが押さえてくれたスイートはそのまま使って良いという事だったので、一人では広すぎる部屋ではあったが、泊まらせてもらうことにした。ただ、彼らが帰ってから、今夜の出来事について一切妻に話していないことを思い出した。結婚してから早10年が経っていたが、今まで予定外の外泊をしたことはなかったので、これから電話でここに泊まると言ったら彼女はどんな反応をするのだろう。かと言って、電話で今日の事を話しても、理解してもらえるかどうか。当事者である私でさえ未だに信じられないのだから、彼女がこんな話を電話で聞いたら“浮気の言い訳”とでも勘繰るかも知れない。少し悩んだ私は、彼女をホテルに呼び出すことにした。今からだとホテルに着くのは10時過ぎになってしまうが、この部屋を見せて説明すれば少しは納得するのではないか、と考えたのである。それと、一介のサラリーマンではこんな部屋には滅多に泊まれない。せっかくの機会だから利用してやれ、とさもしい考えも浮かんでいたりしたのである。電話でホテルに来るよう話したところ、案の定、かなり訝しげにしていた。最後は、

「とても大事な話がある。今晩、この部屋で話さないとお前も納得出来ないかもしれない。」

と言って、しぶる彼女を、なかば無理やり説得した。彼女が部屋に来るまでの間、食事をしていないことを思い出した私は、相澤に言われたとおり、氏名は名乗らずにルームサービスで軽い食事を頼んだ。妻が着たら乾杯できるよう、大好きな赤ワインを一緒に頼むことは忘れなかった。


 食事を終えてしばらくして妻がやってきた。部屋に入るなり

「すごいお部屋!一体どういうことなの?」

と疑いの眼差しを向けてきた。

「まあ、落ち着けよ。せっかくこんな素敵な部屋に泊まれるんだから、心地良く、過ごそうじゃないか。」

と言って、ソファに座るよう勧めた。彼女はソファには座らず、隣のベッドルームやバスルームなどを一通り見て周った。まるで人の気配でも捜すようにして各部屋を見た後、誰もいないことに少し安心したのか、“さあ、真相を聞かせてもらいましょう!”といった顔つきでソファに腰掛けた。どこから話せば良いのか思案したが、どこから話してもあまり大差はないだろうと判断し、思いつくまま、マスコミに流れた噂のことや、結果として芥木賞を受賞したことなどを説明して聞かせた。ただ、『某氏』に成り代わったことは伏せて、ペンネームとして使ったことにして説明しておいた。それでなくても妻にとっては唐突な話であり、芥木賞を受賞したと言うことでさえ、すぐには信じられないと思ったからである。最初、性質の悪い冗談だと思っていた妻であったが、何度も真剣に話す私を見ているうち、ようやっと信じたらしく、呆然としているのがわかった。しばらくして

「おめでとう!」

と喜んだかと思いきや、

「何で今まで隠していたの!!」

と今度は急転直下、怒られてしまった。今度はひたすらに謝り、妻が冷静になったのは11時を何分か過ぎた頃であった。

「そうだ、さっき乾杯しようと思ってワインを頼んであったんだ。乾杯しないか。」

先程ルームサービスで運ばれてきたワインとグラスをテーブルに並べ、コルクの栓を抜いていいると、

「芥木賞を受賞するとこんな素敵な部屋に泊まれるものなの?」

と聞かれ、一瞬ワインを落としそうになった。見透かされないよう言葉を注意深く選び

「さっきも言ったけど今回はペンネームを使って応募したんだけど、その際に出版社の編集者に無理を言って手続きなんかをお願いしたんだよ。その関係もあって、向こうとしては版権と言うのかな、自分のところから売り出すつもりでいるらしくて、そうすればその利潤は馬鹿にならないだろうから、こんな部屋を取ってくれたみたいだよ。」
「ふーん、よくそんな受賞できるかどうかもわからない作家の手続きなんかしてくれたわね。」

またもやワインの壜を落としそうになったが、なんとかこらえた。

「作品を読んでもらえばわかると思うけど、今回使った『某氏』というペンネームは作品と関係しているんだ。で、その編集者に読んでもらったあとに『某氏』というペンネームを使いたいと言ったらすごく面白がられてさ、彼にしてみれば軽い気持ちで引き受けてくれたみたいだよ。そもそもその道のプロだから、手続きと言ってもそんなに難しくないんじゃないか。さあ、コルクが抜けたよ。乾杯しよう。」

なんとか切り抜け、ワインをついだ。ワインは思いのほか美味しく、心地良く全身にめぐっていった。妻は酒があまり強くない。どちらかというと弱い方であり、最初の一杯で、もう顔をほんのりと薄桃色に染めていた。普段ならこの後、しばらくして眠くなっていくのだが、今夜は変な時間に移動した上、非日常的な事実を知らされ多少興奮しているのか、いつになく饒舌になっていた。

「でも、『某氏』っておかしなペンネームね。人から呼ばれるときはどうなるの?“『某氏』さん“って呼ぶの?何だかおかしいね。」

と言ってケラケラと笑っている。確かに妻の言う通りで、さっきの記者会見でも誰も”『某氏』さん”とは呼んでいなかったっけ。そうだよな、そもそも『某氏』という言葉自体が呼称を意味しているのだから、それを名前として使おうというのは、はなから無理があるんだよ。話すでもなくぶちぶち言いながら、今後、このペンネームを使おうか、それとも別のペンネームを考えようか、真剣に考えている自分に気づいた。ん、段々と真実と現実がごっちゃになってきたぞ。こんな調子で明日の授賞式に望んで大丈夫なんだろうか。横では妻が舟を漕ぎ出していた。

 翌朝、遅めの朝食を部屋で取った私達は、一旦家に帰り、授賞式の準備をすることにした。相澤がすべて手配してくれたらしく、チェックアウトの際にはルームキーを返すだけで何の詮索もされずにホテルを後にすることが出来た。東京駅からの京葉線にはディズニーリゾートに向かうのであろう、親子連れや若いアベックがそれなりに乗っていたが、舞浜駅を過ぎると車両の半分程に減っていた。自宅の前まで来ると、カメラを持ったマスコミ関係者と思しき人間が5~6人たむろしていた。そのうちの一人が私に気づいたと思いきや、一斉にこちらに向かって走り出し、あっという間に妻と私は彼らに取り囲まれてしまった。

「『某氏』ことIさんですよね。芥木賞受賞おめでとうございます。受賞から一晩経ちましたが、今の心境を教えていただけませんか。」

こっちが『某氏』であることを認めてもいないのに、彼らははなから決め付けている様子であった。夕べは相澤がしっかりと防御してくれたから大丈夫だったが、今は誰も助けてはくれない。横では妻がマスコミの勢いに圧倒され、不安そうな表情を浮かべながら私にしがみついていた。

「何のことですか?そもそもあなた方、失礼ですよ。唐突にカメラやらマイクやらを突きつけて、一体何のつもりですか。」

昨夜の記者会見で少し度胸がついたのか、意外と冷静に彼らに相対することが出来た。

「失礼しました。私は週刊毎朝の記者で大塚と言います。昨夜発表された芥木賞を『某氏』というペンネームでIさんが受賞されたとの事で取材をさせていただければと思い、今朝からお待ちしていました。周りにいる彼らもマスコミ関係者で、先程相談をしまして、私が代表でインタビューを申し込ませていただくことになったのです。」
「何か勘違いされてませんか?先般より私がその『某氏』であるような噂が流されているようですが、私はその人とは何の関係もないですよ。」

今後、どこかで素性を明かさなければいけないのだろうが、とりあえず授賞式までは隠していくことを相澤達と決めていた私は、ここでもそらっとぼけるしかなかった。昨夜は相澤が用意してくれたマスクやらなんやらで隠しとおせたが、今は素の私であり、とにかく“知らぬ存ぜぬ“で通すしかないのである。

「あなたは『某氏』ではないと仰るのですか?それでは『某氏』は一体誰なんですか?」
「そんなこと私に言われてもわかりませんよ。例の噂だって、本人である私の知らないところで勝手に流されてたようですし。大概にして欲しいですよ!」

最後はわざと声を少し荒げ、不満そうな表情で記者を睨んだ。てっきり私が『某氏』であり、受賞が確定したこともあり素直に喋ってもらえると思っていたのか、携帯用のレコーダを持った記者は一瞬ひるんだ後、

「あなたはIさんですよね?」
「ええ、そうですが。」
「今回芥木賞を受賞した『流布』という作品についてはどう思われますか?」

記者は何を思ったのか、頓珍漢な質問をしてきた。

「昨夜のニュースで『流布』という作品が受賞したことは知ってますが、作品自体を知りませんので、何ともお答えしようがないのですが。」

もしかしたら記者は鎌をかけてきているのかもしれない。ぼろが出ぬうちに早く彼らから離れるべきと判断した私は、記者たちが次の質問をしてくる前に

「いずれにせよ私には関係のない話です。急いでいますので失礼しますよ。」

と言い、妻をかばうようにして彼らの間を突き破って素早く家の中に入った。鍵をかけ、鍵穴から覗いてみると、この先どうしたものか、といった感じで彼らがたたずんでいるのが見えた。リビングに入るとソファに座るなり妻が

「あぁ、びっくりした。何なのあの人達。家の前で待ち伏せだなんて、ワイドショーやニュースでは見たことあったけど、まさか自分達が取材されるなんて夢にも思わなかったわ。」
「大丈夫か?俺は昨日の記者会見で少し免疫が出来たせいか、割と平気だったけど、最初だとびっくりしただろう。」
「雰囲気もそうだけど、あなたがとぼけてるものだから、なんだかわけがわからなかったわよ。あれ、どういうことなの?夕べは『某氏』で芥木賞を受賞したって言ってたわよね?」
「ごめん、ごめん。賞を受賞したことは本当だよ。ただ、夕べも言ったように今回はペンネームを使って応募した上、今のところ素性を明かしていないんだ。で、編集者とも相談をして、昨日の記者会見でも素性に関しては一切隠したままで、マスコミの質問も受け付けなかったんだ。だから、さっきのように私自身の口から私が『某氏』でござい、という訳にはいかなかったんだ。先に伝えておけばよかったね。」
「なんだ、そうだったの。もし私が先に質問を受けてたらばらしちゃうとこだったわよ。いつまで素性を隠しとく気なの?」
「そうだよな、まさか家の前で待ち伏せしてるなんて思わなかったけど、これからもどこでいきなり聞かれるかもわからないしな。後で編集者に電話して、素性の件については相談してみるよ。」

とは言ったものの、どうして素性を隠していたかについては説明のしようが無いわけで、早く理由を決めておく必要があった。不用意に理由を説明して、変な詮索をされることだけは避けたかった。


 今日は朝から三河裕次郎の自宅に向かった相澤は、明日が締め切りの原稿を受け取り、その場で確認した後、オフィスに入った。三河は葬儀のため留守にしていたが、いつも筆の早い彼は明日の締め切りを前に、既に原稿を仕上げていた。夕方の授賞式が気になって仕方がない相澤は、如何にして授賞式を上手く乗り切るか、夕べからずーっと、そればかり考えていた。こんな状態で他の仕事をしたら、どんなミスをしでかすかわからないと感じた彼は、今さっきもらってきた三河の原稿を印刷部門の担当者に回し、今日予定していた他の仕事も一切明日以降に延期することにした。印刷部門の担当者に原稿を回し、さてこれから、と言うときに携帯電話が鳴った。相手は芥木賞選考会事務局長の山中であった。

「相澤さん、夕べの記者会見、あれはどういうことなんですか?本人はマスクを被っていて顔を見せないし、相澤さんからも本人からも氏素性の紹介はされないし。今日の授賞式では大丈夫なんでしょうね。」

挨拶もそこそこに山中は少し怒ったような口ぶりで問いかけてきた。

「山中さん、大丈夫ですよ。以前お約束した通り、今日の授賞式では素性を明かすようにしますから。昨日はあまりにもマスコミが踊っていたから、もう少し煽ってみようかな、なんて思っただけですから。」
「絶対ですよ。授賞式にマスク被って登場、なんて止めてくださいよ。」
「ええ、大丈夫ですって。そんな、山中さんの顔をつぶすようなことはしませんから。」
「昨日の記者会見をニュースで見たときには、唖然としてしまいましたよ。おかげで今日は朝から問い合わせの電話が殺到しているし。」

少し落ち着いてきたのか、段々と普段のしゃべり方に戻りつつあった。

「問い合わせってどんな内容なんです?」
「何って決まってるでしょうが、“『某氏』とは誰なんだ“ですよ。」
「ふーん、そんなに気になるもんなんですかねぇ。私なんか、作家が誰かより、作品の内容ですけどね。」
「当たり前ですよ。芥木賞は由緒正しいものです。ですから、今のように”作家の素性は誰だ“なんてくだらないことで騒がれては困るのです。ですから早く素性を明かしてくれとお願いしてたじゃないですか。」

おっと、雲行きが悪くなってきた。

「わかってますって。そんなに心配しないで下さいよ。授賞式では素顔で行かせますから。」

山中の勢いに、心の中では”もうここまでかな”と思ったが、だめ元で

「ただ、ここまでマスコミが盛り上げてくれてるのに、すぐに素性を明かしちゃうのってもったいなくないですか?」

と聞いてみた。

「そりゃぁ、これだけマスコミが騒いでくれたおかげで今回の選考はすごく注目されてますし、事務局としては嬉しい面もありますよ。ただ、芥木賞はそんなことで注目されてはいけないのです。作品の出来で注目されなければ。」
「今回の『流布』はとても評判が良かったときいてますが。」

正論をぶつ山中にはちょっといじわるかと思ったが、この作品が世間の注目を浴びれば浴びるほど、その売上は確実に伸びるはずであり、そのネタをみすみすあきらめるにはかなり惜しい内容であった。一日でも1時間でも長く世間の目をごまかすことが出来るのなら、多少強引な駆け引きも仕方ないんだ、と自分に言い聞かせるようにする相澤であった。

「う、それは、、、確かに『流布』の出来は素晴らしいです。選考委員のみならず、私もそれは認めますよ。しかし、それならなおさらです。そんな低次元な内容で騒ぐのではなく、作品の内容で騒がれれば良いのです。」

これ以上テンションを上げられても困ると思い

「山中さん、あなたの気持ちは十分にわかりました。本当に授賞式ではきっちりさせますから、安心してください。ところで授賞式ですが、私も代理人として出席しても構いませんか?昨夜の記者会見に関する説明もしないといけないでしょうし、ずぶの素人である本人に任せるのはちょっと気が引けますから。」
「うーん、代理人なんて今までいなかったからなぁ。」

独り言のように話しながら山中は考えていた。昨夜の記者会見ではマスコミ連中がかなり憤慨していたらしく、今夜の授賞式も最初から過激な質問が出る可能性は高い。授賞式を取り仕切るのは事務局の仕事ではあるが、今回の問題は芥木賞に関するというよりも、どちらかというと相澤、すなわちK出版の方が自社利益のため、無用に事を大きくしている節がある。ここで相澤を参加させなかった場合、『某氏』にそのしわ寄せが行くが、結局は事務局の方に付けが回ってきそうである。そこまで考えてから山中は相澤に対して代理人としての参加を認めた。

「ただし、こちらからの要請があったとき以外の発言は控えてもらいますよ。」

電話を切った相澤は、今日の授賞式から出版までのストーリーを急いで練ることにした。


 昼食を終え、のんびりしていると相澤から電話がかかってきた。授賞式の前に打ち合わせをしたいので社まで来てくれないかという事だった。今朝の出来事を手短に話した後、相澤の考えを聞こうと思い、

「そちらに行くのは構わないのですが、朝から家の前でマスコミ連中がたむろしていて、外に出た途端に取り囲まれてしまいそうなんですよ。どうしたら良いですかね。」

と付け加えた。

「Iさんが『某氏』であることは認めなかったのですね?」
「えぇ、かなり怪しかったですが、そらっとぼけてさっさと家の中に逃げ込んでしまいました。その後は一歩も外に出てないので、今のところ認めてはいませんよ。でも、外に出てまた問い詰められたら、思わず変なことを言ってしまうかもしれませんね。ちょっと自信がないです。」
「先程、選考会の事務局長と話をしたのですが、結論から言うと、今晩の授賞式では氏素性を公表しなければいけなくなってしまいました。」
「えぇ、ということは、“実は私が『某氏』です“、と言わなければいけないんですか。まいったなぁ、まだ心の準備が出来ていませんよ。なんとかならないんですか、相澤さん。」
「私もかなり粘っては見たのですが、応募した時からの経緯とかもあってですね、これ以上引き伸ばすことは出来ないんですよ。とは言え、Iさん自信の口から、そこにいるマスコミ連中に伝えるのも難しいですよね。とりあえずこちらからハイヤーを手配しますから、なんとか彼らを振り切ってこちらに来てもらえませんか。」
「ハイヤーですか。余計に疑われそうだけど、どうせ授賞式では正体を明かさないといけないんですよね。わかりました。なんとか頑張って振り切ってみます。で、ハイヤーは何時ごろになりますか?あ、あと、どんな格好で行けば良いのでしょう?」
「ハイヤーはすぐに手配しますから、小一時間もあればお迎えに上がれると思います。手配出来次第、ハイヤー会社のほうから連絡が行くはずです。あと、格好ですが、Iさんは普通のサラリーマンですから、普通のスーツで構いませんよ。もし気になるようでしたらモーニングでも構わないですし、なんでしたらこちらで用意させてもらっても良いですよ。どうされます?」
「モーニングなんて持っていないし、着慣れてもいませんから普通のスーツで伺います。あと何か必要なものとかありますか?」
「今日は授賞式ですから、特に何もいらないですね。それよりも、昨日の今日ですから、相当マスコミに突っ込まれることを想定して対策を考えておかないといけないですね。」
「本当に大丈夫なんでしょうか。」

またぞろ不安が頭をもたげてきた。

「大丈夫ですよ。こちらにこられるまでに入念なシナリオを作っておきますから安心してください。」

確かに今更後に引くわけにも行かないのだから、注意深く、かつ大胆に前進するしかないのだろう。電話を切った私は今の会話を手短に妻に伝えてから授賞式に出席する準備を始めた。準備と言っても、せいぜい服を着替え、ひげを剃るくらいなのであっという間に終わってしまった。ハイヤー会社から連絡があって車が家の前に到着したのは、準備が終わってから1時間後であった。


 表では相変わらずマスコミの記者達がたむろしており、玄関から出るや否や、今朝と同じように一斉に駆け寄ってきた。今朝は代表者が質問してきたが、今回はその約束も反故になったのか、今度こそ何か聞き出してやろうとでもいうように、各自が我先にと質問を投げかけてきた。数人とは言え、一斉に質問されては聞き取ることもままならず、これ幸いとばかり質問が聞き取れないような振りをして、おしくらまんじゅうでもするようにじわじわとハイヤーの方に近づいていった。途中からハイヤーの運転手が、きっと相澤から依頼されているのであろう、私が車に近づきやすいよう、周りのマスコミ連中との間に割り込んできた。おしくらまんじゅうは益々大きくなって、じわりじわりと車に近づいて行った。マスコミの面々も、万が一私に怪我をさせるようなことがあれば大変だということをわかった上で、なんとか私を逃がさないようにしていたが、運転手の手助けが利いたのか、思ったよりも早く車にたどり着くことが出来た。ドアをこじ開けるようにして車に乗り込んで一息ついた私は、よくTVのニュースで議員とかがもみくちゃにされながら車に乗り込むシーンを思い起こしていた。議員がもみくちゃにされる場合は大抵何か怪しいことがあった時であり、今まではなんてことなく見ていたが、これからはそういうシーンを見ると同情するんだろうか、などと呑気な事を考えていたのである。いつの間に乗り込んだのか、運転手が車を走らせ始めた。

「K出版の相澤様から社の方にお連れするよう依頼されてますが向かってよろしいでしょうか。」

丁寧な言葉遣いで運転手が聞いてきた。後ろを振り返るとマスコミの何人かがバイクに乗って追いかけてくるのが見えた。

「彼らをまくことなんて出来ますか?」
「うーん、どうですかねぇ。少し無茶な運転をして構わないのであれば出来るかもしれませんが、相手はバイクですからねぇ。ちょっと難しいかもしれませんね。」
「そうですか。それじゃあ、どこか途中の駅で降ろしてもらえますか。出来ればJRの駅が良いな。」

JRであればSUIKAを持っているので、切符を買わずにすぐに改札を通り抜けることが出来る。ん、まてよ、この辺だと電車の本数も少ないし、改札を抜けても電車を待ってる間にすぐに追いつかれる可能性もあるな。

「あ、やっぱり都内まで行ってください。で、どこかのターミナル、そうだな、東京駅に行ってもらえますか。そこなら人込みで振り切れるでしょう。」
「わかりました。それでは東京駅に向かいます。もし出来るようなら振り切ってみます。」

もう一度振り向くと、2台のバイクがぴったりとついて来るのが見えた。やれやれ、なんだってこんなにしつこいんだ。他にもニュースはいっぱいあるだろうに。

「あまり無理しないで下さいね。万が一、彼らが事故でも起こしたら夢見も悪いし。」
「わかりました。普通に走っていくことにします。」

いつの間にか京葉道路の入り口に近づいていた。京葉道路でハイヤーがバイクを振り切るのは、素人目に見ても難しいと思われる。やはり東京駅の人込みで巻くことを考えておいた方が無難であろう。


 東京駅の八重洲口でハイヤーから降りると、案の定、バイクが2台ついて来ていた。途中、後ろを振り返ることも無かったが、土曜日のこの時間帯ではそうそう無茶な運転が出来るはずもなく、ハイヤーの運転手も振り切ることははなからあきらめた、というよりも、いつも通りの安全運転に徹していたようであった。バイクの後ろに乗っていた記者らしき人間がこちらに近づいてこようとしたのが見えたので、慌てて地下街への階段を急いだ。すぐに駅に入ることも考えたが、東京駅の地下街にはしょっちゅう来ており、大体の構造を把握していたので、もし彼らがついてくるようであれば、巻くのには駅構内よりも地下街の方が楽だろうと思ったのである。階段を降りきってひとつ目の角に来たところで振り向いてみたが、意に反して彼らが追ってくる気配は無かった。どこでどうやって巻いてやろうかと考えていた私は、不意にはしごを外されたような、意外感を感じた。しばらくその場で階段を降りてくる人々を眺めていたが、やはり彼らは追うのをあきらめたらしい。まあ、確かに私みたいな人間をいつまで追ったところで大した記事になるわけでもなし、当たり前と言えば当たり前の行動であろう。しかし、“それならバイクで追っかけるなんて事をしなきゃ良いんだよな。そうすればK出版までハイヤーで楽に行けたものを。。。”誰に言うとも無くつぶやいてから、駅に向かう階段を昇り始めた。早く相澤に会って今夜の段取りをしなくてはいけないことを思い出したのである。


 中央線で御茶ノ水駅まで向かう途中、駅からK出版までの道程を知らないことに気づいた。大手の会社なのですぐにわかるだろうと高をくくっていたが、いざ駅に着いてみるとどっちに行っていいのやら、見当もつかない有様であった。しかたなく相澤に電話をして、ようやっとK出版の本社ビルにたどり着くことが出来た。マスコミの相手やらなんやらで、いつの間にか授賞式までの時間も残りわずかになっていた。相澤は時間を惜しむかのように挨拶もそこそこに済ませ、会議室と思われる部屋に私を連れて行った。そこにあったホワイトボードには既にいろいろなことが書き込まれており、「謝罪:相澤」とか「ペンネームで応募した経緯:I」といった言葉が散乱していた。

「Iさん、授賞式までの時間も余りありませんので、一応私が考えたシナリオを簡単に説明しますね。」

部屋にいた大田原が私に向けて軽く手を挙げ、挨拶を交わしてきた。軽く礼をしてから近くにあった椅子に腰掛け、ホワイトボードを端から順番に、今度は一字一句を丁寧に読んでいった。その動作に被せるように相澤が説明を始めた。

「授賞式では、まず最初に受賞者への授与がありますが、これは事務局で進行する予定です。その際に、事務局からIさんの氏名が公表されます。そして、賞の授与が終わってから記者会見に移るのですが、ここで私から昨夜の記者会見で氏素性に関する質問を制限したことに対するお詫びをします。謝罪の内容は、次のように考えています。ひとつは、昨夜の時点では氏素性の発表に関してK出版と事務局との間で認識が異なっており、発表を控えさせてもらった。これはひとえに私の勘違いであり、事務局には受賞の発表までに公表する旨を伝えていたが、発表とは今日の授賞式のことだと思っていた、とする点。ふたつめは、受賞した旨を私からIさんに伝えたものの、Iさんは夕方の騒ぎが予想以上に大きかったこともあり、なんとか公表をもう一日延ばしたいと思い、私が先の理由とあわせて問題無しと判断した、というものです。」

大田原が腕を組んだまま

「うーん、やっぱり少し弱くないか?夕べの相澤の態度はかなりきつかったからなぁ。会見中止までちらつかせていたし。その理由がその程度だと心象が悪くならないか?」
「確かにちょっと弱いような気もするのですが、いずれにせよ、昨日の今日ですから、どんな御大層な理由を並べてもあまり変わらないんじゃないかと。それならいっそのこと軽く流していけないかと思っているのですが、やはり厳しいですかね。」
「流し切れればいいが、途中で引っかかると、その後、収拾つけるのが大変なんじゃないか?その後の記者達の出方に影響されても嫌だし。」
「しかし、本音を言うわけにもいきませんし。かといって他に適当な理由も見当たらないですからねぇ。私はどうにか出来ると思いますが、Iさん、如何です?」

きっと二人でさんざん議論したのであろう、「謝罪」という文字の周りには「本音」とか「認識の相違」とかいった文字が並んでいた。

「その件だけでなく、いろいろと追求されるとうまく答える自信はないですね。夕べはたまたまうまくいきましたけど、後から考えると、よくもまあ辻褄の合うように話したものだ、と自分自信に驚いたくらいですから。」
「Iさんの昨日の受け答えはばっちりでしたから、自信を持っていいですよ。ね、編集長。」

相澤にせっつかれた大田原は相澤の真意を図るようにひと睨みしたあとこちらに向きながら

「ええ、Iさんの受け答えはまるで本人そのものだったので誰も疑っていないと思いますよ。今後もマスコミとはいろいろなところでやり取りするでしょうが、昨日の要領でやってもらえば問題ないでしょう。」

その言葉を“待ってました”とばかりに相澤が言葉を継いだ。

「そうですよ、Iさんは自信を持って、『某氏』になりきってください。謝罪の件は私がきっちりと押さえますから安心していてくださいよ。お二人の危惧もわからないではありませんが、私も伊達にK出版の編集者をやってるわけではありませんし、大丈夫ですよ。ですから、Iさん、編集長、この線で行きましょう!!」

勢い込んで言うとホワイトボードの「謝罪」と書かれている個所を赤字で二度三度と丸で囲った。大田原と私が顔を見合わせ思案しているのもお構い無しに相澤は先を続けた。

「さて、次に『某氏』というペンネームを使った理由ですが、これは昨日の記者会見で答えていますから、今更変更する必要はないですね。内容はIさんがご自身の言葉で話されてますから大丈夫ですね?」

念のために聞くぞ、といった顔をこちらに向けてきた。

「ええ、多分大丈夫だと思います。作品の主人公をイメージしたペンネームを最初から使いたかった、といった感じでしたよね。」

相澤が大きく頷いた。

「ばっちりですね。あとは、私、というかK出版が代理になって応募した経緯を決めておきましょうか。」

完全に相澤のペースで話が進んでいた。大田原も主張したくなったのか

「そこはさっき話した感じで良いんじゃないか。」

言いながらホワイトボードの「代理」と書かれた個所を指差していた。ホワイトボードには「飛び込み」とか「事実通り」とかいった単語が並んでいた。

「そうですね、私もそれで良いと思いますよ。Iさん、昨日、記者会見の前にこれまでの経緯を話しましたが、内容を憶えてますか?私のところにいきなり電話をかけてきて、“本を読んでくれ”と言ってきたところからですが。」

夕べ話を聞いた時は、やや興奮状態だったので話を聞き逃しているかもしれない。そう思った私は、昨日の説明を簡単に反芻してみた。

「確か『某氏』が突然電話をしてきて原稿を読んでくれるよう依頼してきたんですよね。そして、内容が素晴らしいことを告げたら今度は相澤さんに代理で応募することを依頼した。しかも素性を明かさずに『某氏』というペンネームで応募して欲しい、と。」
「大体大丈夫ですね。少し気になるのは、“素性を明かしていない”点ですが、ここは最初から素性は明かしていたことにした方が良いと思うのですが、如何でしょう。」

確かに素性も明かさず応募したとなると、その理由も考えなくてはいけない。彼が何故素性を明かそうとしなかったのかは今でもわからないわけで、その理由を考えることは、却って弱点を作ってしまうようなものかもしれない。

「そうですね、素性を明かさなかったとなると何らかの理由を考えないといけないですし、却って面倒かもしれませんね。素性は最初から明かしていたことにした方が良いと思います。」
「わかりました。それではこうしましょう。芥木賞の応募締め切りも迫ったある日、Iさんが作品を読んで欲しいとK出版に電話してきた。作品を読んだ私が、その出来に感動し、是非とも芥木賞に応募すべきだと提案をした。ところがIさんは初の作品で自信も無く、尻込みしていた。そこを無理やり私が押し切って応募することになった。Iさんはこの作品を発表することがあったら是非ともペンネームを使いたいと考えていた。そのことを聞いた私が、それならなるべく素性がわからないよう、私が代理で応募してはどうかと提案した。Iさんはサラリーマンとしての仕事もあり、それは助かると言うことで依頼した。こんな感じでどうですか?」

頭の中で簡単にイメージ出来たので、

「そうですね、それなら違和感もないし、大丈夫じゃないでしょうか。」

相澤が大田原の方を向き、

「編集長、こんな感じでどうですか。他に気になる点とかありますか?」

と聞いた。大田原は相澤と私を見て

「そうだな、Iさんも大体イメージが出来たようだし、そんな感じで良いんじゃないか。」

ほっとしたように言った。

「あとは、何故IさんがK出版を選んだのか、とか、『流布』という作品に対する思い入れとかイメージ、また、書くことになったきっかけとかを聞かれると思いますが、その辺りはIさん、あなたが思ったままに答えていけば良いでしょう。とにかく、ここまで来たからかにはIさんが『某氏』に成りきることが大事だと思いますよ。」

大田原の言葉で自分が他人に成り代わるのだということを改めて思い出した。私が『某氏』と間違えられていることを明確に知ってからまだ一日も経っていない。にも関わらず、私は知らず知らずのうちに自分が『某氏』であるような錯覚に陥っていた。夕べ相澤からお願いされた時には身の危険を感じ断っていたはずなのに、今では“『流布』を書かれた方ですね”とでも聞かれれば“ええ、そうです。”と何のためらいも無く答えるだろう。ほんの十数時間で私の何が変わったのであろう?とても不思議な気分であった。


 「昨日の会見では作品の中身を誰も知らなかったので気にしませんでしたが、今後は作品の中身についてもいろいろ聞かれますね。」

相澤が思案顔で言った。

「もしかすると今日の授賞式でもその辺りまで言及される可能性もありますよね。Iさん、昨日渡した原稿ですが、どのくらい頭に入ってます?」

昨日、会見が終わった後、相澤から原稿のコピーを受け取っていた。彼らが帰った後、妻が来るまでの間と寝る前、そして今日も時間を見つけては原稿に目を通していたが、ざっと一読するのが精一杯で、登場人物の氏名等、全てのキーワードや細かい表現とかについては、受け答えするためには、ちと心もとない感じがした。もう少し読み返さないといけないのかもしれない。そのことを相澤に伝えたところ、

「うーん、そうですよね。夕べの今日で細かいところまでは難しいですよね。記者達にはまだ公開されていないので今日のところは大丈夫だと思いますが、事務局の方で行うインタビューはちょっと気になりますね。作品の評価が高いだけに、選考委員の皆さんもいろいろと聞きたいことがあるでしょうし。ちょっと困りましたね。」

そう言いながら、助けを求めるように大田原の方を向いた。ここで振られるとは思っていなかったのか、びっくりした様子を隠すように咳払いをしてから大田原が

「こればかりはもうIさんに委ねるしかないだろう。幸いなことに原稿は一読されたようだし、まるっきり見当違いな答えになることもないんじゃないか。仮に多少危なっかしいやり取りになっても、それはIさんのキャラクターだと思わせてしまうとか、緊張のせいにしてしまえば今日のところは乗り切れると思うが、どうかな。当然、相澤君も機を見て割り込むとかして助けてくれよな。」
「ええ、それはもちろん。会見中は十二分に注意しますから安心してください。」
「意外と先入観があまりない今の状態が良い結果をもたらすかもしれないしな。Iさん、ここはひとつ、どんと構えていってください。」

正直なところ、この時、作品の中身についてはあまり気にしていなかった。作品の持ち主に成ったつもりではいたが、それはあくまでも『某氏』というペンネームが自分の物である、という一点だけであり、作品の機微、登場人物の性格や思考論理等を生み出した過程や思いまでを見に付けなければいけないことに気づいていなかったのである。

「ここまで来ると、もうどうにでもなれ!って感じですね。わかりました。腹を括ることにします。」

口をついて出た言葉に少し驚いた。自分はどちらかというと小心者であり、こんな風に肝が据わっているタイプではない。どちらかというと物事を否定的に考える性質であり、このような場合、すぐに悪い結果を想像しがちだったからである。ところが今回はプレッシャーを受けるでもなく、平常心で構えていられる。そんな私の雰囲気が伝わったのか、二人もほっとした表情を見せ、ようやっとひと心地ついたようであった。時計を見ると授賞式まで1時間ほどしか残っていなかった。


 K出版から授賞式会場である山の上ホテルまでは歩いて15分もあれば行ける距離であった。余裕を見て16時を15分程まわったところで3人はタクシーに乗って山の上ホテルに向かった。いよいよということで3人とも緊張していたのか、車の中ではほとんど会話もせず、ほんの5分程の道程を過ごした。ホテルに入ると会場は既に設営を終え、関係者が会場のあちこちで挨拶やら世間話を交わしていた。会場に入るまでは気楽な気分でいたが、いざ会場に一歩足を踏み入れた途端、緊張の度合いが一気に高くなるのを感じた。入り口で大田原が顔見知りなのであろう、作家らしき人物と挨拶を交わしていた時、こちらに近づいてくるやや長身の男性が目に入った。緊張感が益々高まっていった。

第7章 受賞会見

記者会見は同じ帝都ホテルで行われた。まず最初に相澤がマイクの前に立ち会見を始める旨を告げた。

「それではこれより『某氏』の芥木賞受賞に関する会見を始めさせていただきますが、始める前にいくつか注意点がございますのでお知らせします。ひとつめですが、『某氏』の素性に関する質問は一切ご遠慮願います。」

会場がざわつくのを無視して相澤が続けた。

「『某氏』は今回の芥木賞にはペンネームで応募しており、そのことについては事務局側も認めております。今回の会見に先立って本人とその辺りの話をしたところ、素性に関しては一切話したくないとのこでした。ですから、本日の会見で素性に関する質問はご遠慮願います。もし、その手の質問が出されるようですと会見を中止せざるをえないことになる可能性もございますので、何分ご理解の上、ご協力の程、よろしくお願いいたします。」

慇懃に相澤が頭を下げると会場から質問があがった。

「世間は今回の芥木賞を圧倒的な評価で受賞した『某氏』が誰なのかを知りたがっています。まことしやかな噂も流れ、先程、その噂の渦中にある人を前にあなたはこの会見開催を宣言しました。ということは噂は真実だということなのではないですか?」

本人が未だ会見場に現れていないにも関わらず、既に会場は熱気で埋まっていた。相澤は冷静に、予想した質問への回答を披露した。

「先程、私はこの会見を開くことをお話しましたが、誰が『某氏』であるとは一言も発していません。お答えできるのは以上です。もし、これ以上、『某氏』の素性に関する質問をされるというのであれば、残念ですが会見は中止せざるを得ないのですが、如何致しますか?」

会場は一瞬静まった後、

「横暴だ!それじゃ詐欺じゃないか。あの状況でああいった説明をすれば、誰でもI氏が『某氏』だと思うのが普通でしょうが。それをただ一言“そんなことは言ってない、後は知らない”、これでは話にもならない。我々を馬鹿にしてるんですか?本人を出してください!」

確かにその通りである。しかし、相澤はそんなことは百も承知で敢えてそらっとぼけていた。ここでIさんが『某氏』でございと名乗るのは簡単だが、ここまで世間の注目を浴びている今の状況を利用しない手は無い。これまでの経緯を考えれば、K社から単行本として出版することになるのはまず間違いない。出版する時に世間が注目している“『某氏』は誰か?”ということをコマーシャルに使えば、売上は一層増えることが予想できる。

「先程もお話したように、『某氏』はペンネームであり、本人が素性を公表したがっていないのです。当然のことですが、応募の条件でもペンネームの使用は認められています。というわけで素性に関する質問は一切ご遠慮願いたい。私から言えるのはこれだけです。どうしましょう、皆さんがどうしても素性に関して質問したいとなると、代理人としてこの場に本人を呼ぶことは出来ないのですが。」
「明日の授賞式はどうなるんですか?」

場の雰囲気にはそぐわない、割と冷静な声で質問があがった。

「本日の会見と同じで、素性がわからないよう工夫をしたいと本人は希望しています。」

集まった記者やレポーターは口々に何か話していたが、ここで記事を拾わないことには彼らも仕事にならないため、最後は相澤の策略を受け入れざるを得なかった。

「それではこれより会見を始めさせていただきます。ミスター『某氏』よろしくお願いいたします。」

大田原と共に衝立の陰から様子を伺っていたが、会場の雰囲気は異様で、本当にばれないのか、すごく不安になってきた。出来ることなら逃げ出したい気分だったが、今更後に引くことが出来ないのは明白で、なんとか会場の興奮が早く治まってくれるよう、ただそれだけを祈るしかなかった。相澤と記者団のやり取りがしばらく続き、どうやら相澤が寄り切った形で場が収まると、いよいよ私の出番になった。学会の会合とかで人前で話したことはあるが、マスコミの前で話すのは生まれて初めてなわけで、とりあえず相澤と大田原に教わったことを頭の中で繰り返しながら会見場に入っていった。白いクロスのかかった長細いテーブルの前に立つと、テレビや映画の1シーンのように、一斉にフラッシュがたかれ、“カシャカシャカシャ“という音が会場内に鳴り響いた。相澤が目で”落ち着け“と言いながら椅子に座るよう促してくれなければ、私はきっといつまでも立ち尽くしていたに違いない。椅子に座ると最前列にいたちんちくりんなおばさんが、鼻息も荒くマイクを突き出すようにしながら問いかけてきた。

「この度は芥木賞受賞おめでとうございます。まず、今のご心境をお聞かせ願えないでしょうか。」

予想していたよりも割と丁寧に聞いてきたことに少し安心し、相澤らに教えれられた通りの回答をした。

「まさか受賞できるなんて思っていませんでしたので、大変光栄です。」

声が少し上ずっているのがわかる。

「今回の応募では少し変わったペンネームを使われましたが、『某氏』というネームはどういったところから付けられたのですか。」

相澤が事前にかなりきつく制限したせいか、なんとかぎりぎりの線まで聞きだしてやろうという意図が見え隠れする質問であったが、これも相澤らの想定に入っていたため、教えられた通りの回答で済ますことが出来た。

「今回の作品で中心となる人物は、最後まで実体を表しません。作品上、実際に存在するかどうかも曖昧なままストーリーが展開されます。言ってみれば”名無しの権兵衛“といったとこでしょうか。私はこの作品を書き出した当初から、なんとなくですが、誰かに読んでもらう機会があったら本名ではなくペンネームでいこうと考えていました。そして書き進むうちに、この主人公を表すようなペンネームがないだろうかと考えるようになりました。そんな時、たまたま読んだ雑誌でこの言葉が使われていました。作品を読んでいただければわかっていただけるのではないかと思いますが、私から見ると、まさにぴったりだな、と感じたものですから、そのままペンネームとして応募させてもらいました。」
「そうするとあなたはこの作品に登場する人物だ、と?」
「いえいえ、そんなわけではありません。今回書いた作品は私としてはかなり力を込めて作ったものです。まさか受賞するとは思っていませんでしたが、そういう思いを込めた作品でしたので、なんとか作品に関係するペンネームを使えたら良いな、と思っていたのです。」
「世間であれほど注目されていたのに、それでも受賞できないと思っていたのですか。」
「ええ、皆さんには失礼かもしれませんが、これまでの騒ぎも大袈裟に報道されているだけだろうと思っていたぐらいですから。」

この点についてはある程度、私自身の回答である。しかし、一体誰がこんな噂を流したのだろう?意外なほど冷静に受け答えをしながらそんなことを考えていた。すると横の方から次の質問が出た。

「今回の作品は『某氏』というペンネームとの事ですが、次回作以降も同じペンネームを使われるのでしょうか。」

この質問は相澤達も想定していなかった。しかし、いつの間にか本当に自分が『流布』を書いたつもりになっていた私は、驚くでもなく、しばらく考えた後、

「うーん、そうですねぇ、今は何とも言えませんね。先程も言いましたが、今回ペンネームを使用した理由はあまりはっきりしていません。ただ、作品の主人公を意識したペンネームであることだけは確かです。今後、作品を書くかどうかも今は定かではありませんが、仮に書いたとしても、その作品のイメージがどうなるか、やはり書いてみないと何とも言えませんね。すみません、曖昧な答えになってしまって。」

その後も無難に受け答えをしていると、相澤が横から割り込むように

「皆さん、そろそろ予定の時間ですので、本日の会見はこれで終了とさせていただきます。正式には明日の授賞式で芥木賞受賞者としての会見が行われる予定ですので、よろしければ授賞式会場の方にお越し願えればと思います。本日はありがとうございました。」

私は立ち上がり軽く礼をして衝立の裏に回った。立ち上がった瞬間、フラッシュが一斉に焚かれ、得も言われぬ感覚が体の中を走り抜けるのを感じた。

相澤が横に付き添いながら一緒に衝立の裏に回ると、

「お疲れ様でした。明日の授賞式に関して2、3確認したいことがありますので、とりあえず部屋の方に戻りましょうか。」

周りにホテル関係者がいることもあり、“まだ気を抜くな!”という目つきで、慎重に言葉を選びながら話し掛けてきた。大田原も近づいてきて、3人一緒に部屋に戻ると、相澤が開口一番、

「あぁ、緊張した!いつ変な質問が来るか、いつIさんが受け答えに詰まるか、もう、ひやひやもんでしたよ!!」

大田原が受けて

「ああ、本当、こんな思いは出来ればあまりしたくないな。とはいえ、Iさん、うまく答えましたね。まるで本当に『流布』を書いた本人のようでしたよ。」
「そうそう、次回作以降のペンネームの質問なんて、思わず編集長と顔を見合わせてしまいましたけど、とても自然に答えていましたからね。」

フラッシュを受けたときの感覚がまだ少し残っているのか、少しテンションが高いのを感じつつ

「自分でも不思議なのですが、受け答えしているうちに、なんだか、自分が書いたような気になってしまって。何とも変な感じでしたよ。このところずーっと噂の相手をしていたせいだからなのですかね。いつの間にか『某氏』と思われることに抵抗を覚えなくなってしまっていたようです。」
「まあ、理由は何にせよ、とりあえず上手く乗り切れてよかったですよ。この調子で明日の授賞式を乗り切れば、後はそれほど心配しなくても大丈夫でしょう。」
「明日の話をする前に、せっかくですからシャンパンでも頼んで乾杯しませんか。」

大田原は言うなり電話でフロントを呼び出していた。3人とも一段楽したことで気が抜けたのか、シャンパンが運ばれてくるまでの間、会話をするでもなく、ぼーっとするだけであった。如何にも高級そうなシャンパンが運ばれてくると、大田原が器用に栓を開け、丹念に磨き込まれたグラスに煌びやかな液体を流し込んだ。シャンパンなど結婚式の披露宴で飲むくらいしか知らない私には、それがどの程度の値打ちなのかはわからなかったが、気分の高揚感も相まって、今まで飲んだうちのどれよりも美味しい、最高のシャンパンであった。酒は弱いのか、相澤が目元をうっすらと赤くしながら

「芥木賞作家『某氏』の誕生ですね。受賞、おめでとうございます!」

高らかにグラスを掲げ、再度、3人で乾杯をした。

8月は久し振りのブルームーン。
ゴルフに行くため早起きしたら、目の前に何とも素敵な光景が・・・。
むーん・・・ 

ブルームーンを見ることが出来ると良いことがあるそうです。

皆さんにおすそ分け・・・。(^o^)

この時、海の上には大きな入道雲がもっくもく・・・。
龍 

これはこれですごかった!!(^o^)

第6章 権利放棄

 嫌な雰囲気の沈黙を破ったのは相澤の携帯であった。沈黙を引き裂くように着メロが鳴りつづけ、10秒ほどしてからようやっと相澤が電話口に出た。

「はい、相澤です。えっ、変な電話?ええ、あ、それならこの携帯にかけるよう伝えてもらえませんか。えぇ、一緒です。はい、すみませんがよろしくお願いします。」

電話を切ると

「たった今、『某氏』らしき人から電話があったそうです。氏名も名乗らず、急いで私に連絡を取りたいと言ってたそうですから、多分彼でしょう。この携帯にかけるよう伝えてもらいましたのでもうじきかかってくるでしょう。」
「今頃になってどういうことなんだ?」

大田原が探るような目で相澤に聞いた。

「わかりません。確か彼の望みは“自分の作品がどう評価されるのか”、それだけを知りたいということだったはずです。無事受賞が決まったことで、欲が出てきたんでしょうか。」
「それは十分に考えられるな。マスコミでの前評判も圧倒的な優位を伝えていたし、評価という点では十分すぎるほどされたから、気持ちが変わったのかも知れん。」

大田原が答えると同時に相澤の携帯が再び鳴った。今度は素早く電話口に出た相澤が

「もしもし、相澤です。ええ、お待ちしておりました。」

と挨拶もせず、性急にどなった。しばらく会話を交わすうちに冷静さを取り戻した相澤が電話を切った。会話の途中で聞こえて来た内容でおおよその察しはついてはいたが、とにかく相澤の説明を聞く事にした。相澤は、私と大田原を交互に見ながら説明を始めた。

「聞こえていたのである程度はわかっていただけてると思いますが、念のため説明します。結論から言うと、彼はどうしても表舞台に出るわけにはいかないそうです。理由はとうとう最後まで言いませんでしたが、氏名を明かすことも、連絡先を教えることも出来ないそうです。無事受賞したことは先程流れたニュース速報を伝え聞いたとかで知っていました。知った上で賞を辞退したいと言ってきました。本当はもう少し前に応募を取り消そうと考えていたそうです。」
「応募を取り消す?どいうことだ?」

大田原が不思議そうに聞いた。

「理由は二つあったそうです。ひとつは一次選考でかなり高い評価を得たことに満足した。もうひとつは、マスコミがここまで騒ぐと、いつ、自分のところに触手が近づいて来ないとも限らないので、これ以上騒ぎが大きくならないうちに取り消そうと考えたそうです。まあ、下馬評では受賞確実でしたからね、その辺りを見越して取り消したかったのかもしれません。」
「しかし、なんだって辞退なんだ?芥木賞を受賞したんだぞ、これで一流作家の仲間入りじゃないか。芥木賞作品ともなれば数十万部は軽く売れる。上手くいけば100万部も夢じゃない。そうしたら印税だってばかにならない額だ。それだけじゃない、今後の作品展開もかなり有利になる。それを辞退するなんて、常識では考えられない。」

今度は大田原が興奮気味に話した。

「そうなんです。その辺りについては私からも確認したのですが、そういったメリットを理解した上でそれらの権利を放棄したい、と言ってきました。」
「なんてことだ、せっかくの素晴らしい作品なのに。この作品は発表されずに終わるのか。」

うなだれる大田原に相澤が

「その点についても話してみました。この作品は既に高い評価をされており、芥木賞を受賞した以上、文芸誌に掲載されます。そのことは応募した際に決まっていたことです。この点については彼も了承していましたが、辞退できないのであればゴーストライターのような身代わりを立ててもらえないか、とお願いされてしまいました。」
「ゴーストライター?権利を放棄するんじゃないのか?」
「彼が言うには、今のようにマスコミが騒いでいると、いつ彼のことを嗅ぎ付けないとも限らず大変心配なんだそうです。で、『流布』の作者、すなわち『某氏』なるペンネームを持つ人物をマスコミの前に登場させてくれないか、と言ってました。身代わりさえ立ててくれれば『流布』の著作権、芥木賞の権利、すべてをその人物に与えてもらって構わないそうです。ただし、彼のことを一切詮索しないことが絶対の条件だとも言ってましたが。」

大田原と私は顔を見合わせたが、お互い、なんと言って良いのかわからず再び相澤の方に顔を向けなおした。

「とりあえず検討してみるので、1時間後にもう一度かけてくれるようお願いしましたので、すぐに対策を考えないといけません。というわけで、Iさん!彼の身代わりになってくれませんか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。少し冷静になりましょう。何度も言うように私は小説なんてこれっぽっちもわからないし、彼から『流布』に関する権利をもらう理由もありませんよ。そもそも、本当に彼はすべての権利を放棄すると言ったのですか?」

冷静になろうと努めたが、とんでもない展開に頭がなかなかついていかなかった。大田原もやはりこの展開についていけてないようで、腕組みをしたまま下を向き、ぶつぶつと何事かをつぶやいていた。相澤はそんなことはお構いなしといった感じで

「Iさん、彼は本当にすべての権利を放棄すると言ったのです。ですから、あなたがマスコミの前で“『流布』の作者です。“と言ってしまえば済むのです。本の出版交渉もあなたの意思で行えるし、印税もあなたが受取人になれば良いのです。お願いします!やります、と言ってください!!」

ソファに座ったまま、頭をひざに付けるようにしてお願いされたが、さすがに「はい、わかりました。」とは言えなかった。

 しばらく黙っていると、大田原が顔をあげ

「Iさん、やりましょう。」

とすがすがしい笑顔とともに言った。

「今回のようなケースは長くこの業界で過ごしてきた私でも経験したことがありません。かなりレアなケースであり、実際どう判断して良いのか悩むところです。仮にIさんが『流布』の作者として今後の対応を行うとして、想定される問題は何か?多分、この点がポイントだと思うんですよ。」

伊達に大手出版社で編集長をやっているのではない、と思わせる彼の話し振りは、相澤とは違って論理的に、かつ、抜けが生じないよう慎重なものであった。きっと相澤のように突っ走っていくタイプが編集者には多くいて、しょっちゅう彼らの手綱を引いていなければいけないのだろう。その落ち着いた語り口でこちらも少し冷静さを取り戻すことが出来た。

「作品に関する権利と言うと、まずは”芥木賞の受賞者になる“ということです。あとは、多分出版することになりますから、そこで生じる”印税の受領者になる“ということがあります。また、芥木賞受賞者と言うことで対談やらTV出演、ひいては執筆依頼など、いろいろと出てきますが、これらは”賞“に付随すると考えても良いでしょう。そうするとこの二点で想定される問題を考えれば良いことになる。」

冷静になってくると、なんてことはない、至極当たり前の事をもったいぶって話しているに過ぎないことに気づいた。

「で、どうなんです。問題あるんですか?無いんですか?」

いらいらしながら聞いていた相澤が辛抱し切れず大田原に食ってかかった。

「まあ、あわてるな。」

自信ありげに答え、軽い笑みを浮かべつつ先を続けた。

「さっきは二つの点を挙げました。しかし、よくよく考えれば両方とも”誰が作者か?“という点が一番の争点になるはずです。ということは、先程電話してきた彼が、後になって自分が作者であることを主張し、それが認められると大変困ったことになる。では、彼が後日主張したとして、それが認められるか?仮に主張するとしたら何を以って作者であることを証明するのか?Iさん、何だと思います?」
「うーん、なんでしょう。門外漢なのでちょっと想像しにくいですね。」
「そうですね、本の著作権を証明することは大変難しいことです。ましてや芥木賞受賞作ともなれば、その困難さはより厳しいものになります。そんな中で彼が著作権を認めさせようと考えたらもう原稿以外ないのではないでしょうか。先日送られてきた原稿は最近にしてはめずらしく手書きのものでした。送られてきた原稿はコピーでした。ということは、彼の手元にはまだ書き下ろした原稿があるはずです。それを公表して自分が作者だと主張するというのは十分考えられます。」
「そうなると私は罪になってしまうのではないですか?となると、やはり成り代わる事は出来ませんね。」
「まあ、慌てないで。仮に彼が自分の原稿を公表して主張したとしても、それが認められる可能性はほとんどないでしょう。」
「と言うと?」
「彼の原稿は手書きであると先程言いましたよね。ですからそのコピーを直接事務局に送っていたら、彼の筆跡が残ってしまっていた。しかし、彼の原稿を受け取った相澤は、作品の出来に感激し、誤植の無いよう丁寧にチェックしました。その時、彼は確認のため、あと、その後のことも考えていたのでしょう、パソコンを使って自分で原稿を打ち直したのです。当然事務局に提出したのはパソコンから印刷したものです。ですから、今のところ『流布』を書いた作者の筆跡は相澤が持っている原稿のコピーにしか残っていないのです。このコピーが世の中に出て行かない限り、オリジナルの原稿を証拠にしようとしても信憑性に欠けるわけです。」

 3人はしばし互いの顔を見たまま黙していた。沈黙を静かに破ったのは大田原であった。

「まあ、そもそも彼が表に出てくるとはとても思えないですけどね。」

先程までの興奮した口調とは違い落ち着いた声で相澤が続けた。

「Iさん。あなたが心配なさる気持ちはわかります。しかし、彼は電話口ではっきりと『流布』という作品の権利を放棄すると言いましたよ。万が一、彼の立場や環境が変わり、自分が本当の作者だと主張したとしても私が証言しますよ。私は利害だけでこんなことを言ってるのはないのです。この作品を初めて読んだ時、本当に感激しました。長いこと編集者をやってきましたが、ここまで感動できる作品には出会ったことがないくらい素晴らしいものです。こんなに素晴らしい作品がこのまま陽の目を見ずに消えていくのはとてもじゃないがやりきれないのです。時間があれば他の人にお願いすることも出来るでしょうが、あと30分ほどで受賞会見が始まってしまいます。先程マスコミの前で公言しましたから、仮にここで会見が出来ず、しかも、あなた以外の人が作者として登場するとなると、それこそ大混乱になってしまいます。下手をすると作品自体が認められず、出版さえ出来なくなってしまうかもしれません。私はそれだけはなんとしても避けたいのです。お願いします。素晴らしい作品を助けると思って『某氏』になってください。」

深々と頭を下げる相澤を見ながら私は困り果ててしまった。彼の静かな熱意には反論の余地がない。しかし、このまま権利を貰い受け、その恩恵を得た後に、本人が名乗り出てきたら私はどうなってしまうのだろう?大田原はそのことを証明できないと言い、相澤は電話口ではっきりと権利を放棄する旨を聞いたと言う。確かに状況的には問題ないように思われるが、元来気の弱い私には最後の階段を昇り切る踏ん切りがどうしてもつかなかった。その時、相澤の携帯が緊張した空気を突き破るように鳴った。相澤が電話に出て話し始めた。どうやら件の『某氏』が再度連絡してきたらしい。しばらく話した後、送話口を押さえるようにして

「Iさん、本人があなたと話したいと言っています。出てもらえませんか。」

心の準備をする間もなく、電話に出た。電話の向こう側に微かではあるが人の雰囲気を感じた。

「もしもし、Iと申します。」

恐る恐る声を出したところ、落ち着いた、やや年齢が言っていると思われる声が返ってきた。

「初めまして、訳あって名乗ることは出来ませんが『流布』を書いた者です。相澤さんからお話を伺いましたが、マスコミに取り沙汰されていたのはIさんだったそうで、とんでもないご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。本来ならお会いしてお詫びすべきなのでしょうが、誠に申し訳ないのですが直接お会いすることがままならない状況にあります。また、理由をお話することは出来ませんが、『流布』を書いたのが私であることも知られるわけにはまいりません。先程ニュース速報で『流布』が今年の芥木賞を受賞したことを知りました。私にとっては十分すぎる評価です。正直なところ、一次選考をクリアしてくれれば良いと思っていたものですから。そんなわけで、相澤さんには賞を辞退したい旨をお話させていただきましたが、相澤さんはどうしても出版なさりたいと仰っている。私が表に出られないのならIさん、あなたに成り代わってもらってはどうかと仰ってます。私は『流布』或いは『某氏』と私の関係が、今後、一切外部に漏れないのであればあなたの作品として出版していただいても構わないと思っています。」

今日は一体何回驚けば良いのだろう。こんな訳のわからないことを急に言われても普通の感覚だと答えようがないのではないだろうか。しかたなく

「はあ」

と間の抜けた返事をしつつ、頭の中を整理しようとしていた。

「もちろん、著作権もあなたのものとしていただいて結構です。手元にある原稿もあなた宛に送付しましょう。とにかく私にとっては『流布』との関係を一切無くしていただけることが一番なのです。あと、出版していただけると多くの人に読んでもらえるわけで、そんなことは出来ないと考えておりましたので、もしそうなるようでしたら、それこそ至上の喜びになります。」

彼は本当に嬉しそうに最後の言葉を発していた。

「今後のことは私がお願いすることでもありませんのでそろそろ切らせていただきますが、どうされるかはIさん、あなたが決めていただければと思います。今後、二度とお話する機会もないと思います。今回の騒動では本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」

そう言うと電話は静かに切られた。電話を切ると相澤と大田原がこちらを凝視していることに気づいた。

「どうでした?彼は本当に権利を放棄すると言っていませんでしたか?」
「権利を私にあげても良い、出版するかどうかは好きにしてくれ、と言ってました。」

二人のどちらを見るともなしに伝えた。

「出版されて多くの人に読まれたら嬉しい、とも言ってました。」

この言葉を発していた時の彼の表情が浮かんでくるようであった。この言葉を聞いた時、利害とか、罪の意識とか、それらのこととは関係なしに出版する、すなわち自分が『某氏』としてデビューすることを考えていたように思う。どんな理由があるのかはわからないが、素性を明かすことが出来ないにも関わらず芥木賞に応募し、受賞が決まったにもかかわらず辞退しようとしている一人の作家。『流布』の作家であることを広く認めてもらうことよりも、その作品が多くの人に読まれることを喜ぶ彼を、もしかしたら憐憫の気持ちで捉えていたのかもしれない。

「やらせてください。記者会見ではどう答えれば良いですか?」

心配気に見ていた相澤と大田原の表情が晴れやかなものに変わった。相澤は上着の内ポケットから手帳を取り出しながら、

「Iさん、ありがとうございます!これで無事出版することが出来ます。素晴らしい作品の誕生です!!」

と、本当に嬉しそうに言った。