【言の葉庵】メールマガジン(まぐまぐ)専用コンテンツ、「日本語ジャングル」。これまで、オフィシャルブログ【言の葉庵】では定期的に発信していませんでした。

今回より、まぐまぐメールマガジン以外でも、言の葉庵各姉妹ブログでご紹介していくこととしました。

 

これまで、日本語に関連する「いろは歌」「五七調」「敬語」「辞世の句」「標準語」「役割語(造語)」などのテーマにて展開してきました。

 

今回は、日本人が昔より教育・啓蒙の指針として好んできた、いわゆる“コツコツ系”のことわざ・故事成語・慣用句にハイライトを当てて、その起源・由来・意味内容などを探っていきたいと思います。

まずは、現代日本から始め、徐々に歴史をさかのぼって、最後は古代中国へとタイムマシンでご案内していきましょう。

 

さて、まず“コツコツ系”成語の定義ですが、条件は2つあります。

一つ目は小さなことをコツコツと努力すること。そして2つ目は、それを長期的に継続すること。この2つが合わさって、はじめて大きな成果へとつながっていくのです。

教育や成長、自己実現はすべてここから始まります。地球や自然などマクロな視点からはSDG’sの実践ともいえるでしょう。

 

 

 

最初は現代日本から。イチロー選手のコツコツ系名言をご紹介します。

 

1.小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道。

(2004年、メジャーリーグ年間安打記録を破った際の記者会見より)

 

誰にも真似のできない偉業を達成した、イチロー選手ならではの説得力に富む名言だと思います。

 

次に、ぼくたちが日常的に耳にする現代の慣用句をいくつか見てみましょう。

 

 

2.塵も積もれば山となる

3.石の上にも三年

4.継続は力なり

 

 

まず疑問に思うのが、コツコツと努力を続けるのが、一体どのくらいの期間か、というもの。それは目指す目標や成果によるのですが、ことわざ、慣用句として「石の上にも三年」が定着していますね。忍耐の限度の目安としたものですが、三年間我慢しても一向に先が見えぬ場合、そこでいったん再考するというのは人間に与えられた人生の残り時間を考えると、「ほどよい」のかもしれません。

 

 

次は、江戸時代末の二宮尊徳の至言です。

 

5.積小為大 (せきしょういだい)

(『報徳記』富田高慶著)巻第一の「小を積めば、則ち大と為る」より。

 

二宮尊徳は金次郎の通称で知られた江戸末期の農政改革家。貧しい農家より身を起こし、少年期に川の氾濫によって、家も田畑もすべて失います。が、ある時捨てられた苗を開墾した荒地に作付けしたところ、秋には一俵の籾を収穫したと伝えます。ここから尊徳の仕法の根幹を為す「積小為大」の思想が生まれました。コツコツと村から村へと農政指導(仕法)を続け、生涯に北関東と東北の廃村600ヵ村を復興再生させたのです。

 

 

次は、中国漢代の故事成語です。

 

6.点滴穿石 (てんてきせんせき)

(『漢書』枚乗伝)

 

(読み下し文)

書の上りて呉王を諌む「太山の霤は石を穿つ」

(しょのたてまつりて、ごおうをいさむ。たいざんのりゅうはいしをうがつ)

 

 

霤は、雨だれ、またはしたたりのことです。

太山は、中国山東省にある標高1,545mの名山「泰山」の異表記。古くから信仰の対象とされ、歴代の皇帝が国家統一を天に報告する「封禅の儀」を行った聖地として知られています。

ぽとりぽとりとしたたる山の水滴が、何十年、何百年とかけて、ついには巨石にも穴を穿つ、という意味。出典は『漢書』枚乗伝です。呉王を家臣が諫めた書からの言葉ですが、これは謀反を企む王を抑止するためのたとえで、小さな悪事もやがて大きな災いを招く、という意味です。他の慣用句や成語とは異なり、小さな積み重ねを否定的に表現したところがこの句の特徴です。

 

 

さて古来、小さいこと、わずかなことの比喩として「毛」という言葉が中国、そして日本で使用されてきました。たとえば「毛ほど」は、文字通り「毛の先ほど」のわずかな量を指します。非常に小さいこと、些細なことを表現する際に用いられました。

 

・使用例

「毛ほども疑わない」:全く疑わない

「毛ほども知らない」:全く知らない

「毛ほども考えていない」:全く考えていない

 

この「毛」は度量衡でも単位として用いられますが、長さでいえば一毛は約0.03mm、重量では一毛が3.75mgに相当します。吹けば飛ぶほどの微細な存在です。

 

自分自身をこの吹けば飛ぶような軽くて、小さな存在として表現したのが、中国前漢の歴史家、『史記』の作者である司馬遷です。その書簡の中で使用した「九牛の一毛」が故事成語として広く知られています。

 

 

 

7.九牛の一毛(きゅうぎゅうのいちもう)

 

(白文)

假令僕伏法受誅 若九牛亡一毛 與螻螘何異 而世又不與能死節者比

 

(読み下し文)

假令僕の法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡なふが若し、螻螘となんぞ異なる。

而して、世も又能く節に死せる者と比さず。

 

(現代語訳)

もしも私が、法に従って罰せられたとしても、多くの牛の中から一本の毛を失ったようなもので、虫けらみたいなものです。結局、世間も節を守って死んだものと比べもしないでしょう。

 

(司馬遷 報任少卿書(『漢書司馬遷伝』『文選』所録)

 

 

司馬遷は、友である李陵を弁護したため武帝の怒りに触れ、宮刑に処されました。当人にとっては死にまさる恥辱だったのですが、世間は些事としか思っていないであろうと自らを突き放して書いたもの。九牛とは多くの牛の意味。一毛とは、その多数の牛の中、一頭の牛の毛一本という意味。ここからわざわざ取り上げる価値や、重要視する必要がないような些事を「九牛の一毛」と言い表したのです。

しかし司馬遷はこの苦難を乗り越え、ついに家の悲願である歴史書、『史記』を成しました。

 

 

 

8.千里の道も一歩から

 

『老子』第64章

 

(白文)

合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。

 

(読み下し文)

合抱(ごうほう)の木も毫末(ごうまつ)より生じ、九層の台も累土(るいど)より起こり、千里の行(こう)も足下(そっか)より始まる。

 

(現代語訳)

一抱えもある大木も毛先ほどの芽から生まれ、大きな建物も土台を盛ることから始め、千里の道のりも足下の一歩から始まる。

 

 

「毫」はもともと毛の意味で、日本の「毛」と同様に非常に小さな単位を表します。長さでいえば一毫は約0.03mm。一毛と同じです。よって前句の毫末は毛先一本ほどの新芽から、巨木が成長する。つまりそれを後句の足下(一歩)と千里とに対比させて、非常に些末なものを積み重ねることで偉大なものが成り立つ、というたとえとなっているのです。

 

 

9. 山の一毛をも毀つ能わ不らん

 

『列子』湯問篇:「愚公山を移す」より

 

列子は、戦国時代(紀元前5世紀 - 紀元前221年)の鄭の道家思想家、列禦寇(れつぎょこう)のこと。その書を『列子』といいます。『漢書』芸文志には列子について、「荘子に先立ち、荘子これを称う」(荘子の前の時代の人で、荘子は列子を称賛した)とあることから、道家では「老子→列子→荘子」という系譜になっています。

 

 

『列子』は『荘子』と同じく、道家の深い真理をわかりやすい民間のたとえ話として構成しており、この「愚公山を移す」の段落も、コツコツ系の代表的な寓話となっています。二つの高山に家をはさまれ、往来をふさがれ困り果てていた90歳の愚かな老人。しかし一念発起し、家族と力を合わせてこれらの山を自分たちで取り除こうとした途方もない逸話です。

まずは、読み下し文と現代語訳にてご案内しましょう。

 

 

(読み下し文)

 

太形、王屋二山は、方七百里、高万仭。本は冀州之南と、河陽之北に在り。北山の愚公なる者、年且(まさ)に九十、山に面し而居る。山北之塞、出入之迂に懲りる也。室を聚め而謀りて曰く、「吾与汝力を畢して険しきを平らげ、指して予南に通じ、漢陰にとどかん。可なる乎」と。雑然として相い許す。其の妻、疑いを献(さしはさん)で曰く、「君之力を以て、曽ち魁父之丘も損つ能わ不らん。太形、王屋の如きは何なるか。且つ、焉んぞ土石を置(す)てん」と。雑(うから)曰く、「諸を渤海之尾、隠土之北に投げん」と。遂に子孫を率いて荷を担える者三夫、石を叩き壌(つち)を墾(ひら)き、箕畚(キホン)もて渤海之尾に運ぶ。隣人の京城氏之孀妻(やもめ)に、遺せる男有り。始めて齓(かけば)なるも、跳びて往きて之を助く。寒暑節(とき)を易え、始めて一たび反りたり。河曲の智叟、笑い而之を止めて曰く、「甚しきかな汝之恵まれ不る。残せる年の余力を以て、曽ち山之一毛をも毀つ能わ不らん。其れ土石の如きや何とせん」と。北山の愚公長く息して曰く、「汝心之固なる、固さる可から不。曽ち孀妻のおさなき子にも若か不。我死に之くと雖も、子の存有り焉(なん)。子又孫を生み、孫又子を生み、子又子有り、子又孫有り、子子孫孫、匱(つ)き窮(きわま)る无き也。而るに山増すを加え不、いかんぞ而て平なら不らんや」と。河曲の智叟、以て応うる亡し。操蛇之神之を聞きて、其の已ま不るを懼るる也、之を帝に告ぐ。帝其の誠に感じ、夸蛾氏(コガシ)の二子に命じて二山を負い、一を朔東にうつし、一を雍南に厝せしむ。此れ自り冀之南、漢之陰、隴(おか)の断(けわし)き无くなりぬ。

 

 

(現代語訳)

 

太行山と王屋山の二つの山は、七百里四方で、高さが一万仭。もとは冀州の南、河陽の北にあった山である。

北山の愚公は当時、九十歳になろうとしていた。太行と王屋、二つの山の南に住んでいたため、険しい山で北側をふさがれ、往来に大きく迂回しなければならないことに悩んでいた。

そこで愚公は一族を集めて、相談したのである。

「みなで力を合わせて山を平らにし、予州の南へと道路をつくる。そして漢水の南岸まで道を通したいと思うが、どうだろう」。

一族はみなもっともだとして、賛成する。しかし、愚公の妻は疑っていう。

「あなたの力では、小さな丘でさえも崩すことはできません。ましてや太行、王屋のような大きな山をどうすることができましょうか。その上、山を崩した土はどこに捨てるのですか」。

みなは、「崩した土は渤海の端や、隠土の北の方に捨てましょう」といった。

 

ついに愚公は、子や孫たちを引き連れ、土や石を運ぶ者三人で、石を打ち砕き、土地を切り開き、箕(み)やもっこを使ってそれらを渤海の端の方へまで運んでいったのだ。

愚公の隣人である京城氏の未亡人に子がいて、ようやく歯が抜け替わるぐらいの年齢になっていた。その子も喜び勇んで手伝ってくれた。冬が過ぎ、夏が去って、みなはいったん家に帰ることにした。

黄河のほとりに住む利口な老人が、あざ笑っていった。

「あんたの愚かさはどうしようもないな。老い先短い身では、山の土1ミリさえ取り除くことはできまい。ましてや、あれらの土石をどうすることができよう」。

愚公は深くため息をついて、

「あんたの頭の固さこそ、なんとしたことか。あの未亡人の幼子にも劣るぞよ。

たとえわしが死んだとしても、子は残る。その子はさらに孫を生み、孫はまた子を生む。

その子にはまた子ができ、子にはまた孫が。と、子子孫孫、尽き果てることはない。

一方、山の方は今後増えることも高くなることもない。どうして平らにならぬことがあろうか」

といった。黄河の利口な老人は、返す言葉もなかった。

 

山の神はこの話を聞き、愚公が山を崩してしまうのではないかと心配し、天帝に報告した。

天帝は愚公の誠に感じ、怪力の神である夸蛾氏の二人の子神に命じて、太行と王屋の二つの山をそれぞれ背負わせて、一つは朔北の東部に移し、もう一つは雍州の南部に移させたという。

こうして、冀州の南から漢水の南側にかけて、険しい山はなくなったのである。

 

(現代語訳 水野聡 2025年12月)

 

 

 

逸話のあらすじ:

物語の主人公の愚公は固有の人名ではなく、愚かな老人の意です。同様に智叟も名前ではなく、賢い老人という類型名です。

山に囲まれた愚公が、邪魔な二つの山を子や孫とともに切り崩そうとある日決心します。それを見た智叟が「お前のような老いぼれに、どうしてこのような大きな山を崩せるものか」と笑う。しかし愚公は「わしが死んでも子があり、子が死んでも孫がいる。子々孫々と代を重ねれば、いつか必ず山は平らになる」と答えました。この愚公の決意を聞いた神(天帝)が彼を哀れに思い、一夜にして山を動かしたという話です。

 

意味の転換:

「山の一毛をも毀つ能わ不らん」は、老人には大山のほんの1ミリさえ崩すことはできまい、と愚公の無力さ否定する意味合いで使われています。しかし、これが子々孫々と時を経て、一毛(わずかなこと)が原因で、大山(大きなもの)さえ崩すことができるという、正反対の教訓的な意味合いを持つ成語へと変化したものと考えられるのです。

まさに「コツコツ系」の信念と誠意が山をも動かした、というのが同話の核心でしょう。

 

道家思想の背景:

コツコツ系と聞けば、ぼくたちは勤勉さを奨励する儒教的な思想を想像するものです。が、「8.千里の道も一歩」は老子、「9. 山の一毛をも毀つ」は列子。ともに道家の思想から生まれた成語です。

 

道家の思想は、「道」や「無為自然」など、人間と宇宙(自然)との合一(調和)を説きます。愚公の物語も、大きな自然(山)とちっぽけな人間の関係を描いたもの。愚公が「子々孫々」と語るように、道家思想には悠久の時間の中で物事が刻々と変化していくという壮大な時間の概念があります。この永遠にも等しい長い時間の中では、たとえ目に見えぬほどの微小な存在であっても、それが代々積み重なり、影響を及ぼすことにより、とてつもなく大きなものへと変化生成していくことが可能です。

 

コツコツと愚公の一族が何十世代にもわたって山を平らにしたのであれば、儒教的な教訓説話となるのですが、『列子』では、天帝と山の神が一夜にして2つの山を移動してしまいます。人間も困るが、崩されてしまっては山も困るからです。古代の神々が直接人間と接する道教的な結末となっており、そこがコツコツ系を生真面目に説教する思想哲学ではなく、民衆に面白おかしく受け入れられてきた老荘哲学の寓話の底力ではないでしょうか。

 

 

 

見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき。平知盛『平家物語 巻第十一内侍所都入』より

 

今回の名言名句は、源平合戦の最終戦、壇ノ浦の戦いで敗れ、入水し最期を遂げた平知盛の末期のことばです。

 

平知盛は、清盛の四男で、その生まれもった資質と才能から、清盛にもっとも愛され、後事を託そうとされた知将であり、影の実力者です。

総大将たる兄、宗盛が凡庸であったため、代わって平家一門を率い、都の防衛から、壇ノ浦での滅亡に至るまで、軍事の中心となって戦いました。

 

壇ノ浦で、安徳天皇と二位の尼の入水により、平氏滅亡を悟った知盛が、「見るべきほどの事は見つ。今は何をか期すべき」のことばを遺し、信頼する乳母兄弟の平家長とともに、入水、自害するのです。

 まずは、知盛入水の段落を、平家物語巻第十一から〈原文〉と〈現代語訳〉にてご紹介します。

 

 

 

〈原文〉

 

新中納言知盛卿は、見るべきほどの事は見つ、今は何をか期すべきとて乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、日比の契約をば違へまじきか、と宣へば、さる事候ふ、とて中納言にも鎧二領着せ奉り我が身も鎧二領着て手に手を取り組み一所に海にぞ入り給ふ。これを見て二十余人の侍共後続いて海にぞ沈みける。されどもその中に越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は何としてかは遁れたりけん其処をもつひに落ちにけり。

海上には赤旗赤標切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田川の紅葉葉を嵐の吹き散らしたるに異ならず。汀に寄する白波は薄紅にぞ成りにける。主もなき空しき舟は潮に引かれ風に任せて何方を指すともなく揺られ行くこそ悲しけれ。

 

 

〈現代語訳〉

 

 新中納言知盛殿は、「見るべきことは、もはやすべて見た。この上何を望もうか」と、乳母兄弟の伊賀平内左衛門家長を呼び寄せた。「これまでの約束に違うまいな」と仰ると「もちろんです」と答える。知盛殿に鎧を二領着せ、自分自身も鎧を二領着て、手に手を取って海にとび入った。これを見て二十余人の侍どもも、跡に続いて海に沈んでいったのだ。しかしそんな中、越中次郎兵衛盛嗣殿、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清、飛騨四郎兵衛・伊藤景高は、どのように逃れ得たのであろうか。そこをもついに落ち延びたのであった。

海上には赤旗・赤印が切り捨て、かなぐり捨てられている。龍田川の紅葉葉を嵐が吹き散らしたがごとくであった。水際に寄せる白波は薄紅に染まっている。主を失ったうつろ舟が、潮に引かれ風に任せて、いずかたをも知らず揺られ漂うさまは悲しい。

(水野聡訳 2025/12/10)

 

 

知盛の「見るべきほどの事」とは、どんなものだったのでしょうか。人が一生の間に見られるもの、経験できること、成し遂げたこと、そして失敗と恥辱の数々。

権勢並ぶべきもののない、平家一門の御曹子として生まれ、栄耀栄華を極めたのが、まさに知盛の前半生でした。そして晩年、といっても享年三十四歳ですが、一転して平氏追討の地獄を見る。都落ちから始まり、敗戦し、逃げ惑う日々。一の谷では一子、知章が父、知盛をかばって討ち死にし、ついに壇ノ浦の平氏滅亡をわが目で見届ける生涯でした。短い一生の間、一般庶民では決して経験のできぬ「見るべきほどの事」を見た。そして「今は何をか期すべき」と船から海中へと身を躍らせるのでした。

 

 

「見るべきほどの事」とは、自分の身の丈に合った、一生で経験できるすべて、という意味です。ぼくも含め、一般の方が「見るべきほどの事」は、知盛のような数奇で波乱万丈な経験ではないかもしれません。ところが、貧しく平凡な農村の一青年が、霊力により、およそ考えられぬほどの成功と出世、栄達を実現してしまう、という物語があります。中国唐代の伝奇小説『枕中記』(作者 沈既済)です。

後世、日本の能〈邯鄲〉の原作となった、不思議な枕の物語。まずは、あらすじをご紹介しましょう。

 

 

〈枕中記 あらすじ〉

 

唐の開元年間、呂翁という道士が、邯鄲(河北省)へ向かう道中、宿屋で休んでいた。そこへみすぼらしい身なりの若者廬生がやってきた。

 廬生は、立身出世を志しながらいつまでも田畑であくせく働いているわが身の不遇を歎いた。ふと廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて、うたた寝をした。すると、枕の中で夢幻の世界が展開する。

 

 廬生は名門の令嬢を娶り、科挙に及第する。官界で出世し、都の長官となり、夷狄の征伐で勲功をたて、栄進して中央の高官に任命された。

 のち、端州(広東省)に左遷されたが、三年後、都に召されて宰相の位に就き、天子をよく輔佐して善政を行った。

 

 その後、讒言に遭い、逆賊として捕えられたが、宦官に擁護されて死罪を免れ、驩州(ベトナム)へ流された。数年後、冤罪が晴れて中央政界に復帰した。

 五人の息子はみな高官に上り、名門豪族と縁組みし、十余人の孫を得た。位人臣を極め、天子から土地や豪邸、美女や名馬を賜った。八十歳を越えて老衰し、臨終に際して上奏文を奉ると、天子から格別のお褒めを賜り、その日の夕方に死去した。

 

 

〈枕中記 最終段〉

 

盧生があくびをして目を覚ますと、我が身は宿屋で横になり、呂翁はそのわきに座っている。店の主人は黍を蒸していたが、まだ蒸し上がっておらず、周りの物すべて元のままだった。盧生はガバッと跳ね起きて、「なんと夢だったのか」と言った。呂翁は盧生に向かって、「君の言う人生の満足というものも、またこんなものだよ」と言った。

 盧生は、しばらくの間、深い感慨に沈んでいた。そして、「寵愛と恥辱の道筋、困窮と栄達の運命、成功と失敗の道理、死と生の実情、すべてわかりました。枕を貸してくれたのは、私の欲望を塞ぐ方法だったのですね。謹んでお教えに従います」とお礼を述べた。そして、恭しく丁寧におじぎをして去って行った。

 

(あらすじ/最終段ともに泉聲悠韻NOTEより)

 

 

盧生が田舎から都へ、成功と栄達を夢見て上る途中立ち寄った宿で、道士から借りた魔法の枕でひと眠り。はっ、と目覚めるとそこは元の宿の部屋です。昼寝の間、炊いていた粟粥もまだ炊きあがっていない。実時間にして30分ほどでしょうか。しかし盧生は、夢の中で五十余年にも及ぶ、波乱に満ちた人生を、まさにその五十年分、リアルに詳細に経験し尽したのでした。

「あれは決して夢などではない。たしかに自分は幾多の困難を乗り越え、ついに栄誉を得て八十余歳で幸せに生涯を終えたのだ」

枕中記のラストで、盧生は「おじぎをして去って行った」とありますが、おそらく元来た道を戻り、ふるさとの農村へと帰っていったのでしょう。望みも夢もすべて叶った今、もはや都へ行く理由などないからです。

 

これが、小説の中ですが、この青年の「見るべきほどの事」です。

 

知盛は実際に、盧生は夢の中で、それぞれ壮絶で数奇な人生をたどりました。

一般庶民であるぼくたちのそれは、平々凡々として、山や谷があったとしても、よりゆるやかなものでしょう。そして、どちらが幸せかと問えば、わからないのです。良い人生、悪い人生などというものはなく、それは他人が勝手に評価したもの。

 

知盛は「見るべきほどの事は見つ」といい、盧生は呂翁に丁寧に礼をして感謝した。

両者ともに、わが人生をすべて受け入れたのです。

人の一生の八十余年は長いようにも思えます。しかし、人類の発祥は二百万年前、宇宙の誕生は百三十億年前。八十年など、くらべれば誤差にもなりません。その儚さは、粟粥の炊きあがりを待つ、短い春の夜の夢のごとしです。

 

 

 

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり

 

娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す

 

奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し

 

猛き者もつひには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

 

 

(平家物語 巻第一 祇園精舎)

自分のためにでなく、人のために生きようとするとき、その人はもはや孤独ではない。日野原重明『いのちの言葉』より

 

 

今回は現代の偉人、日野原重明の名言、

「自分のためにでなく、人のために生きようとするとき、その人はもはや孤独ではない」

をご紹介します。

聖路加国際病院元院長・理事長の日野原重明は、105歳で旅立つまで生涯現役の医師を続けました。

現代医療分野において、人間ドック創設、生活習慣病の提唱、ホスピスの立ち上げ等、その功績は数え切れぬほどです。

質・量とともに、またその期間においても常人離れした活動は、年齢の限界を一切感じさせないものでした。たとえば、100歳からフェイスブックを始め、世間をあっといわせたのも記憶に新しいところ。晩年、世界中を講演のため駆けまわりましたが、実績と経験に裏打ちされた名言と名文に多くの聴衆は感銘をうけたものです。

 

 

今回の名言、「自分のためにでなく、人のために生きようとするとき、その人はもはや孤独ではない」は、その著書『いのちの言葉』(春秋社2002.8.20、増補版2013.9.29)に収録されたものです。人は誰かのために生きようと決意した時、そのいのちは輝き、どのような困難にも立ち向かえるようになる。そして、そんな人を周りの人は必ず支え、愛してくれると励まし、勇気を与えてくれる言葉です。

 

『いのちの言葉』について、日野原は同著〔あとがき〕で次のように自ら紹介しています。

 

「本書は、先に春秋社から出版された『道をてらす光』の姉妹編として企画されたものである。先の著書は、私を豊かに潤してくれた先人の言葉を取りあげ、私の心にどのように染み入ったかについて触れたものであったが、本書は、科学や文学、音楽、宗教、倫理などについてこれまで語り、執筆してきた私の思考のエッセンスを抽出したものである。

本書によって、私の思想の流れをたどることができる。しかし、私の思想の源泉は、東

西の古典から現代に及ぶ多くの書物の中から自然に湧き出たものであり、また私がこれまでに直接・間接に出会ったよき先達者からの思想、人生観、世界観、宗教観、科学論に負うものが大きい。私はそれらとの出会いに心から感謝している。」

 

『いのちの言葉』には、長年生と死の現場で医師として多くのいのちを支え、見つめてきた日野原の名言・名文が収録されています。

以下、その他の味わい深い名句を一部引用・抜粋してご紹介してみましょう。なお、各本文下に〔ひと言〕を添えました。

 

 

 

1.垂線を立てる

 

人生を深く生きようとするときに大切なのは、長さよりも質である。長く水平的に生きることは、近代医学の恩恵によってある程度果たせるが、私たちが人間の特権として与えられている宝を、本当の意味で天に積むためには、人生のどこかの時点で、自分の人生に垂線を立てるという考えのもとに、新しい次元の行動を開始しなければならない。

 

〔ひと言〕

「宝を積むために垂線を立てる」には、キリスト教的な献身と使命感が想起されます。「どこかの時点で…新しい次元の行動を開始」し続けた著者自身の生涯を語る一文です。

 

2.選択の自由

 

鳥は飛びかたを変えることはできない。動物は、這いかた、走りかたを変えることはできない。しかし、人間は、生きかたを変えることができる。毎日の行動を変え、新しい習慣を形成することにより、新しい習慣の選択を人間は決意できる。人間には選択の自由がある。そして、意志と努力によって新しい行動を繰り返すことで、新しい自己を形成することができる。それは、人間と動物とを根本的に区別するものと言える。

 

〔ひと言〕

動物の手足はものを引き寄せるため自分の方向にしか動かない。これに対して人間の手は相手に向かって推すこともできる。二宮尊徳が、『二宮翁夜話』にて、人間だけが持つ謙譲の大切さを弟子に説いた教訓を思い出します。

 

3.感性をはぐくむ

 

人間の感性が成長するか否かは、人との出会いによる。出会いは、私たちが後天的に獲得する財産である。 一所懸命に働けば、いくばくかの財は築くであろう。しかし人との出会いからはどれほど多くの無形の財産を得るだろうか。

 

4.真に生きた人と出会う

 

与えられた人生をどのように生きるかを選択する自由は、誰もが平等に持っている。生きかたの選択をするためには、真に生きた人と出会うこと、真に生きた先輩と出会うことである。出会いのための努力は、自分でしなければならない。小説、あるいは伝記を読むことからでもよい、よき読書をすすめたい。人間に生きる方向づけを与える本や言葉は、孤独をも解決する力を持つ。

 

〔ひと言〕

〔3.感性をはぐくむ〕も、〔4.真に生きた人と出会う〕も、すべての人に起こりうる、奇跡の出会いを指摘したものです。そもそも日野原が医師を目指したのも、まさにウィリアム・オスラー博士の著書と若き日に出会ったことがきっかけだったのです。生涯を決定づける「師」との出会いはなんと貴重なことでしょうか。

 

5.内なるエネルギー

 

人間は本来、自分のなかに回復する力を持っている。病気の回復というのは、薬を使った治療などよりも、自分自身のエネルギー、内的な集中力が出てきて治るものなのである。

 

6.老人のいのちを豊かにする七箇条

 

一、なるべく動くような環境に置き、上げ膳据え膳にしない。

二、なにかしらの義務、仕事を与えること。

三、食事についてうるさく言わないこと。

四、生活の環境をできるだけ豊かにすること。住宅の環境、食事の環境、生活の環境を整えること。

五、よき聞き手になること。顔を向け、視線を合わせるということはその人を豊かにする。

六、生きる希望を一緒に探す。小さな望みのために今日が耐えられるのである。

七、清潔にしてあげること。失敗があっても知らないふりをして、プライドを傷つけないこと。

 

〔ひと言〕

臨床医として、実に多くの高齢患者と接してきたに違いありません。その経験から生まれた「老人のいのちを豊かにする七箇条」。七箇条すべてに人間に対する愛があふれんばかりです。今日から年長者には敬意をもってそのように接してください。自分もすぐにそうなるのですから。

 

7.心が健やかな人

 

からだは病みながらも、心はかえって健やかになったと思われる人がいる。そのような人から学ぶべきことは多い。肉体が病んでも心が病まない人には、その病いに耐えられる不思議な力が与えられる。

 

8.有限のいのち

 

私たちは生まれたときから死に向かって歩んでいく。死を避けられないものと諦観し、終末に向かって成熟していくのが人の生涯である。死が近づくにつれ、雑念がとれ、来し方を内省し、謙虚な気持ちになってくる。最期には、家族や友人に、自分なりの言葉を残したい。死は自己実現の最後の機会と言えるのだ。しかし実際には、死に臨んで自分の言葉を残し、最後の自己実現をして逝ける人は少ない。

 

〔ひと言〕

はたして自分は、最期を迎えるに際して、「雑念がとれ、内省し、謙虚」になっていくのだろうか、と疑う気持ちもあります。しかし、死に臨んでは自分の言葉を残し、家族・友人に感謝を伝え、旅立ちたいと切に願うのです。

 

9.永遠を想う

 

冬に積もる雪の下に、もしも若芽があるとすれば、それは私たちめいめいが残す精神的遺産である。その若芽は、次の時代、次の季節に育つ人々に発掘されて、彼らの心の中に生かされるであろう。それにより、私たちの人生は永遠に連なる可能性が生じるのである。

 

〔ひと言〕

どんな人も死んで跡形も消え失せてしまうのではなく、せめて生きてきた証しを遺したい、と願うのではないでしょうか。文化的、学術的に偉大な実績を遺せるのは、ごく一握りの人々。でも、ぼくたちは身近な人々へ感謝と暖かい思いやりの気持ちや、決してくじけない意志の力などを示し、遺していくことができるのでは。それがやがて人から人へと大きな輪となって繋がっていくことを願いながら。

 

10.いのちの終わりの予測

 

多くの人々の死に直面して、死を経験すればするほど、いつ死期がくるかという判別がだんだん困難になってきた。患者が苦しんでも、うまく生のほうに引き戻せるのか、または死のほうに引かれるかの移行期がよく見きわめられれば、その医師は名医と言ってよい。いのちの終わりを予見することに関しては、経験はかえって誤りやすい。

 

〔ひと言〕

経験はかえって誤りやすい…。なんと率直で、てらいのない、大きな心でしょうか。経験を積めば積むほど、実績を築けば築くほど、人は謙虚にならねばならぬ。「稽古は強かれ、諍識はなかれ」。世阿弥の父、観阿弥の遺訓を思い出します。

 

11.計量できないもの

 

患者の痛みは計量的に数字で表すことはできない。私たちは、なんでも計量的に数字で表すのが科学であり、 一つのゴールであると考えてきた。しかし、計量ができないもののほうが、計量できるものよりも大切であることが多いのである。私たちはそれを忘れていて、測ることができるもの、お金に換算できるものばかりに立ち入りすぎてしまっていることを反省すべきである。

 

12.いのちの延長

 

近代医学は、古き医学のかなえなかったいのちの延長に大きく寄与したが、耐えがたい苦しみをも生き延びたいのちに与えた。

 

〔ひと言〕

これもまた、現場の医師を最後まで勤め続けた者だけがいえる言葉です。ただ延命させ、苦痛を永遠に与え続けるのがはたして医なのか、仁なのか、と厳しく問いかけます。

 

13.死を超えて

 

死にゆく人が絶望的な孤独に堪え、それから救われるのは、死を超えた魂にいのちがあり、肉体の死がそこにつながるという、 一種の信仰があるから可能なのではないだろうか。

 

14.心と霊のアプローチ

 

いのちを扱うことにおいて、 一方では学術的な、医療的な方面からのアプローチがあり、他方、心や霊という面からのアプローチがある。死を扱う医療と本格的に取り組むことは、宗教ぬきでは果たし得ない。

 

〔ひと言〕

〔13.死を超えて〕と〔14.心と霊のアプローチ〕は、本当に人間を救うためには、科学(医学)と宗教(信仰)が、二人三脚で取り組まねばならない、と後学へエールを送ったものです。ホスピス、そして脳死の問題に、いまや待ったなしで人類は立ち向かわねばならない、と実感します。

 

15.看護学生に

 

看護学生がよき看護婦として育つために重要なことは、単なる新しい学問的知識(knowledge)ではなく、ものを判断して行動できる知恵(wisdom)である。知識は誇り廃れるが、知恵は先人から後輩に伝えられ、また病む人間と共にあるうちに自然と勝ち取られ、成長していくものである。知恵は自ら高さを誇らず、謙虚に振舞う人間の行動、態度からにじみでたものである。

 

〔ひと言〕

現代の学校教育において、知識獲得から知恵の修得へと、ゴール・カリキュラムともに根本的に改革を実行していくべき時期がきたのかもしれません。子どもや若者が、知恵を身につける環境が、家庭にも教育現場にもほぼ失われてしまった今は。

 

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 ●講師:水野聡(能文社代表)

 

 

6/3(火) 10:30~ よみうりカルチャー横浜 『南方録』を読む ~千利休の侘び茶の世界~

 

数多い茶書の中、〔茶の湯の聖典〕とされる『南方録』。そのわけは、千利休の侘び茶の法をあますところなく伝える唯一の茶書だからです。

 

今回はその第一章である〔覚書〕より、福岡大善寺山にて秀吉に伴われて利休が行った野がけ ふすべ茶の湯(現在の野点)の実像をいきいきと伝える段落を読み進めます。この時、利休が尻ふくら茶入を仕込んだ茶箱を携行したのですが、これが野点で初めて茶箱が使われた、とする説もあります。野がけは「定まりたる法なし」「形の外のわざ」であるとし、「未熟の人はまねをするまで」とする利休の教えは今も奥の深いものです。

 

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5/28(水) 13:00~自由が丘産経学園 「お能鑑賞 はじめの第一歩 ~源氏物語・平家物語~能の名作を見る~」

 

世阿弥の名作能を鑑賞する講座です。今回のテーマは、『敦盛』世阿弥作原典/平家物語、源平盛衰記。

江戸時代に確立した能の分類法、神・男・女・狂・鬼。この二番目の「男」を世阿弥は「修羅」と定めていました。修羅とは武士や戦を指し、世阿弥の時代の武士の世界は、源平合戦です。修羅能について世阿弥は『風姿花伝』では、「よくすれども面白きところ稀なり」と否定的でした。が、花鳥風月に寄せて作れば「何よりも面白し」と、その評価が逆転して、名作となるともいいました。世阿弥作の〈敦盛〉は、殺伐とした戦の中に花鳥風月を取り入れた幽玄な作品です。とりわけ他の修羅能には見られない、〈敦盛〉だけの演出が多々見られ、修羅能でありながら「中の舞」を舞うのも、数多い修羅能の中でも〈敦盛〉のみです。そんな〈敦盛〉の見どころを、謡曲をたどりつつ、ビデオも見ながら楽しく学んでいきましょう。初めての方も大歓迎の初心者向け入門講座です。

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5/19(月) 10:30~ 毎日文化センター、一日講座「風姿花伝を読む」

 

 

今回の一日講座テーマは、世阿弥「風姿花伝を読む」です。

 

京都新熊野の観世座猿楽初興行にて、十代の世阿弥が衝撃的なデビューを飾り、時の将軍足利義満の熱狂的な支持を獲得しました。以降、七十代にていわれなき無実の罪により、佐渡ヶ島へ流罪となるまでの世阿弥の波乱万丈の生涯をたどっていきます。

世阿弥の処女作にして、最高傑作とされる『風姿花伝』。その各篇の要約と、全編に散りばめられた数々の名言を味読しつつ、世阿弥が生涯追求した〔能の花〕とは何かを解き明かしていきます。初心者対象の一日入門能楽講座。名作能のビデオも鑑賞します。

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5/15(木) 10:30~ よみうりカルチャー恵比寿 「千利休と侘び茶の世界 ~岡倉天心『茶の本』を読む~」

 

今回は第五章〔芸術鑑賞〕を読み進めます。

現在、美術の価値は作家のネームバリューと取引における価格の高さと流行がすべてである、と100年前の天心は嘆きました。

真の美を発見し、見分けるためには、日本古来の〔目利き〕が必須である、と天心は様々な例をひき、強調しています。茶道具の目利きについて、小堀遠州が弟子から「遠州殿の茶器の趣味をみなが褒める。利休の道具は千人に一人くらいが良いというだけで、遠州殿には及ばない」といわれたことに対し、遠州が「それは自分の趣味が凡庸だというだけのこと。利休の美はそれだけ厳しく選び出されたという証拠である。まこと、千人に一人の大茶人だ」と、美の〔目利き〕について述べたという逸話を紹介しています。

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5/9(金) 寺子屋素読ノ会

13:00~Bクラス「風姿花伝」、14:45~Cクラス「南方録」

 

Bクラス「風姿花伝」

今回は、第七別紙口伝より、後に世阿弥が〈下三位〉と規定する恐ろしい鬼の芸の秘伝を読み進めます。「巌に花の咲かんが如し」と、演ずることの難しい鬼の芸を観阿弥、世阿弥父子は実際の舞台でどのように演じ、「花」を咲かせたのでしょうか?思いも寄らぬ、演戯の秘密を解き明かします。鬼の能のビデオも鑑賞。

 

Cクラス「南方録」

利休侘び茶室の真骨頂といわれる、堺百舌鳥野にあった利休別宅の二畳敷の茶室。下地窓の開け方や障子の配置が面白く、南坊宗啓が図に写していたところ、利休が見て「この座敷はここにこのようにあるから面白いので、他所の場所に同じものを作っても何の意味もない」と笑ったという逸話です。とくに、手水が座敷を通り越した勝手方向にあり、客は手水を使った後にもう一度戻らなければならない不便さが特徴でした。その秘密を利休が「侘び」の精神を通して説明してくれるのです。

 

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 ●講師:水野聡(能文社代表)

 

 

5/6(祝) 10:30~ よみうりカルチャー横浜「『南方録』を読む ~千利休の侘び茶の世界~」

 

今回は南方録〔覚書〕より、小嶋屋道察の「捨壺」の秘事をご紹介しましょう。

望外のルソン真壺を入手した道察。その壺の素晴らしさが噂となって、道察方へ拝見希望の客が押し掛けます。しかし、にじりより客が茶室へ入ると、なんと件の壺が畳の上に無造作に転がして捨て置かれていました。その理由とは。

利休も最晩年に神谷宗湛との茶会で、秘蔵の橋立を転がして見せています。「捨壺難しき。もちろん真似てすべき事にあらず」と南坊宗啓には教えたのですが。

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 ●講師:水野聡(能文社代表)

 

4/23(水) 13:00~ 自由が丘産経学園「源氏物語・平家物語 ~能の名作を見る」

 

4月から始まる、名作能鑑賞講座です。

第一回は、伊勢物語と能「井筒」の世界。

〔井筒〕は世阿弥が、自作の内「上花也」(自身の最高傑作である)と評価した中世古典美を集約した名作能です。その鑑賞ポイントを学んでいきます。

亡霊のシテが自ら「人待つ女」と嘆くその意味を、伊勢物語の在原業平と紀有常の娘の幼き日の純愛物語から読み解いていきましょう。

能の名舞台をビデオで鑑賞します。