『さいごの戦い』 人の心の中のまこと | 手当たり次第の本棚

『さいごの戦い』 人の心の中のまこと

これをもってナルニア国物語は、幕を閉じる。そしておそらく、作者が言いたかった事は、全てこの巻にあらわされているのだろうと思う。
前巻で、ナルニアにまつわる秘密のほとんど全ては解明されているのだけれども、では、「アスランそのひと」は、いったい何者なのか?
実を言うと、私はすでに『朝びらき丸東の海へ』 で解いてしまったし、キリスト教についてある程度知識を持っている人なら、やはりピンと来ただろうと思うのだけれど、
「アスランのもうひとつの名前は、イエス・キリストである」
という事が、ほぼ明らかになるのだ。
(はっきりとそう書かれているわけではないけれど、あとがきを読むと、なお一層、わかります)。
但し、日曜学校で教えられるようなイエス・キリストとは、ちょっと違うと思う。それは、アスランは悪魔であると教えられ、タシという邪神を崇める、カロールメン国の若者エメースの運命によっても、明らか。


どうも、世界史などを見ていて「キリスト教」というと、他の土地へ乗り込んでいって、現地の宗教を破壊し、伝道と称して自分たちの信仰を無理矢理押しつけた、というような悪いイメージがあるのだけれども(笑)。

そうではなくて。
どのような名前の神を崇めていようとも、まことの心をもって、神を求めるならば、それは「真の神」を求めている事に他ならない。
逆に、真の神を崇めているつもりであっても、悪い心があるならば(まことがないならば)、最後に邪神のもとへ行き着くという事だ。
エメースの信仰心について、アスランはそういう風に解説する!

最後に、「まことの心」を持ったものは、人間も、小人も、ものいう動物たちも、皆、真のナルニアへ足を踏み入れる。
ところが、このナルニアも、より真実のナルニアの影に過ぎず、まるでタマネギみたいに、
「もっと奥へ! もっと高く!」
進んで行けばいくほど、更に真の……ていうか、理想のナルニアになっていく(笑)。
これは、ディゴリーこと、カーク教授が、途中でプラトンを引き合いに出すように、まるでイデア論を具現したかのようだけれども、ダンテの『神曲』 にあるように、次第に、「神=真実=光」に近づいていく階層構造のようにも思え、興味深いと思う。
もっと奥へ、もっと高く、旅していくほどに、俗塵がふるいおとされて、物語にはそこまで書かれていないけれども、みんな、光そのものに近くなってしまうんじゃなかろうか。

悪は、滅ぼされる、というより影に飲み込まれてしまうし、単純な勧善懲悪的ラストとはほど遠いけれども、
「ひと(ていうか、いやしくも知性を持つもの)は、まことの心をもって、光をめざさなければならない」
ということが、実感されるラストだと思うのだ。
なんていうか、一種、宗教的ともいえる感動のラストなんだよね。

まあそこまで考えなくても!(笑)
ピーターも、エドマンドも、ルーシィも、それにディゴリーとポリーも、ある意味でナルニアに帰ってくるわけなのだ。
タシも、カロールメンもいなくなり、皆、至福の時へ入る。
善きものは、皆、幸福になる。これだけでも、ちょっと感動ものじゃないか?

いや、やっぱりあのラストは納得できん!
というむきも、あるいは、おられるかもしれないけれども、キリスト教文化では、
「死の門を通って神に至る事」
これが宗教上の大目的であり、たとえば子供が亡くなった場合にも、
「神が幼子を愛して、早いうちにみもとへ引き取られてしまったのだ」
という考え方がある事を知っておくと、もうちょっとわかりやすいかもな。

クリスマスまでいよいよあと一週間。普段よりちょっとばかり、「まことの心」を持てるといいね。

著者: C.S. ルイス, C.S. Lewis, 瀬田 貞二
タイトル: さいごの戦い