市内某所、比較的高いビルが建ち並ぶエリアに、中層程度のビルがぽつりと在った。
なんとも肩身が狭い様子で申し訳なさそうに建っているようにも見え、また、自分は自分なのさとプライドを持って建っているようにも見えた。
何のビルかは知らないが、その屋上は、どうやら憩いの場としての意味合いもあるらしく、一本の、それなりに大きな木が植えられていた。
屋上に生える木の不思議。下から、或いは同程度の階数からしか見る機会が無かった私は、その「根本」がどうなっているかはまるで分からなかったが、まさか地面から屋上まで突き抜けているということはないであろうから、あくまで屋上に、何らかの形で植えられていたのだと推測する。
その木が「桜の木」だということに気づいたのは、ある春の日のことであった。
無機質な景色の中に淡いピンク色を見つけるという出来事は、まるでサプライズで贈り物を貰った時のような嬉しさだった。
つい頬がほころぶような愛らしさであり、咲くべき場所に咲くよりもより一層映えて綺麗だと感じた。
いつ咲くかと待ちわびる期待から、その年初めての小さなピンクを見つけるときめき、満開の美しさ、散り行く花弁が風に舞い、まるで雪のようにビル街に降り注ぐ様まで、
春のひととき、一連のそれを観察することが、日々の私の楽しみであった。
その木が、気づくと先日無くなっていた。
そうこうしているうちに、ビル全体が鉄板の壁とシートで覆われ、今現在、取り壊すのか補修のための養生なのかは全く分からない状態だ。
桜を、最後に見たのは、一昨年だった。
去年は初めての緊急事態宣言下で外に出られる雰囲気ではなく、今年は今年で諸々の事情で愛でる余裕も無く、葉桜になってからやっと、来年こそは…とその木に目をやったのであった。
あんなに楽しみにしていたのに、2年連続で時期を逃し、更には来年こそ!が、恐らくもう叶わなくなってしまった。
悲しくなった。そして複雑な気持ちになった。
毎年楽しみにしていたなんて、常に大事に思う風を装いながらも、心のどこかで私は、いつもいつでもそこにあるさと、過信していたのかも知れない。
そういうことって他でも結構あるよな…と、様々なことに思いを巡らせた。と、言うか、振り返ってみれば、なんだかそんなことばかりな気もした。
後悔先に立たず、あの時ああしておけばと、そんな連続で今がある気がしている。または人生とはそんな連続だからこそ、かみしめて生きて行けるし、趣も深いというものなのだろうか。
ただやはり、悔いのないようにと前もって気を引き締めるのもまた学びある人生だ。
大切なものは、大切に出来るうちに。当たり前を、当たり前に思いすぎずに生きなければいけないのだと、そう胸に刻みながら、
「ある木」のあった辺りを眺めている最近だ。





