『幸福な王子』 行為と、それに対する報いのありかた | 手当たり次第の本棚

『幸福な王子』 行為と、それに対する報いのありかた

ワイルドの作品として一番有名なのはなんですか。
たとえば文学に関する問題として、こんなのが出題されたとするよね。一般的に、答は、
「サロメ!」
……あたりが妥当じゃないかと思うんだけど、どうかな?
でも、実は、一番良く知られているのはこれだと思うわけです。


 子供の頃に読んだり、読んでもらったりして、これが、かの、「オスカー・ワイルド」の作品であるという事を、憶えていないんだね。

それで、子供の頃に読んだ時は、王子とツバメの善行が、まったく現世では報いられないどころか、ひどい目にあってしまうというのが、納得いかなかったのだ。
そりゃあ、神様は報いてくれるだろう。でも、それにしたって、(現世での)最後に
「みすぼらしくなったから価値がない」
って捨てられちゃうのはどうよ? と。

さて、仏教では「陰徳を積む」という考え方があり、キリスト教では「他人のために命を捨てるほど大きな愛はない」という。
子供の頃に、そういう言葉を聞いて、かっこいい! と思うのは、あとあと大人になってから考えると、かなーり、自己陶酔入っていたと思う。
あるいは、そういうかっこいい事をしたい。というのは、つきつめると、他人に賞賛されたいという気持ちがあるわけだ。

これは、社会的な動物であるところの人間なら、自然な感情だよね(笑)。
他人に認められたいし、とくに、善い行いは、「賞賛される」という事で自分の存在を認めてほしいと思ってしまうんだ。
よく、「母の愛は無私の愛」なんていいますが、なんのなんの。
母親だって、見返りを求める人はたーくさん、いるようです(汗)。

それを、あえて恥じる必要は、ないと思う。
でも、一歩進んで、自分のなした事に報いを求めないという事が、ほんとにできるんだろうか?

私は、池波正太郎が好きなんだけど、池波正太郎はその作品中に、しばしば、
「恩は着せるものではない。着るものだ」
と書いているんだな。これを折に触れて目にして、なんとなく、わかった気がした。こういう気持ちが、極意なんだね。
「情けは人のためならず」ということわざも、ひいては、こういう事を言っているのだろう。
「愛する」とか「善い事をする」のは、自分がそうしたいから。
物語の中のツバメも、そうしたいから、王子のために冬になってもその町にとどまった。
王子も、そうしたいから、自分の宝石や金箔を、施してしまった。
この「そうしたい」という気持ちが、一番大切なんじゃないかな。
その時に「ありがとうと言ってほしい」という気持ちは、なかったはず。
ならば、ああいう結末でも、王子やツバメに悔いはなかったわけだ。

著者: オスカー ワイルド, 富山 太佳夫, 富山 芳子
タイトル: 幸福な王子