この辺から始まって、 → 「虚しさと喜び」、「嬉しいとは」
雑記シリーズにもちょこちょこ書いてた内容を、
ここ1年ぐらいずっと引っかかってることを、
改めて整理して文章にしたいと思う。
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---(引用ここから)---
幸せとは 星が降る夜と眩しい朝が
繰り返すようなものじゃなく
大切な人に降りかかった雨に傘を差せる事だ
back number / 瞬き (作詞:清水依与吏)
---(引用ここまで)---
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1週間以上の旅行にひとりで行ったり、
ライブだって1枚で取ることが大半で、
それ以外もだいたいひとりでできる。
自分のやりたいことを突き詰めて、
自分のための時間を思いっきり楽しむことも、
別にひとりでやることに慣れてるし、
ひとりでいる限り、孤独感を感じることもない。
おひとりさまに対する白い目は弱まってるけど、
そんなものにらみ返してやるぐらいの心意気は持ってる。
と言いながら、
特に最近、虚しさを感じることが多い。
寂しいではなく、虚しい。
隣に誰かいてほしい寂しさではなく、
自分がやったことに対する無意味さ。
思い出を共有する相手がいない。
ひとりで楽しんだ時間はひとりで覚えてないといけない。
そして、自分の記憶が事実であることを
誰かと確認することもできない。
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記憶をひとりで抱え続けなくてはならない虚しさ。
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時間が経つほどに記憶の輪郭がぼやけてくると、
風で消えてしまう砂浜の絵のように思えてくる。
自分がしたことが自分にとってどゆ意味を持つのか、
それすらも忘れてしまうような気がして虚しい。
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思い出を共有する相手がいないの、
年取ってからのがよりしんどくなると思うんだよね。
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誰かとの思い出なら、
ひとりで抱えていても、
例えおぼろげになっても、
そのときの人の心の温みを、
感じることができる。
けれど、
ひとりの記憶に人の温みはない。
どんなに心が動かされようと、
そこに温みはない。
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ここ最近、誰かと関わることで
心が暖かくなったことはありましたか?
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逆は吉澤嘉代子だったりする。
例え直接言葉を交わさなくても、
心が通ったときの暖かさをもらえるから。
彼女の音楽を聞いていると、
自分が敬愛している音楽に対して、
私も好きだよ。
って言ってくれてるように感じられるから。
(こゆ勘違い、ときには大事)
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なんでこゆこと思うんだろうと、考えてみたんだけど、
心と心を通わせる、想いを理解し合うような
人の温みを感じる関わりがないんだよね。
継続性のある関係の中で、
同じ景色、同じ感情、同じ経験を通して
絆みたいなのが出来てる人がいないんだよね。
つまり居場所がどこにもないから起こっている。
といっても正確には、色々なところに顔を出してるんだけど、
仲良くなった感覚が薄いというか、
分かり合えない感覚ばっかり残ってしまったり、
意外とすぐ関わりがしぼんでいってしまったり。
そのコミュニティの色に染まれないからなんですが。
そして、仕事人間ではないので、職場にも居場所はない。
席があっても居場所はない。とは結構言ってる気がする。
自分が汎用性の高い人間じゃない、
ニッチな世界じゃないと生きていけない自覚はあるので
ひたすらに多方面に乱射してくしかないと思ってるんだけど、
果たしてこれが努力の方向性として合ってるかわからない。
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---(引用ここから)---
自分本当に利己的で自己中な人間だと思っているのだけど、自分の利益だけを最優先に突き詰めると最終的には「好きなひとたちと仲良くなり一緒に美味い飯を食うことが幸せ」というところにたどり着くものと思う。
自分の幸せを突き詰めれば突き詰めるほど「自分ひとりで幸せになることは出来ない」というところに帰ってくる。
from 辺川銀 (@penkawa_gin) その1 その2
---(引用ここまで)---
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BGMは パスピエ の ネオンと虎 (Al)
ツアーも楽しんでます。あの曲とかこの曲とか、、(言えない)