以前、私は方言が怖かったという話をした。
(『方言が苦手③ ・④』参照)
でもこれは、自分の話す標準語を否定されたり
慣れないコトバ(方言)で言われることで怒られていると錯覚してしまったり
というのが主な原因だった。
方言はあくまで相手のコトバであり、自分のコトバではなかったから。
わからないが故の、恐怖だ。
だがしかし。
ある時友人から、私が抱いていたものとはまったく真逆の
“方言の持つ力”を教えてもらった。
彼女は教師をしている。
職場は北海道。
だが出身は九州だ。
日本を小さな島国と言ったのは誰だったのか…
日本は広い。
地域によって、コトバはもちろん
文化も料理も味覚も、街並みも年中行事も感覚も
みんな異なっている。
「京都の街は碁盤の目なんだよ!」と言うと東京や九州の子ども達は驚く。
でも札幌の子にとっては「それが何なの?」だ。
札幌の街も碁盤の目だからね(笑)
このように、同じことを伝えるにしても
地方によってその背景が異なるから、子ども達の持つ常識や感覚も変わってくる。
授業においてそんなことがあったと話してくれた彼女が
コトバについても教えてくれた。
「方言は普通に使うけどね。
子どもたちにとっては『これはこの人の言葉』っていう感じだね。
地元で地元の子たちを相手に使うのとはやっぱり違う」
どう違うのか。
それは彼女が同業の友人と交わしたという会話の中に答えがあった。
それによると、主に叱るときにその効果は発揮されるという。
つまり同じ方言を使う子どもたちに対しては、
方言で叱った方が子ども達に怖さが伝わるらしいのだ。
子どもたちは方言で叱られると、半端な恐怖するらしい。
それはつまり、教師だけでなく
子どもたちにとっても『自分の言葉』で伝えられているということ、
標準語や他の地域の方言で何かを伝えられるより
自分たちのコトバで伝えられた方がストンと中まで入っていくということだ。
そして「自分達が悪いことをしてしまった!」と本気で捉える。
これは私にはない感覚だ。
私にとっての方言はイコール標準語で
日本語とはいえ2つの言葉の感覚がある中では育っていない。
だから私は、方言のある地域で育った人が
テレビの中の人を「自分達とは違う言葉を話す人たち」としながらも
その言葉をカタコトではなく母国語として理解し操れるということが
自分の体感覚としては理解できない。
もちろん、標準語を話していると思っている人が
私から見ると完全に訛ってるよ!なんていうことだって
多々ありはするのだけれど。
(特に北海道は、そういう人が多くておもしろい。)
キツイ言い方や暴力的な言い方をされて怖かったとか
汚い言葉を使われて不愉快だったということはあっても
「こっちのコトバよりこっちのコトバで言われた方が真に伝わる」
という感覚は持ち合わせていないのだ。
おもしろいものだな~と思う。
私はどちらかというと、
“自分のコトバじゃない言葉”で言われた方がドキッとする。
ニュアンスがわからないし、誤解かもしれない恐怖心がわくことがあるから。
ましてそれが相手のコトバであれば、完全に太刀打ちできず
一方的に萎縮してしまう。
でも彼女の話は、それとまったく逆のシチュエーションを伝えてくれたのだ。
コトバって不思議。
方言て不思議。
『ネイティブ』って、本当は
「とてもとても小さなエリアで使われている個々の言葉を使っている個々人」
をさすのかもしれない。