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「山桜 霞の間より ほのかにも
見てし人こそ 恋しかりけれ」
( 詠み人・紀貫之 古今集479 )
遠い初恋を思い出す季節です。
毎年この季節、この日が来ると思い出すのです。
幼い胸がキュンキュンいっていた初恋です。
ドキドキして彼の顔をちゃんと見ることができなかった初恋。
もちろんお話なんて、出来るわけはなく。
本当に遠くから、のぞくように見守っていた恋でした。
彼のいる部屋の廊下を、うつむいて足早に通り過ぎる私でした。
その彼には、すでにお相手の方が傍らにいらっしゃり
思いを募らせても、それは最初から叶わぬ恋でした。
分かっていながらも、遠くからずっと変わることなく
思い続けた恋でした。
そんな少女(私)は
いつしか大人になり
初恋の思いを今でも大切に胸に抱いて
毎年、この日を迎えるのです。
未だに胸は‘キュンキュン’しますが
彼に会っても、
もうちゃんとお顔を見ることができますし
彼の部屋の前を足早に通り過ぎることも、
うつむくこともなくなりました。
そして今では
近寄って彼に触れることさえ出来るようになりました。
・・・しかし、
言葉を交わすことだけは 今もできません。
けれどそれで私は、十分幸せです。
その‘彼’とは。
初恋の君とは。
・・・・こんな方です。
気品のある、りりしい方。
私の初恋・・・・・。
今年もお会いすることが出来ました。
どこから見ても。惚れ惚れしてしまいます。
この初恋の君に敵う人なんて、生涯出会えないでしょう(笑)
・・あんまり言うと、
フィギュア好きの気があるのかと誤解されそうなので
このへんで止めておきますが。
彼のお相手がこちらの姫君で・・・・・・
40年ほど前のお雛様にしては、目鼻立ちがどことなく現代的で
いわゆる‘平安美人’という、
蟇目鉤鼻(ひきめかぎばな)の顔立ちとは
すこし違うように見えます。
彼女は、私の憧れの女性でした。
「将来の夢は?」
と聞かれて
「お雛様。」
と答えていた私。
小学校に上がり、将来の夢が「アナウンサー」になるまで
私は大人になったら‘お雛様になる’と心に決めていました。
幼稚園のころのアルバムを見ると、
必ず、雛人形の扇を持つポーズで
写真に納まっている私がいます。
ちょっと物憂げな表情。
昔は幸せそうに見えたんだけど、
あらためてお顔を見つめてみると
彼女の心が本当はどこにあるのか、
分からないような気もします。
・・・・・彼女は、幸せなんだろうか。
お部屋のスペースの関係で、
今年も八段飾りは出せませんでした。
男雛と女雛だけのひな祭りです。
「山桜 霞の間より ほのかにも
見てし人こそ 恋しかりけれ」
( 紀貫之・古今集 )
恋しさを胸につのらせながら、
遠い君に思いを寄せている。
まるで、
優しくほのかに霞む山桜を見ているかのように。
( 訳・瀬川嘉 )
『美しきことは‘美事(みごと)’なり。』
( ある華道家の言葉 )
今日番組の収録で「花の匂い」というタイトルの曲をかけた。
…あぁ、あの曲か。と思った方もいらっしゃるだろう。
花の…「匂い」はないだろう。。。
瞬間、なんとなく安易にそう思ってしまった。
花は‘香り’と言ったほうがしっくり来るんじゃないの?
そう感じたからである。
「香り」と「匂い」。
普段、意識して使い分けている方が
どれくらいいらっしゃるだろうか。
香りと言えば、
なんとなく漂ってくる心地良い軽やかさがある語感だし
匂いと言えば、
時間をかけて醸されたような
少々重量感のある言葉というイメージがある。
どちらかと言うと、
「かおり」は上品な感じがし
「におい」は生活感があるようだが
このふたつの言葉は今はほぼ同じ意味で使われている。
嗅覚がとらえる、あの漂ってくる空気はすべて
もう「匂い」という言葉にまとめられているような感じさえもする。
果たして「花の匂い」とは どんな‘におい’なのだろう。
もちろん「かおり」も「におい」も立派な大和言葉である。
すなわち古くから使われている日本語だ。
「かおり(かをり)」の「か」は、
幽玄や奥深さを表し、
目には見えないが何となく漂ってくる‘氣’のようなもの。
「をり」は
酒が醸造されるにしたがって次第に芳醇になること。
したがって、何となく漂ってくる上質な空気感をいう。
「におい」は「にほひ」と書き
「に」とは丹(赤土)・煮のことで時間をかけて顕れるもの。
「ほ」は秀でる、目立つようになること。
「ひ」は日、火、霊、つまりエネルギーのことだ。
「かおり」の 立つか立たないかのような儚さに対して
「におい」の なんと力強いことか。
「かおり」も顕著になれば「におい」になる。
野に咲く花の‘香り’も、
束の如く集まれば
「蒸せかえるような…‘匂い’」となる。
あまりにも安易に「花=香り」と決めつけていた
自分の底の浅さを思った。
『花の匂い』という曲は
Mr.Childrenの桜井和寿さんが
お父様を亡くされた時に作詞・作曲されたものだと
あとで知った。
作者の思いの深さを知ると
切なくなった。
花に埋もれた愛しき面影を想い
胸が熱くなった。
言葉の用いられ方というのは、
言葉本来の意味や、文法上の決まり事や、由来などによらない。
心根が発するものである。
美しい日本語とか、美しい言葉、というのは
なにか法則があって、古いものの中から蘇るものなのではなくて
使い手の心の深さがあって 初めて生み出されるものだ。
誰かや、何かを、大切に思って
自分自身の魂が叫ぶとき、
どんなに汚れた時代の中からでも
光を放つのだと思った。
「美しい言葉を使おう」と変に力を入れなくてもいい。
「美しく生きよう」と思いさえすれば、
言葉は自ずと変わる気がする。
美しきことは、美事(みごと)なり。
奇しくも華道家の言葉である。
花を活けるように。
思いを込めて
人生に言葉を活けていこう。
今夜は
天文同好会の皆さまと
夏の夜空を楽しみました。
太陽が沈んで
まだ明るさの残る空を見上げて
一番星を探すところからスタート!(笑)
しだいに空の色が深くなり…暗くなり…
隠れていた星々の輝きが
歌うようにさざめき始める。
「私はここよ!」
「やっと見つけてくれた?」
そんなふうに言っているのかな。。。
今夜の空は いつにも増して賑やかだった。
もっと近くで見たいよ!!
こんなふうに 望遠鏡で覗かれていると知ったら…
星達は何て言うと思う?(笑)
会えたのは土星と・・
星の下での
星好きの皆さまとのおしゃべりも
とっても賑やか。
暗いからこそ・・・・分かち合える
本当の気持ちが、あるような気がする。
暗くても・・・・お互いのことが良く分かるし
本音で語り合えるような 気がする。
初めて出会った人とも
不思議と仲良くなれる。
星の下では
なんだか みんな
素直になれる。
明かりを消して
星を見よう。
きっと
世界中が 素直になれる。
「経(たて)糸は‘心’。緯(よこ)糸は‘技’。」
( 昭和天皇 天覧織女 永井千代子先生の言葉 )
6月から番組制作で忙しく
残念ながら着物を着る機会がなかったのですが
ようやく一段落したので
夏着物や浴衣などを出してみました。
着物を整理しながら
その時ふと どうしても触れてみたくなった結城…。
4年前に初めて仕立てた人生初の結城紬。
…これは大久保玄才先生の染め。
玄才先生との出会いも
私にとっては大切なエピソードです。
‘品物’としての着物を手に入れたというよりも
職人さんの魂に触れ そこに私の魂が共鳴したからこそ
縁あって 私の元に来てくれた結城です。
単に「高価である」とか「ブランドだから」とかではなく
「エピソード」や「ストーリー」のあるものって
とても愛おしいものですね。。。。着物も人も。
そして この結城と出会ったとき
もう一人お会いした大切な方が
地機(じばた)織の永井千代子先生でした。
地機織を実際に体験させていただきましたが、
予め通した経糸に、一本の緯糸を通していく作業は難しく
雑にすれば、経糸に絡んで織物になりません。
まさしく熟練の技が必要だと感じました。
「経糸は‘心’。緯糸は‘技’。
そこに着る人の健康と幸せを祈って
ふんわりと
暖かい空気を織り込むようにするんです。
だから、織物はね 生きているんですよ。」
着物に袖を通すたびに思い出されます。
「まずは心と技。そこに‘祈り’を加える。
だからこそ、
出来上がったものには命がある。」
心が震えました。
言葉の世界と、全く同じだと感じました。
言葉だけでなく、
あらゆることと つながっていると思いました。
まず始めに 心があって、思いがあって、
どのように伝えるかという 技が必要で、
相手の方が、それによって勇気づけられるように
幸せになっていただけるようにと 祈りを込める。。。。
だからこそ、その言葉は‘言霊’となって、
ふんわりとした暖かい命を宿したものになり
相手を包みこんでいく。
言葉の力を信じ、伝えていく使命を与えていただいた者として
そのように在りたいと。
そのことを忘れないために、
私は着物を着るのだと 心に決めています。
人生は
あたかも 一反の織物のようであると 感じます。
風合い、色彩、人それぞれ様々な模様が織り成されていきます。
自分だけの物のようでいて、実はそうではない。
人様に楽しんでいただき、喜んでいただき
時には癒しになり、時には力になり
あたたかくあたたかく、包み込んでいくものだと、感じるのです。
心だけでは不十分。
技だけでもならぬ。
心と技が重なり合い、空気を含んで命となる。
私は、どんな人生を織り上げられるだろうか。
しなやかに
つややかに
あでやかに
出来るなら、
彩り豊かな女性らしい人生を、織り上げていきたい。。。。
と、思っています。
私の夏が…終わった。
8月がスタートし、
暑さはこれから・・というところではあるが
ともかく 私の夏は終わったのだ。
不思議なようだけれども
どんなにドラマチックな出来事があっても
悲しかったことや、嬉しかったことがあっても
世界はいつも
何事もなかったように 始まりをくれる。
そんな現実に
一瞬 立ちくらみのような感覚を覚えるが
しだいにゆっくりと平衡感覚を取り戻していく。
そしてできるだけ違和感なく
もとの日常の中に
再び
この身を滑り込ませていくのだ。
そう。できるだけ違和感なく…見えるように。
私の夏が終わった。
一つ番組を作り終えた。
私は いつも「恋するように」番組を作っている。
・・それが 終わったのだ。
立ちくらみの一つやふたつ・・したって当然(笑)
とても爽やかな番組になった。
無事オンエアも終えた。
青の絵の具を たっぷりの水で溶かして
思い切りキャンバスに描ききった
そんな感覚である。
今年も
取材にご協力くださった方
関係者の皆様方に感謝。
辞書を見れば
行く春を惜しむ『惜春』と言う言葉はあっても
夏を惜しむ『惜夏』という言葉はないそうであるが
私の辞書には、載せてみたい言葉である。
心中諦めムードの中
誰一人悲観的なマイナスの言葉を口にせずに
観測のための打ち合わせが進んでいました。
目覚めて今朝は、
やはり暴風雨…。
でもみんなカメラの準備、グラスの準備を黙々と進めていました。
ホテルロビーの大型テレビ画面では
日本各地から刻一刻欠け始めた太陽の中継映像が届き始めて…
なんとなく皆さんのため息が漏れ出す。
日南市の金環の時間帯になり
さすがに暗くなってきたけれど、
それが日食のためなのか
雨雲のためなのかわからないくらい…
ついに
東京の金環を過ぎたころ。
半分くらいのメンバーは
“生空”より、各地のクリアな映像を見て羨ましげな歓声(呻声?)をあげていました
すっかり諦めかけていた
その時……
「見えた!」
誰かの声でみんなが駆け寄る。
…見えた。
神様は。
私たちにも見せてくださいました

「おとなになっても。
奇跡は起こるよ。」
…子供たちが一緒だったからかな?
彼らのための奇跡だったのかも知れません。
そこに立ち会えて良かった

そのあとも相変わらずの暴風雨。
でも雲の切れ間が時折やって来て
太陽が顔を出しました。

(↑“晴れ間よ、早く来て!”の画)
録音機材を握りしめていたため
日食の写真は、私は撮れなかったけど
目に焼き付けた映像と
皆さんの歓声の収録は
たぶん完璧



神様へ。
「奇跡に感謝する心の準備はある」って言いましたが
やっぱり出来ていませんでした。
ゴメンなさい。
そして
ありがとうございました。
本当に
奇跡とは
何もかも心の中から執着を手放し
半ば諦めて、祈りさえ手放したときに
突然やって来るものだと
知らされたような気がします。
諦めて観る…
「諦観」とは「物事の本質を、あきらかに観る」こと。
今あらためて
心から感謝!
天の岩戸に閉ざされて
天照大神様は雲の向こうで
お出ましにならないようだ。
ある意味、神話どおりだ。
ということは、
知恵いちばんの「オモイカネノミコト」のように
このようなとき、一策を講じてみるのが筋だろう。
岩戸の前で
みんなで笑うか。
ところで
だれがアメノウズメノミコト役をする?(笑)
不思議に夢を叶えてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
大人になっても 奇跡は おこるよ」
( ユーミン『やさしさに包まれたなら』より )
本当に
小さい頃は
神様がいた。
夢はみんな叶えてくれた

おとなになっても
奇跡はおこる…って。
きっと、たぶんそう。
心の中の「だったらいいな」を
“想いすぎて”壊してしまわないように
「願い」が苦しさになって私から逃げ出さないように
やさしく ふんわり
抱きしめたあと
惜しみなく神様に解き放とう。
明日の天気も。
会いたい想いも。
いつ、私のもとに
想像もしなかったような
嬉しい奇跡が訪れてもいいように
いつも心の中で
“感謝する準備”をしているんだけどな…
今日も良い日でありますように。










