地元の市長選が31日、告示される。立候補を予定しているのは今のところ2人。両者のマニフェストには「義務教育の給食費の無料化」や「市民税10%」、「保育料下げます」「水道料金下げます」などの文字が躍る。ある市議は「スーパーの安売り合戦のチラシ」と揶揄していた。あれをするから票をくれ、これをするから票をくれ。「こっちの卵の方が安いから買いに来て」と呼びかけるスーパーのチラシなのだ。
尊敬する元新聞記者のおじさんは2人の公約について、「政治家は、こんな街にしたいという夢をもっと語らなきゃ。夢や理想があって、そのあとにマニフェストが来るはずなのに」と嘆いていた。本来はベクトルが「理想や夢」から始まって、それを実現するための「マニフェスト」、「票」という順に向かうはずが、今の候補者2人は、「票」から始まって、「マニフェスト」で終わり、「夢や理想」が抜け落ちている。
票から始まる選挙は、「どうしたら勝てるかしか考えない選挙」だ。この選挙になると、候補者の選挙前の安売り合戦に陥ってしまうのは必至。あっちが給食費を無料にするなら、こっちは市民税10%オフで対抗だ―、と泥仕合になってくる。市民を愚弄している。
票から始まる選挙がなぜ起こるか。選挙には金がかかることが一番の原因だと僕は思う。市長選に出れば1000万円はかかると言われている。選挙事務所の家賃、カラー刷りのマニフェスト、車のガソリン代、政策を訴えるための特大看板―。選挙に勝って市長になれば年収二千万円と、それと同額の退職金が約束されるが、負ければ投入した金は水の泡。老後の生活資金が消えてしまう。つまり選挙に勝つか負けるかは、その人の死活問題なのだ。生活がかかっていれば、人は何としてでも勝とうとする。行き着く先は「スーパーの安売り合戦だ」。
ここまで来て僕は、学生時代に勉強したアーレントを思い出した。アーレントは『人間の条件』(ちくま学芸文庫)の中でこんなことを言っている。
ギリシャ時代の人々は、私的領域と公的領域を厳格に分けた。私的領域とは家(オイコス)のこと、公的領域とは政治(ポリス)のこと。生きていくための食べ物を得るための活動(アーレントは「労働」と呼ぶ)を家にいる奴隷や女性に任せて、つまり労働から自由になって初めて、公的領域で自由な言論活動ができたという。
今、激しい選挙戦を戦っている2人は、労働から自由になっていない。市民のためを思って、理想や夢を語れる政治家は結局、選挙に負けても生活に困らない大資産家か、貧しい生活をものともしない強靱な精神の持ち主のどちらかだろう。