5月26日 四年前から介護が始まった父親が94歳でお星さまになりました。
大正14年から昭和、平成、令和またがって、生きてきました。
12年前に、私は、姉がシングル、主人の姉と兄も地方暮らしという事で、誰か両方の親の近くにいた方がいいよねという事で、単身赴任にさせてしまいながらも、2歳と7歳の娘を連れて東京に帰りました。
すぐに上の子の発達障害が、発覚して、(あとに妹も)私の修行のような日々が始まりました。
父親は私に度々指導と言うかな注意を、するのでよくぶつかりました。
本当に怒鳴りあいというか、、父親は農家の長男、高校を主席で卒業、時代は太平洋戦争で、軍隊に入隊したあと、最年少で軍曹に出世するくらいの知的に高い男性でした、なので、、 知的に遅い孫に、何でこんなことしてんだ?甘やかすな!みないな理解できないわけです。母はだんだん私に寄り添ってくれるようになりました。
四年前に母が入院して、痩せて退院してきたらショックで入れ替わりで入院してしまい、私は毎日父親の病院にいってマッサージしてきたのですが、その時もまだ、ギクシャクしてます(笑)でも、姉も実は、父親とうまくいってなかったので、私に任されてしまい、母は姉が介護に、私は父親になりました。で、退院してから、また、母が入院して、その間、隣に住んでいる父親に毎日洗濯と、食事に行くのですが、喧嘩してるので口を利きたくないんです~でも、そうはいかないから、私は毎日、A4くらいの紙に、イラストを描いて、メニューを描いたり、言葉を添えておきました。毎日です。
母が退院してきて、父親はぐっと容態が、悪くなりました。自宅の介護が始まりました。姉は隣町に住んでます、昼間、たまに来てくれます、父親の仕事を引き受けて、やりくりしてます。私は、障害の子供たちが、毎日習い事と、下の子は通常学級に通ってるので、宿題をめんどう見て、お風呂、くすり、着替え、フラフラ、それなのに、母と姉は夜中の介護は私と決めてしまって、何で?私はいつねるの?と苦しみながらも、80代後半の母には楽してもらいたくて、無理していました。父親の下の世話は、実は、私は何にも苦労もないのですが、20分後とに呼ばれて、食べたいなーとか、おむつにしたくない、ポータブルに座りたいとか、大きいのしたいからとか、呼ばれるのね、170センチの大柄なので大変でした。母親がヘルパーをいやがったので、本当に大変でした。そんなこんなで、とうとう二年半前にすぐに入居できる、高いホームにいれることに、正直92歳だから長くないと思っていたのが本音、、でも、手厚くしてくださり、ぐんぐん元気になっていって、コップも自力で持てなかった父親が、一人でトイレに行けるほど、筋力もつくようになりました。母は毎月の料金に悩まされながらも、お父さんは、これまで親兄弟、家族のために頑張ってきたので、最高によくしてあげたいと、言います。自分はこんなホームに入らなくていいと言います。夫への愛ですね~。25日、容態が、よくないと言われて、家族全員で見舞いに行きました。その時も私の名前も覚えてました。戦争の話をするのが好きでした。「元気になってまたはなし聞かせて」と、言いました。体温も安定したので、帰りましたが、次の日、眠るように永眠したと施設から連絡があり、急いで会いに行きました。私は面会に行く度に、子供たちへの支援にお礼を伝えてました。父もまだ少し元気なうちに、私にごめんねといってくれました。
だから、やりきった感じがあります。
母が言うには、荷物を整理していて、私が食事の時に描いていた多数のイラストとメッセージの紙を捨てずに、とってあったそうです。
そして、私のことを本当に心配していたと言いました。あんなにひどい強いことを言う人でしたが、すべて正しいんですよね。
正しすぎて息が詰まるとこ思ってました。時代は違うとか、障害の子供を育ててないからわからないとか、思ってました。
父は苦労人
祖父に新聞社に勤めていた父親に無理やり退職させて、農家を継がせました。
母と結婚したときは、両親と妹弟が10人くらいいて、すべての兄弟を大学にいかせて、家をたてさせて、妹も大学に行かせて、嫁にいかせて、、働いて働いて、自分は贅沢せずに、(私が幼い頃は、本当になにもなかった)長いこと両親と弟たちに尽くしてきたんです。でも、自分の家族にはまわるお金がないので、私が高学年の頃に、祖父母と決別、大喧嘩しました。離れて生活をはじめて、母も体を壊して入院してしまったので、農家も廃業して、不動産業界に40代から転職したようなもの、砂利とか鉄板を買ってきて、自分で敷いたり、ナンバープレートを木で作り、杭を打つようにたててました。ランニングをいつも、汗に濡らして日焼けしてました、、そんな父なので、教育は母任せらしかったのです、主席で、卒業するくらいなので、教えることもできるはずなのですが、いつも、忙しくて、地域の仕事も多くて、神社とかお世話人で飛び回ってました。なので、家族旅行などなくて、私が幼い頃と、嫁にいくときの家族旅行など二回くらいしかなかったです。
そんな父の人生で、一番の思い出は、どうやら、戦争でした。通信なので、人殺しはなかったようです、満州にいって、軍曹まで登りつめるくらいの活躍して、終戦の時に、マラリアにかかり40キロに体重が落ちて、フラフラで、隊からもはぐれて、真夜中、田んぼを歩いていたそうです。でも、星を見て方位を考えて歩いていったら、駅で自分の隊に合流できたそうです。動物的な感ですよね。父親はそういうのすごかったのよ、今度別に書こうかな、パワーありました。「あの人を怒らすと、早死にする」って、母は、よくいってました(理由がある)、だから、「怒らすな」って、、怖いでしょ?父は49日、実家にいるので、手を合わせて、拝んでます。よく怒らせたから(笑)
父の葬儀に、好物の、マンゴー、アメリカンチェリー、カステラ(シベリア)きんつば、ウイスキー、ジンジャーエールを買ってそなえました。父の育てたツツジ、五月かな、を切ってきて棺に入れて貰いました~。
長くなりました~まとまりなくてすみません。
アメーバブログは、私の心が詰まったときに、書き込ませて貰う所、ごめんね。最後まで読んでくれた人がいらしたら、感謝します。m(__)m