一度2019年8月に上げてるんだけど、
芯になる言いたいことと違うことを書いてると思ったので、
2019年10月に書き直しました。
旧版もそのまま下に残しておきます。
なんかまだ100%じゃない気がする。
 
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何かをしてもらったときに「ありがとう」とお礼を言う。
礼儀であり、常識である。

してもらった子供は「ありがとう」の意味はわかってる上で、
感謝の気持ちを持っていない様子だったけど、
大人にうながされて投げやりに「ありがとう」と言う。
 
「ありがとう」を言われた側は子供相手であることを理解した上で
笑顔を見せてその場をあとにした。
 
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感謝の言葉を言われないよりは言われた方がいいけれど、
言葉の奥にある思いは想像以上に伝わるもの。
一緒に納得していない投げやりな思いも届いていく。
言葉の意味とちがうものが届いていってしまうのではないか。
それならば言うことに意味はあるのだろうか。
感謝の言葉として意味をなしていないのではないのだろうか。
 
礼儀であり、常識であるものだから言わせて、
形だけ言ったとしてそこに意味はあるのだろうか。
受け手は思ってもないこと言われて何を思うのだろうか。
 
---(旧版)
 
2013年10月頃の下書きにお直しを加えて。
これ、何度も書こうとしてはうまくいかなくて寝かせてたんだけど、
やっとうまくまとめ上げられたわ。
 
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何かをしてもらったときに「ありがとう」とお礼を言う。
礼儀であり、常識である。

してもらった子供は「ありがとう」の意味はわかってる上で、
感謝の気持ちを持っていない様子だったけど、
大人にうながされて投げやりに「ありがとう」と言う。
 
「ありがとう」を言われた側は子供相手であることを理解した上で
笑顔を見せてその場をあとにした。
 
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何かをしてもらったときに「ありがとう」とお礼を言う。
礼儀であり、常識である。
ただ、それを当たり前としていることに何も疑問はないのか。
 
誰かの役に立てることは喜びを伴う。
犠牲に対する対価はそれで十分なはずなのに、
さらに相手に感謝の言葉を要求する。過剰ではないか。
 
むしろ役に立てた喜びが大きければ、
「役に立たせてくれてありがとう」と言ってもいいのではないか。
 
礼儀の名のもとに、常にしてもらった側が「ありがとう」。
これでいいのか。微妙な違和感を感じた。
 
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してもらえるのが当たり前だと思うな。そりゃそうだ。
でも、"ありがた迷惑"なんて言葉があるように、
してもらったことが嬉しいこととは限らない。
してもらったことが嬉しかったら「ありがとう」でいいのではないか。
 
感謝の言葉をもらいたいありきの貢献は
自己犠牲からくるただの自己陶酔の押し付けではないか。
 
ありがとうと言われないと収支が釣り合わないなんて
そんな無理な貢献なんてしなきゃいいのに。
 
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人は根源的に誰かの役に立ちたいと思っている。
誰の役に立てないまま生きていても心は死んでいる。
貢献によって居場所(承認)を与えてもらってる。

健全な貢献感に支えられる居場所があるうちはいいけど、
逆転して居場所のために不健全な貢献をし始めてしまう。
貢献感の中毒性に絡め取られる。

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BGMは Official髭男dism の Pretender (Sg)
勢いあるだけでなくめっちゃいい曲書くなって思った。