けふは『國柄を學ぶ月例講座』『和歌創作講座』をやらせて戴く豫定にしてゐる。ただ、此處の處餘り體調が優れない。

 先月に於ける相當タイトな豫定に全精力で取組んだが故の反動が身體に應へてゐるやうに思ふ。

 やはり、年を取つてしまつた咸が否めない。

 まあ、總てを受け容れつつ日々を生きて行くしかないと思ふ。

 ◇ ◇ ◇ ◇

0803『先代舊事本紀詠歌本紀勉強會』本資料
 日時 令和八年三月廿七日(金)午後五時より。
 會場 京都三上邸  草稿 小林 隆 拜
《序歌》(拙歌)
 磯城島のやまと言の葉甦へれ
  いにしへ人の言靈の調べ

『先代舊事本紀大成經』巻六十二『詠歌本紀』
 
《今月のテーマ》
【第六代孝安天皇を深めて御製を學ぶ】

 ◇ ◇ ◇

《其三三》【孝安天皇御製】

  (國立公文書館『詠歌本紀』巻六十二17p)
 「蜻島宮(あきつしまのみや)御宇(しろしめす)天皇(すめらみこと)

  國を齋(いは)ひ言祝(ことほ)ぎてこれを謠(うた)ふ」
(うち)つ祝(ほ)き鄕(さと)つ祝(ほ)
 與
(とも)に云ふ言諸(こともろ)(ほ)
  神に聯
(つら)なり種種(くさくさ)(なる)
【借音表記】
 于遲都富伎 佐登都富伎
 登母爾伊布 許等毛呂富伎
 迦微爾都等那理 玖左玖左奈琉乎
【大御心を推し量る】
 我が内なる心の眞より齋きて言祝ぎ、内にも鄕にも諸共に祝ぎ行ひて、神の根にかなはしめ、萬物萬象に至るまで成り出で成り化りて成りゆくを宣らせ賜ふ大御心と拜します。
【原文】
 「蜻島宮天皇國祝謠之」
內底祝 鄕底祝 與云 言諸祝只 孝行根從 種種 成乎

《孝安天皇御製解説の問題點》
 この御製は、孝安天皇が先帝崩御に伴ひ、踐祚された時の大御歌であらうと考へられます。先帝孝昭天皇の治世は八十四年間の長きに渡つてゐます。
一 御製に於ける語意について
 この御製は、「上代祝詞歌」であり、「祝詞的謠」「國祝謠」といふ三つの義が籠つてゐる御製であらうと考へられます。それ故に前囘の御謹解については、一度白紙に戻したいと考へてゐます。
「內底(うちつ)祝」…「内底(うちつ)は「うち」は「心」を表はすが、「つ」は「の」と解する。
 この(うちつほき)は、心の底から祝ふと云ふ事ではあるが、上代語に於て「内・中・身の内・内なる所」を意味し、單に個人の内面を指す語ではありません。上代に於ける「こころ」は靈の働き・思ひの力を意味し、祈り・祝詞・鎭魂に通ずる根源的な力を表す語になります。
 本御製が「國祝謠」であることを考へれば、「内つ」は朝廷の内、中心、更に大御心の内を
含む語と見るべきです。隨つて「うちつほき」とは、單に心情としての祝ではなく、「内なる靈の中心より齋(いつ)きて祝(ほ)ぐ」意を含む語と解するのが最も自然である。ここに於ける「祝」は「齋(いつき)」に通じ、心を齋(ととの)へて祈りを籠めることを意味してゐると考へられます。

 
「鄕底祝」
 「鄕(さと)」の古語義について

 この「さと」といふ古語卽ち上代語での意味は、「人が住んで居る處」「村落・共同體」といふ語を云つてをり、行政的な意味に於ける「里」とは限りません。
 語源的に考へると、「さ」は「場・處・現はれ」といふ義があり、「と」は「處・所・止」といふ義の語になります。これは卽ち、人の命の現はれて居る處を意味する語と觀ることが出來るのです。
 本御製が「國祝謠」である事を考へれば、「さとつほき」とは單に村里の祝ではなく、人々の側に於ける祝、人の心の側よりの祝を意味する語と解すべきと思ふのです。
 「内つ祝」が「内なる中心、大御心の齋(いつき)の祝を表す」のに對し、「さとつ祝」は、人々の居る所よりの祝を表し、上下の心が與に「齋(いつき)て祝ぐ」ことを示す語と見る事が出來ます。
 卽ち、「大御心の齋(いつき)」と「人々の心の齋(いつき)」とが一つに和してこそ、國の安寧が成るといふ意がここに籠められてゐると考へられるのです。

 
「與云」…「國會圖書館の『詠歌本紀』には、(焉云)となつてゐるが、本來は違ひます」
 これについては、『先代舊事本紀大成經』巻六十二『詠歌本紀』の【原文】では、「與云」になつてゐます。これを基として解したならば「與に云ふ」といふ考へ方が見えて來ます。しかし「焉云」ですと「云ふ」のみになるかと思ひます。このどちらかでこの御製から云へば、「與に云ふ」が一番適ふのではないかと思ふのです。如何なればと云へば次に「言諸祝」の「諸」がある事を考へるならば、「與」は「諸」を成す義を含み、内つ祝と鄕つ祝とが相與にして多となる意に通ずるからであります。
 しかし、「與に云ふ」では、和歌の形が九文字七文字と續き本來の七文字五文字からは離れてしまひ崩れます。和歌の形を調へたならば「云ふ」方が七文字七文字になり、九文字よりも良い氣がします。
 しかし、國會圖書館の『詠歌本紀』は昭和十七年に太子會會長であつた佛界の上西眞澄氏が御謹解に取組んだものと考へると、この「焉云」は漢文の接續語であり、經傳・註解・史傳文には多く見へますが、祝詞・謠歌の原文に出る語としてはやや不自然になります。
 しかし、「與云」ですと、上代資料としては自然になります。和歌といふ形式が定まつたのは萬葉以降になります。そこを考へたならば「與云」が一番合ふと思はれます。
 韻律の問題も「與」の方が上代的であり、九文字になりますが「國祝謠歌」であれば、寧ろ「重ね語」「添へ語」「接續語」が入る形は自然ではないかと考へられます。
 特に、この孝安天皇の御製は、「國祝謠」と記されてゐることから見ても、祭祀的言上の形を留めた歌と考へられます。他の御製と比べても祝詞に近い氣がします。隨つて韻律的にも「與云」でも異和感はありません。

 
「言諸祝只」…「ここでいふ(言)は單なる言葉ではなく、(言靈)と考へる方が自然」
 ここでいふ「言」は單なる言葉ではなく、靈的働きを持つ言でなければなりません。上代に於て「言」は思ひ・祈り・鎭魂の働きを持つ語であり、言靈に通ずるものと考へられます。
 この「言諸祝只」は、單純に見れば「諸の人達と心を合せて國祝の言をなす」といふ義に
取ることが出來ますが本御製の前に「内つ祝」「鄕つ祝」「與云」と續くことを考へるならば、「内」と「鄕」とが相與にして、その「齋(いつき)の言が諸の祝となる」意に解するのが自然です。
 又「只」は添へ語として用ゐられますが、本御製に於ては限定の義を含み、「のみ」と解するのが最も適ふと思はれます。卽ち「言諸祝只」は、「内つ祝・鄕つ祝相與にして成る諸の祝の言によつてのみ、神の根より種種の成る」ことを示す語と解せられます。
 これは、國の安寧は人の力によるのではなく、「齋(いはひ)て發する言の働きによつて成る」と
いふ大御心を表した御製と考へられます。

 
「孝行」…「親に對する良きこころ」と解するのが通例ですが、本御製に於ては後世の儒學に於ける「孝の義」に限るべきではないと考へます。孝安天皇の御代である上代に於て、後世のやうな儒敎的倫理としての「孝」の槪念が成立してゐたとは考へられません。後世に漢文に整理された際に「孝」の字が當てられたに違ひないと考へてゐます。
 日本古來の思想に於ては、「親のみならず祖先・神へと連なる」ことを重んじる觀念があり、これは儒敎的「孝」とは異なつて「つらなる」「つぐ」「したがふ」「まもる」といふ槪念になります。 御製の「孝行根從」は、この流れから考へたなら、「親に仕へる」といふ義よりも、「神とつらなる我ら」といふ意に解するのが自然です。
 隨つて本御製に於ては、「孝行」を儒學的倫理語として解するのではなく、大和言葉の本義に近い語に後に「孝」の字を當てたものと考へます。

 
「根從」…「(根は)と同じ意味。「ね」は親への連なりではなく更に遡り(神)と思ふ」。
 この「ね」は、單に親への連なりを意味するものではなく、私達の「ねつこ」である「神」に繋がるといふことではないかと私は考へてゐます。言靈的にも「ね」には「根つ子」といふ義は確かに存在します。
 日本の八百萬神思想の根幹にある「一切の存在には神が宿る」といふ考へ方に繋がり、それが「根從」といふ言葉に籠つてゐると感じてゐます。
 つまり、「根從」の「根」とは、更に遡りて存在の根源、すなはち神に連なる本を指す語と考へられます。我々の存在の根柢には神があり、一切の存在に神が宿るといふ八百萬神の思想は、この「根」に籠る義と見るべきです。
 言靈の上からも「ね」は根・子・禰に通じ、祖靈・祭祀・生成の本(もと)を示す音であり、「根從」とは神の根より出でてこれに從ふ存在であることを表す語と解するのが自然と思ひます。

 
「種種成乎」…「總べての事共が調ひ成つて行くことを」
 「內底祝 鄕底祝 與云 言諸祝只 孝行根從」を承けて結句となつてゐるのが、この「種種成乎」になります。卽ち、「皆と與にいはふ事で總てが調ひ生成してゆくのである」といふ事ではないかと考へます。
 「種種」とは萬の生成の本末をいひ、「成乎」とは成り出で成り化りて萬物萬象が成りゆくことを宣り定める語であると云へます。「皆と與に祝ひ、根に從ふとき、萬の種種は盡く生成して成り出で成り化りて成り成りゆくことを宣する祝歌の結句であると考へます。

【詞書から見る御製の解釋】
「蜻島宮(あきつしまのみや)御宇(しろしめす)天皇(すめらみこと)國祝謠之(くにをいはひてことほぎこれをうたふ)
 
「蜻島宮天皇」…「孝安天皇」。
「蜻島宮御宇天皇」…「蜻島宮は(あきつしまみや)と訓み、孝安天皇の皇居」
 ※治定地は、奈良縣御所市室1322番地。室八幡神社と言はれてゐる。
 現在の治定地の寫眞については、前掲してあります。亦、先帝孝昭天皇の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)から僅か2.4kmの近きに皇居を遷されました。

 
「國祝謠之」の解し方。
 「國祝謠之」とは、國を「いはひ」、卽ち「齋ひ言祝ぎて之を謠ふ」意であり、「祝」は、單なる祝言ではなく、齋戒(さいくわい)と言祝とを兼ねた祭祀の義を含む語と解せられます。
 それ故に、「國を齋(いは)ひ言祝ぎてこれを謠ふ」とするのが自然であらうと考へます。

 
【御製の背景】
 この御製は「國祝歌」として傳へられてゐる事から、卽位の時に、新たな御世に當つて、御親ら天皇として國を治められるに當り、その御決意と國の安寧を祈る心を籠めて詠じられた御製であると考へられます。
 孝安天皇には「御卽位の詔」も傳へられてゐますが、これは卽位の御時ではなく、卽位より十五年後に勅されたものであるとされてゐます。この理由は明らかではありませんが、上代に於ては、先づ祭祀的に天皇として天と地とを繼がれ、その後に國政の宣布が行はれたとも考へられます。さうであるならば、卽位の御時に於て國の平安を祈り詠じられたこの御製こそ、御卽位の本義に最も近い御言葉であつたと見る事が出來ます。
 又、孝安天皇は聖壽百三十七歳と傳へられ、御治世も百年以上に及んでゐます。これは紀元前四百年頃から紀元前三百年頃とされます。記紀に於て長壽と長期の治世が語られる場合、それは祭祀が正しく行はれ、天地の和が保たれてゐた御代であつた事を象徴してゐると私は考へます。大きな天災人災等の記錄が見えない事も、國が安らかに治まり、平安な御代が續いた事を示してゐると考へる事が出來ます。
 孝安天皇は第五代孝昭天皇の後を受けて第六代天皇として御卽位され、百二年の御治世の後に崩御され、第七代孝靈天皇へと位は次に繋がれます。孝安天皇の百二年の御治世は、御歷代天皇の中に於ても特に長く、初代神武天皇より第九代開化天皇に至るまでの御代の中にあつても際立つてゐます。
 このやうに見てゆく時、この御製は、長く安らかな御代の始まりに當り、天地の和を保ち、國の平安を祈る御心を以て詠じられた國祝の御歌であつたと考へられるのです。