先日、ナイジェリアからDさん(女性)が我家にやってきた。
ナイジェリアからのゲストは2人目。
前回はCさん(男性)、昨年の雪祭り直前のことだった。
「寒くない?」とたずねる私たちに
「大丈夫!コート着てるから」とニコニコ。
雪像を造っている現場をのぞいて我家へ足を踏み入れ
コートを脱いだCさんは半袖1枚だった…。
いくらなんでも寒いでしょ!(笑)
夫のフリース、大活躍。
そんな楽しい彼だった。
さて、Dさんに「以前Cさんという方がいらしたのよ」
という話をしたらおもしろい反応が返ってきた。
「ああ!Cという名前なら彼は○○地域の人ね。イボ語を話したでしょ!」
えっ?!
名前を聞くだけで、どこのエリアの人かわかるんだ!!
どうやらナイジェリアはひとつの国の中でも
北・東・西という地域によって、話す言語が全然違うらしい。
彼女は母国語は(確か)ヨルバ語。
それらの言語はまったく違っていて、お互いの意思疎通はできないと言う彼女。
だから英語が共通語として存在しているという。
そうなんだ~
だから英語が堪能なのね
そう思う一方で、私は何とも不思議な思いを抱いていた。
アフリカは多言語国家が乱立している地域。
無数の部族が異なる言語を話している。
だからこそ、飛び交う言語の中で育つうちに多言語を身につけるし
話せないと意思疎通ができない。
ゆえに10数ヶ国語、数10ヶ国語…と話す人たちが実際に存在している。
なのに彼女は言う。
「英語がないとコミュニケーションできない」
何だろう、この真逆の言葉は。
とてもとても、不思議だった。
確かに英語が共通語として存在していれば便利だ。
“多くの人が話す共通語”があることで、話せる相手は格段に増える。
話す相手が増えれば世界は広がる。
確かにその通り。
でも日本のような単言語国家ならともかく
ナイジェリアのような多言語国家で
自分の母語となる各言語の他は英語しか話さない、話せないというのは
とてももったいないように感じた。
多言語国家の柔軟性はどこへいってしまったのだろう?
そういえば…思い出した。
昨年出会ったインドネシアのDさん(女性)も同じようなことを言っていた。
「インドネシアはたくさんの現地の言葉があるの。
それはお互いわからないから、共通語はインドネシア語よ」
ナイジェリアのDさんの言う各地の言語も
インドネシアのDさんの言う各地の言語も
日本人のイメージしやすい『方言』とは異なる。
一番近い例をイメージするなら、『沖縄のことば』かな?
でも沖縄は物理的に距離の離れた島。
国内どころか他国とも隣接しているナイジェリアとは違う。
(インドネシアは数千の島から成っているから、
そこに要因があるのかもしれないけれど私はわからない)
『お互いわからない』
それは国民性なのか地域性なのか、はたまた時代なのか…
何とも残念! もったいない!!
ナイジェリア国内で、言語的に何が起こっているのか。
もっと知りたいv